ダム建設で揺れた地域であり、昔から知られるミステリースポットでもあった深山幽谷の廃屋。しかし調査を進めると歴史や地形から集落跡だったことが判明、その最後の一軒だったこの家屋を巡る様々な噂の検証と史実を解き明かした詳細レポートです。
埼玉県│新井さんの家
調査:2011年04月
公開:2013年05月03日
名称:大仁田集落
状態:2012年01月に解体済
旧サイトで公開していたレポート内容を2024年現在の調査内容に統合して再エントリーしました。また古くなった情報などは精査して削除しております。
拡散された噂はただの法螺話だった
この地に関する根拠のない噂が独り歩きしたことで意図せず有名になった一軒の廃屋、いつしか「新井さんの家」としてネットを駆け巡った作り話は原型を留めない法螺ばかり。そういった想像の産物を払拭する為、スゴログでは詳細な調査を行いました。
判明したのは凄惨な事件も事故なく、ダム建設に揺れた地域移転問題の歴史でした。2011年の調査に加え、旧サイトでは不足していた各種情報を追加精査して2024年現在の正確な情報をお届けしたいと思います。
この場所が一般的に脚光を浴びたのは以下のサイト、
探偵ファイル - スパイ日記シリーズ 特捜班心霊紀行「新井さんの家」
https://archive.is/HUKiD
https://archive.is/HUKiD
このレポートから。地域では子供の肝試しスポットとして知られてはいましたが全国的に認知されたのは間違いなくレポートでしょう。
当時の記事内では
このような地図が掲載されており、周囲に新井姓が多いことから新井さんの家と呼ばれたのだと思われます。数々の作り話は、
この事件がどうやら法螺話のベースで地域での噂が独り歩きした結果が現在の有様に繋がったのだと予想されます。つまり当時の時点で真実は語られていたのですがセンセーショナルな部分だけを切り取られてしまい、更に尾ひれがついたことで原型を留めない作り話へ繋がったのでした。
さて、スゴログが詳細な調査に乗り出すほど興味を引かれたのはこのポツンと建っている家屋の場所、そしてその理由にありました。北上すれば直ぐそこには神流湖、つまりは下久保ダムの存在です。この地域一帯はダム建設に際し移転問題で揺れた該当地区であり、また地域の開発に由来する物語が必ずあると確信していたからでした。
この一軒家の歴史を紐解く前に少しづつどういった場所なのかをご紹介しましょう。
このロープの向こう側左右に建造物が残っており、右側は家屋で左側は作業小屋兼倉庫として使用されていました。
2011年頃、草木が刈られ2012年に道路側の家屋部分を解体。既に崩落していた小さな倉庫なども改めて解体され現在は作業小屋兼倉庫が残るばかり、これには理由があって道路側の家屋が自然崩落する危険性があり行政が介入したそう。
確かに高台から崩落すれば道路側に残骸が崩れ落ちる可能性は以前より指摘されていました。
こちらが解体された家屋部分、高台と斜面に掛けて建てられていて道路側一階部分はかなり崩落が進んでいました。
斜面故に道路側に崩落するのは必然で、その前に解体となったのでしょう。
改めてこの母屋の作りを見てみましょう、すると内部には水回りがない古い建造物だということが判ります。この形式は1800年代後半から1900年代前半に掛けて作られたのだと予想できます、戦中戦後の1940年代以降は竈や厠などは母屋の中に作られるようになっています。
つまりかなり古い時代に建てられた家屋なのです、壁面は土壁ですが二階建てというのはこの時代では珍しく、山村などの平地が限られた場所ではたまに見る程度です。この建造物を目にして最初に思い出したのは東京都の奥多摩にあった峰集落、この集落には有名な通称タイムマシンの廃屋でした。
平屋ですが同じ奥多摩の倉沢集落でも同様の作りの建造物を見ています、やはり年代的に1800年代後半に作られたものだと判ります。
東京都奥多摩町峰 - HEYANEKOの旅心のページ
https://archive.is/Yl5DD
https://archive.is/Yl5DD
東京都奥多摩町峰,倉沢 - HEYANEKOの旅心のページ
https://archive.md/5Ncv7
https://archive.md/5Ncv7
来訪当時の2011年、床という床は抜け落ちて人が歩ける状態ではありませんでした。足先に力を込めるとミシミシと木が軋む音が響きます、既に崩落が近かったのでした。
風呂小屋。
この家屋が建築された時代は母屋の中ではなく、水は外か別棟が当然でした。右側は炊事場で左側は風呂と連なるのは全国各地の古い廃村でもよく見られる形式です、奥に見えるのは薪置場。
近年新井さん家として取り上げられる事の多かった建造物、こちらは唯一残っている作業小屋兼倉庫。どうみても住居ではありません、奥に見えるのは農機具や燃料を貯蔵していた小さな倉庫ですがこちらも半壊しています。
中は階段が崩落する前に二階から降ろした母屋の家具、家具、布団などが朽ちています。人が生活していた頃は農作業に関する倉庫として使用されていました。
農機具や燃料が貯蔵されていた小さな倉庫。
まだこの一軒家がナニモノか判明していない状況での探索でしたが背面の石垣を見て不思議に思いました、スゴログが興味を引かれたのは実はこの石垣だったのです。
改めて周囲を観察すると家屋の周りだけでなく、斜面の山奥に石垣は延びています。しかも壇上に平地を確保し、棚田のように石垣が構築されているではありませんか。
山中の廃村でよくみる風景です、探索範囲を家屋の周囲から裏手の山中に移して予想が真実かどうかを検証するとしましょう。
恐らく、この場所は集落だった筈です。
廃村だった大仁田集落
廃屋裏手の石垣が気になり、斜面を登ってみると棚田のようなつくりで平地が整備されており、それが複数確認できました。
上方から水路も用意されており、所々に竈のような炊事場の痕跡も見られます。間違いなく、この場所は廃村です。
ここからは現地の聞き取りや行政から提供された資料、机上調査の内容を併せてレポートを進めていきます。
江戸時代中期から後期、利根川水系柚木川の川沿いに家屋が集まり、集落となりました。これが大仁田集落です、新井さんの家と呼称されるこの家屋もこの大仁田集落の一軒でした。集落には同姓が多く、集落跡の北側には新井姓の集合墓地が残されています。
注意点
おなじアライ読みですが新井姓の他に荒井姓も確認されています。旺盛時は隣接する形で柚木(ユヌキ・ユノキ)という集落もありました、これは古い地名「柚木」から取られていて河川名の柚木川も同様です。
中央に家屋が二軒描かれていますがこれが大仁田集落だった場所、現在の新井さんの家ですね。
1995年の航空写真に道路のレイヤーを重ねます、ダムへ向かう谷間に流れる河川が見えますがこれが柚木川。柚木川の西側斜面に集落が形成され、この河川を水源として山間部における棚田農業が行われていました。
地域毎に計画伐採が行われていたので山肌が露わな部分もありますが田畑は既に姿を消しています。
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注意点
ロールオーバーで画像を切り替えて下さい(PC閲覧時のみ)
1960年の航空写真、大仁田集落には新井さんの家の他に数件の家屋が建っています(記録では5軒7棟+小屋数件)。
新井さんの家の南側直ぐそばを水路が延びて3軒の家屋と田畑、現在の集合墓地の脇にも水路が延びていてやはり田畑が形成されています。
柚木川のS字クランクの谷間から扇状に集落が形成され、斜面上部へ広がる一般的な山間部集落とは逆の形状が見てとれます。
注意点
通常の山間部における集落形成は上部に家屋を密集させて低地へ向かい田畑を広げます、これは水源の生活利用と農業利用の区別が簡易な事や収穫時に軽い状態から低地へ向かう農業的合理性に伴って自然と同じように形成されているようです。
ロールオーバーで現在の道路をレイヤーで重ねます、どうやらダム建設時に大きな交通整備が行われたようで現在とは大きく異なります。
廃屋敷地の入口左側、現在は法面整備されていますが古くは石垣だったこの場所から斜面を登るように作業道が見てとれます。
その道筋は迂回するように廃屋の裏手へ延びています。
一段上ると平地整備された箇所が石垣で区分けされています、50メートル程先には先ほどとは別の水路も確認できました。
井戸の残骸、既に埋められています。
注意点
裏手斜面には複数の井戸の残骸があります、既に埋められてしまったものの他に浅いながら人が落ちてしまうものもありました。中には井戸のような円筒状の石造物もあり、年代が刻まれています(昭和十七年八月製 三十三年三月再製/昭和三十三年三月十二日)。この石造物は隣村であった柚木集落にもあり、そちらにも同様に年代が刻まれています(昭和三十三年 三月八日)。
また別の場所(平地)では昭和初期と思われるやかんや食器が残されていました。
複数の家屋の形跡や集落としての生活の痕跡が確認できたことでこの場所が廃村であることに確証がもてました、ここから裏付け調査として各関係資料と机上調査を進めてどのような集落だったのか、何故廃村へ至ったのかを紐解いていくとしましょう。
ダム建設反対運動の該当地

1947年、台風による大打撃を蒙った利根川流域の治水事業として河川改訂改修計画を立案。神泉村では1965年から工事が開始され1968年に現在の下久保ダムが完成しています。実際には群馬県の鬼石町と万場町、埼玉県の神泉村と吉田町の二県四町村にまたがる321戸・364世帯がダム建設による水没対象地域となりました。
下久保ダム - ウィキペディア
https://x.gd/Uerto
https://x.gd/Uerto
件の大仁田集落はこの該当地域の際(きわ)に位置し、補償と転村移村問題で揺れた歴史的にも興味深い場所です。
航空写真は水没前と水没後の人造湖(ダム湖)、神流湖の位置関係。
注意点
ロールオーバーで画像を切り替えて下さい(PC閲覧時のみ)

大仁田集落はここです。
注意点
ロールオーバーで画像を切り替えて下さい(PC閲覧時のみ)
1960年の航空写真を確認すると新井さんの家が描かれています、周囲には複数の家屋と田畑、それに現在とは違う細い道路が確認できると思います。写真西側は山の斜面で東側は河川がある谷になります。
南側の砂防ダムは再整備されて同じ場所に現在もあります、道路からも確認可能です。
当時の航空写真と現在の状況をストリートビューを使用して見てみましょう。
現在も残る作業小屋兼倉庫、草木に隠れて見え辛いですが唯一の残存建築物です。
こちらは母屋、既に解説の通り解体されています。
隣家、こちらは道路から石垣だけが確認できます。
写真の通路は現在墓地へのアクセスルートになりました、墓地の敷地には当時大きな家屋が建っていたことが判ります。稜線へ向かう幾つかの作業路跡脇には小規模な墓石があり、こちらはかなり古い物でした。
生活道路を挟み、大仁田集落は南北に延びていました。水没対象地域ではありませんが周囲では大仁田集落を除く殆どの集落が水没、もしくは部分水没の為の転居や移村を余儀なくされている状況下で村人たちは自分たちの未来を憂う反対活動を活発化させます。
下久保ダムの記録・下久保ダム連合対策委員会(1970年発行)の145ページ~152ページにかけてこの地域の簡単なダム建設記録が記されています。
下久保ダム建設
利根川綜合開発計画として、鬼石町大字坂原の琴平峡谷を塞止めてダムが作られると聞いていた。その計画とちがった新たな下久保ダムが建設されることで、保美濃山、坂原は対岸埼玉県の神泉村矢納、吉田町太田部と共にその大部分が湖底に沈むと聞いて、果して本当なのかと疑ったことであった。
昭和三十三年予備調査同三十五年実施調査と次々に計画の発表があり、作業が進められた〇そうして用地の買収をせまられて、対策委員会の設立となりその会議が度々開かれたり、住民の総会や公団の説明会等が次々と繰り返し催された。その結果として多目的の此のダムが公共福利をもたらす、必要な建設であることを理解し水資源開発公団の買収に応じたが、此の間に町や県当局の協力指導斡旋には感謝したものの、止むなく移転すること、再建とゆう難事にむかって、住民すべてが忍び難きを忍んで来たのである。此の苦悩はここに表しつくせるものではない。
(一部抜粋)
計画当初から事業推進派と反対派の衝突はありましたが補償が手厚い水没地域違い、大仁田集落は周囲の開発から取り残される状態で例え残ったとしても発展はなく、急激な衰退に耐えられず間もなく廃村となるのは誰もが理解していました。
また治水状況が大きく変化する為、山間部での農業にも支障がでると予測され、生活そのものが脅かされる危機的状況だったのは予想に難くないでしょう。
川向うとの行き来もダムができることで大きく迂回を余儀なくされ、集落の住民は一貫して反対の立場を取っていました。
三、産業、経済
住民の殆が農業であるが、山間地農業で耕地は狭く且つ急傾斜地である。土地は南面傾斜地であって古生層地帯の為地味は割合に肥沃である。
大正年間までと戦中戦後の食糧不足に対して開墾(アラク)をかなり行ったが今はあまりない。尚戦後の米不足時に開田に苦辛したが僅少な水田を得たにすぎずしかも再び畑と変る傾向である。
耕地は概ね神流川に沿った低地から山頂に向った段々畑で先祖の時から労苦をかさねて造成した石垣によって作られた狭い畑である。
此の畑のつきる処から上方山頂に至るまでが山林になって、杉の植林がその大部分をなし当町内三波川谷に次ぐ森林地帯である。
(一部抜粋)
現地で見聞した通り、当時を記した資料にも「山間地農業で耕地は狭く且つ急傾斜地」とあり、その殆どをダム建設によって大きく変貌する神流川からの水源に頼っていたと記載されている。
移行数ページに渡り、水没地域に関する文化・歴史・地理に関して語られていますが対象外の矢納集落に関しては記載がありません。
注意点
農業は主にトウモロコシ、コンニャク。コンニャクが安価な時代は和紙のノリに使用するタモの栽培、また養蚕も小規模ながら行われていたそう。
他にもこの大仁田集落を含む神泉村矢納では面白い風習がありました。
埼玉県伝説集成/分類と解説/別巻・辰図書出版(1977発刊)にて「五月幟をたてない話」があり、この地域は五月の節供にこいのぼりを立てないとあります。この風習については
昔、平将門が石間の城峰山に落ち延びて立て籠もるという事件があった。この平将門の追っ手が来て戦いとなり、矢納まで来たが、火を燃やして煙が上がり、居場所がわかって攻め滅ぼされたという。これが五月の出来事であったために、こいのぼりで目立つといけないということで、こいのぼりを立てなくなったという。その後、この伝説に背いてこいのぼりを立てたところ、長男も次男も亡くなるということがあった。こうしたことがあって、その後もこいのぼりを立てないという。
(一部抜粋)
とあります。この珍しい風習については地域の歴史資料や「児玉郡・本庄市のむかしばなし・続」などにも同様の記載がありました。
水没地域と一蓮托生となった生活基盤

注意点
一度クリックしてからロールオーバーで画像を切り替えて下さい(PC閲覧時のみ)
1960年と現在の様子、中心地点が今回の調査対象となった新井家の敷地。当初はこの大仁田集落も水没の恐れがあった為に大きな反対運動があったとか、記述の通りそうでなくとも周辺から生活感の凡そが消え失せる為に多方面に渡って不便を強いられることから地域住民との協議は難航。
結局は治水事業が優先され、新井家も含めて大仁田集落の人々は移転したのでした、ダム建設につき集落の上流域の水源は確保されていたものの水質や湧出量の変化は著しく、移転後も管理されていた田畑も放棄されて完全な廃村へと至ります。
建設が開始された当時の山岳地域、該当地区は大きく掘削されて撤去される家屋もあったが場所によってはその間々水没した箇所も多数ありました。
下久保ダムが完成してから7年後、1976年の夏に表面取水設備を設置する工事の為に水位を下げた時期がありました。
これはダムの構造が水深 73 mのダムの底から取水する仕組みになっていたため、下流の神流川に出てくる水は夏でも水温 12 ~ 3℃と冷たく、下流の農家から「農作物の生育が悪くなった」など苦情が相次ぎ、表面(20℃の水温)からの取水に切り替える工事が実施されたことによるも
のでした。
下久保ダムものがたりより引用
ダム湖の湖底からは建設時に沈んだ故郷がその姿を残しており、元住民など地域の人々が見物に押し寄せました。この時の記録写真は1000点以上にのぼり、地域住民の関心が高かったことを反映してかその後開かれたシティギャラリーも大きな反響を呼びました。
これらに関しては以下のリンクより抜粋しております、更に詳細を知りたいかたは是非一読ください。
下久保ダムものがたり
https://x.gd/Lq3Hc
https://x.gd/Lq3Hc
拡散された情報の真偽を確かめる
最後にこの廃屋が本当に「新井」さんのお宅だったのか、それを検証したいと思います。
この廃屋があった大仁田集落、下久保ダムの運用開始に伴い廃村となりましたが1960年代までは集落としての体を成していました。つまり一家屋毎に住所が振られていた筈、そこから不動産登記を追えないか調査をしてみました。
一番はじめに確認するのはウェブサービス上のマップで住所が表示されるか、です。
グーグルマップでは正確な住所の表示はなく、「埼玉県児玉郡神川町矢納」と記載されています。ヤフーマップでも同様の検索をすると「埼玉県児玉郡神川町大字矢納」と表示されます、こちらは「大字」が追加されていますね。
しかしどちらも住所が地名で途切れています。マップファンやマピオンでも結果は同じ、唯一いつもNAVIの地図サービスのみ住所が表示されましたが全く別の住所でした。
次に考えたのは法務局の提供する登記・供託オンライン申請システムや登記情報提供サービスから登記簿を取得する方法でした、しかしどちらも不動産番号や正確な住所が必要です。住所が判らないのにその住所を調べる為には正確な住所が必要なのです、これは困りました。
森林簿は正確な住所は辿れないので埼玉県の地域森林計画に関する資料を探してみるとPDF資料の1ページに凡そではあるけどこのような図が。
配色を見るに該当地はやはり民有地のよう、ならば森林位置図はどうだろうか。
大仁田集落を含む神流湖付近はまだ未調査でした、最終手段の神川町に直接問い合わせるしかなさそう。さいたま地方法務局本庄出張所で対応して頂いた職員さんも恐らくその方法しかないだろうとのこと、これらを踏まえて山林地域の住所確認が非常に難しいことが今回改めて判りました。
そこからは神川町役場のYさんが税務課とやり取りして頂いたり林業担当の方に話を聞いてくれたりと随分とお世話になりました。納税実態が消滅(廃村)してから半世紀以上、役場の方でも正確な住所が判らず幾つかの候補を提示して頂けました。
更にその住所で周辺地域の登記を上げ、やっとの思いで大仁田集落(新井家)の正確な住所が判ったのでした。
注意点
個人所有の敷地の為、正確な住所の掲載は控えさせて頂きます。
1960年代と1970年代ではダム建設に伴って地形が大きく変化していますが作業道や山中の生活道路も変化しています、また現代にまで遡れば更に整備状況が異なるので完全とはいきませんがどのような土地の振分けか公図から確認してみましょう。
現代の道路状況と近しい1970年代の航空写真を重ねてみます、山中の道路がダム工事によって大分様変わりしました。
縮尺や傾きにややズレがありますが凡そこのような状況だったと思われます、新井家は地図中央の「←道」と書かれた場所付近となります。公図からは広い敷地だったと判りますね、それにしても凄まじく入り組んだ複雑な土地の振分けです。
注意点
公図の作成は明治時代の地租改正に伴い作成されたもので現状の道路状況や実際の地形とは大きく異なる場合があります。これは明治時代の測量技術が現在に比べてかなり低く、今回もレポート作成に際し参考程度とスゴログでは考えています。故に、掲載されている公図による検証はあくまで予測の範囲であり、確実性に関しては今後の地籍調査がまたれるところではあります。
公図と現況のずれQ&A - 国土交通省
https://gaikuchosa.mlit.go.jp/gaiku/html/info4.html
https://gaikuchosa.mlit.go.jp/gaiku/html/info4.html
丁度複数の地権者の境界線付近の為、アタリを付けて近辺の登記簿を端から取得していきます。するとありました、予想該当地の廃屋と思しき土地の利権者の名前が記載されています。
やはり新井姓でした、しかも宅地としてカテゴライズされています。これで名実共に、長きに渡り「新井さんの家」とされてきたこの物件が本当に新井さんの家であったことが証明されたわけです。
隣接する土地も見ていましょう。
同じ方が所有されていますね、こちらも宅地として登記簿に書かれています。
注意点
更に追跡調査を行いましたが殆どの方が群馬県へ移転しているようです、神流湖から直ぐ傍に引っ越されている方もいらっしゃいますが遠方への移転が多いです。
ミステリースポットとして全国区に認知された新井家、その歴史を辿るとダム建設とそれに伴う生活の変化で人生を翻弄された集落の物語がありました。
その物語はハッピーエンドではありませんでしたが現在に至り、まだその足跡を辿れるのは僥倖と言えるでしょう。
残された一軒家から始まった調査でしたがどうしようもない馬鹿げた噂の裏側には語られるべき歴史が隠れていたことに驚かされました、今回は以上となります。
読者から情報提供です。
以下のサイトにも円形の井戸と思われる遺構についての記述があります。
村影弥太郎の集落紀行 - 大仁田
注意点
この円形遺構の大きな写真をお持ちの方がいらっしゃいましたらご連絡ください。
この遺構について農業関係者から明治後期や大正時代に使用された小型サイロの台座ではないか、と情報を頂きました。確かに大仁田集落では極々小規模ながら畜産(牛の飼育)がされていたとの証言もあります、スゴログで小型サイロについて調査しましたがこの遺構と思われるタイプのサイロは発見できず。使用用途をご存知の方がいらっしゃればスゴログまでご一報願います。
参考・協力
埼玉県
神川町役場
さいたま地方法務局本庄出張所
埼玉新聞
埼玉県立久喜図書館
群馬県教育委員会
埼玉県農林部農地活用推進課
埼玉県企画財政部地域政策課
三波石峡資料館
水資源機構下久保ダム管理所
神川町観光協会
下久保ダム水没地の民俗・群馬県民俗調査報告書7/群馬県教育委員会
下久保ダムの記録/下久保ダム連合対策委員会
下久保ダム周辺の環境整備事業/埼玉県立浦和図書館
神泉村過疎地域振興計画/神泉村
レポートの場所 ※ GoogleMap登録済
注意点
該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。
注意点
該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。
スゴログの装備とその使用方法など
https://www.sugolog.jp/p/blog-page.html
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