戦後観光洞として一般公開された鍾乳洞、しかしその歴史は地域土着の山岳信仰の対象として古くから人々が集まる場所でした。都内有数の広大なケイブシステムを擁し、地底湖も複数存在するケイビングビギナーには非常に好ましいロケーション。現在は入洞禁止となり、一般調査は不可能となりました。
東京都│倉沢鍾乳洞
調査:2012年09月
再訪:2016年05月 / 2017年05月
公開:2012年11月13日
名称:笙ノ岩山倉沢谷 倉沢鍾乳洞
状態:アプローチ崩落及び洞内崩落の為非常に危険(入洞禁止)
調査:2012年09月
再訪:2016年05月 / 2017年05月
公開:2012年11月13日
名称:笙ノ岩山倉沢谷 倉沢鍾乳洞
状態:アプローチ崩落及び洞内崩落の為非常に危険(入洞禁止)
旧サイトで公開していたレポート内容を2023年現在の調査内容に統合して再エントリーしました。また古くなった情報などは精査して削除しております。
尚、掲載写真は2012年当時の解像度が低いものは削除して2016年に再調査した際のものに差し替えてあります。
かつて観光鍾乳洞だった倉沢鍾乳洞
東京都の鍾乳洞といえば日原鍾乳洞が有名ですが1980年代、奥多摩の奥地にも簡易整備された観光洞がありました。廃村でも知られた倉沢集落の更に先、この廃村とも深い関わりがある倉沢鍾乳洞を今回レポートします。
スゴログがまだスゴログではなく個人で活動していた頃、全国の鍾乳洞でケイビングの経験を積んでいた頃に教えて頂いたのがキッカケでこの地の歴史に興味が湧きました。僻地工業でも名を馳せる奥多摩工業と800年にも及ぶ山岳信仰の信仰地にして修験者が集う場所、それが倉沢地区なのでした。
既に解体されてはいますが廃集落として有名な倉沢集落はこの場所です。林道倉沢線を北上して林道の突き当りに倉沢鍾乳洞は今も大きく口を開けています。
目印となる魚留の滝手前の魚留橋は現在崩落しており、ここから旧道へは徒歩でしか歩けませんが周囲の風景を含めとても美しい自然が残されています。スゴログでは過去に倉沢鍾乳洞の他にもこの魚留の滝でのシャワークライムも企画して楽しませて頂いた思い出の地でもありますがそのお話はまたの機会に、ヤマップで見つけた滝遡上のレポートをリンクするので参考にどうぞ。
魚留滝登攀…の為の倉沢本谷 - YAMAP
https://x.gd/2gKCe
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倉沢鍾乳洞、過去に観光洞であっただけにケイビングとしてのレベルは非常に低い、しかし管理を離れた自然の穴であることに違いはなく、また外部団体や公のレスキューは期待できない為に確かな知識と準備、そして経験が必要となります。
その点に関する注意喚起は以前レポートした石舟沢鍾乳洞を一読頂ければ、と。
また日本洞窟学会による近年の洞内事故報告を是非見て欲しい、事故の過去例が掲載されています。
洞窟救助委員会 - 過去の事故例
http://www.speleology.jp/rescue/incident.html(アーカイブ化)
http://www.speleology.jp/rescue/incident.html(アーカイブ化)
この鍾乳洞へは日原鍾乳洞へと歩を進め、倉沢橋を渡って直ぐの丁字路を右へ折れ林道倉沢線へ。林道終点付近の多摩川水系日原川支流倉沢谷を渡り笙ノ岩山西側壁面を片面掘削したアプローチを進みます、回り込むように絶壁をクリアすると大きく左右に開口した鍾乳洞入口が眼前に現れるでしょう。
注意点
川向う登攀途中に大きなゲートが設置されており、立入禁止されています。更にその奥には鉄柵が用意されており、この策を超えた辺りから崩落が進んでおり足場が殆どない場所もあります。
現在の管理団体は地主から委託管理を委任している一石山神社ですが近代においては社務所や宮司はおらず、日原鍾乳洞を管理している日原集落の氏子さんが神社と共に双方の鍾乳洞を代理管理している状態です。
観光洞運営時の洞内事故の補償問題の為に閉鎖された過去を持つため、この鍾乳洞がオープンになるのは恐らく今後ないと思われます。近隣の日原三又鍾乳洞は鉱山法及び洞内保存のため閉鎖、不老鍾乳洞(この鍾乳洞も非常に危険でした)や養沢鍾乳洞も基本的に入洞禁止となっています。
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改めて国土地理院の周辺地図を見ると倉沢谷を隔て両壁が切り立っており、笙ノ岩山の西側壁面の絶壁部分に開口していることが判ります。ケイブシステムは以外にも複雑で内部へのアプローチは複数存在します、今回はメジャーな観光洞当時の正面左側から、右側は上下構造で直ぐに行き止まりです。
注意点
右側も内部で通じていますが人の行き来は困難です、別の場所に開口している入口は少々危険な為に不掲載としました。横穴の他にも竪穴もあります、チムニー必須。
旧観光用歩道を登り詰め、入洞します。大まかに三層構造で構築されており、中層と最下層に洞内池があります。戦後間もなく整備が進み、1980年代初頭までは観光鍾乳洞として賑わいました。特に上層部と中層部は簡易整備されており、中層の地底池のひょうたん池は危険もなく地下水脈を見ることができました。
下層へはロープワーク必須でやや危険を伴います、この下層エリアはアリの巣状に小部屋が複数形成されていて最奥の30cm程のクラックから更に深層部へ行くことが。しかしセルフレスキューの技術と知識、自重を支えられる腕力と身体の細さが要求されます。この先が最深部の水晶池です、現在狭窄部分に土砂が堆積している為に水晶池まで行くのは非常に困難です。
洞内は山岳信仰の場として知られており、倉沢集落の人々がこの地に根を張って以降も地元民と共に信仰対象とした笙ノ岩山の一部だったこともあり、大切な場所として周知されていました。
江戸時代には倉沢山大権現として上野寛永寺の支配を受けていた霊場として知られていた事から実は歴史的なエピソードも多い。奥多摩を記した文献によれば山村が開かれるずっと以前より修験道の修行の場として人々が出入りしていたとの記述も。
注意点
この鍾乳洞を管理運営していた方は「坂和」姓、古くに開かれた倉沢集落は全ての住人が坂和姓で倉沢鍾乳洞管理人もこの倉沢集落出身でした。その後1944年に日原鉱業所が稼動を開始し、この地に倉沢社宅を建設すると元の山間部の住人と社宅住人が混ざり合い、最盛期には200人を超す山間集落と発展しました。
しかし1958年に完成した日原社宅への移行が進み、1967年には無人化。と、いっても少し南へ下れば最後の住人と名高かった倉沢の仙人こと「坂和連」さんのご自宅がありました。倉沢集落最後の坂和姓だったこの方は倉沢鍾乳洞の管理人とも親密な関係にありました。
坂和さんは2005年に97歳でこの世を去り、その後この集落全体が同年(11月)に解体されてしまいます。倉沢集落において坂和姓は代り映えしませんがこの坂和さんは650年前程以前にこの地へ移住する際には「神職」として同行した一家の末裔、つまり信仰の対象とされてきた倉沢鍾乳洞の管理にも深く関わっていた事になります(実際に最終代であった坂和さんも神職でした)。
しかし1958年に完成した日原社宅への移行が進み、1967年には無人化。と、いっても少し南へ下れば最後の住人と名高かった倉沢の仙人こと「坂和連」さんのご自宅がありました。倉沢集落最後の坂和姓だったこの方は倉沢鍾乳洞の管理人とも親密な関係にありました。
坂和さんは2005年に97歳でこの世を去り、その後この集落全体が同年(11月)に解体されてしまいます。倉沢集落において坂和姓は代り映えしませんがこの坂和さんは650年前程以前にこの地へ移住する際には「神職」として同行した一家の末裔、つまり信仰の対象とされてきた倉沢鍾乳洞の管理にも深く関わっていた事になります(実際に最終代であった坂和さんも神職でした)。
雛壇状石灰鉱山集落跡の謎に迫る - 東京都奥多摩町倉沢
http://heyaneko.web.fc2.com/dj31.html
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洞口左側より入洞します、観光洞だった頃は最初の斜面に木製階段が設置されていましたが現在は朽ちており最初からラぺリングで降下することになります。
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ここで10メートル程降下すると無限ヶ谷と呼ばれる開けたテラスに出ます、このテラスより右側の洞口へもアクセスできます。左手には再度斜面が現れます、ここから再び15メートル程上昇してメインの洞内へ。この場所は剣ノ峰を呼ばれ、観光洞だった頃の観光ルートのスタート地点でした。
断面図でみると判り易いと思いますが剣ノ峰以降は緩やかな昇降ですが内部は右往左往の迷路状にケイブシステムが発達しており、蟻の巣状に小さな空間が多数に存在します。
一部チムニーが必須な場面もありますが観光ルート上では難解なロープワークは必要なく、崩落場所以外は危険は感じられません。
Lighting EVER
調査当時はムックの企画上の調査目的だった為、時間に制限があり全てを見て周ることは叶わなかったが改めて入洞許可が得られれば洞内箔覚悟で撮影などを行いたい。
洞口からラぺリングで最初の傾斜を降下します、縦に入った亀裂を跨ぎながら慎重に降り切ると幾つか分岐する小規模なホールへ辿りつきます。ここからまた洞内を進むために登り(剣ノ峰)となりますが観光洞だった頃の残置物として木製の階段が、湿度の高い洞内ですから所々朽ちていて強度は昇降するのにギリギリといったところでしょうか。
注意点
観光洞であった頃は洞口から木製階段が設置されており、昇降階段~ホール~昇降階段と歩き易く整備されていました。
所々に観光洞だった頃の名残が見てとれます、資料として残されている洞内の各名称と洞内に残されている案内板に差異が見られますがスゴログでは現地にあるものを優先して表記しています。
こちらは三王ノ辻、現地では下り龍の表記。
正確な記録が残されていない為に観光洞としての開場時期は判りませんが戦後から10年ほどで簡易整備されていたと思われます、洞内の周回ルート(一般公開コース)には1940年代から1960年代を中心に来場者の落書きが散見できます。
写真では1968年や1972年の落書きが見てれます。
ところで石灰岩と泥岩が混じるような壁面状態なのは事前に調べて知ってはいたものの、実際洞内に入ると壁面が黒く煤けているのが判ります。多くの落書きはこの煤を削って描かれているのですが何故こんなに煤けているのでしょうか。
土着の霊場として、 江戸時代には倉沢山大権現として上野寛永寺の支配を受けていました。その際に焚かれた護摩(火)の為に洞内は煤け、やがて壁面を薄っすらと流れる地下水流により煤は離散集合して、現在のような白と黒の衝撃的なコントラストを呈しています。
倉沢鍾乳洞について歴史を辿るとこのような一文を目にしました、どうやら宗教的な霊場として使われていた当時に洞内で護摩が行われていたようです。
護摩 - ウィキペディア
https://archive.is/bvWz9
https://archive.is/bvWz9
しかしロープワークを必要とする最奥部はこの限りではなく、本来の壁面を維持していました。
湿度の高い鍾乳洞、動物や昆虫などが入り込める場所では死骸や糞などから菌類が発生します。こちらはクリノシロコナカブリのようですが発生条件や発生環境がこの鍾乳洞と合致しているか判断できないので参考程度に。
小規模ながら存在感のある地底池
倉沢鍾乳洞には地底池が二箇所あります、こちらは一般コース上で公開されていた「ひょうたん池」です。その名の通りひょうたんの形をした池ですが先端部分は水没していますがもう少し延長しています、浅いのでウェーダーやドライスーツで更に進むことも可能ですが非常に狭いです。
スゴログではこの地底池とは別の最奥箇所から更に割れ目から降下する水晶池を目指していましたが道具の準備不足の為に到達叶わず、その模様は後ほどに。
注意点
このひょうたん池には過去に来訪した方が残されたゴムボートとパドル2本がありました、このような残置物は絶対にあってはならない物です。
ひょうたん池から延びる支洞、暫く進むと上下に分けれて更に左右に分岐しますがどれも閉塞。人が通れるギリギリの場所も数箇所あり、実際別の場所からのリルートが可能な支洞もありますが今回は割愛します。
Aicdas
最奥の八方地獄へ向かう為、倉沢鍾乳洞で一番危険な亀裂の降下場所まできました。恐らく10年以上前に設置された残地ロープがありますがとても信用できません、新たに降下用ロープを垂らします。
狭い割れ目の下方が広がっており、チムニーでは途中で詰んでしますので背中と脚で身体を支えながらラぺリングで降下します。ここは非常に危険な慎重さを要求される場所です、階段状に加えて地形が湾曲しているので体勢の入れ替えなども必要となります。
倉沢鍾乳洞最奥となるホール、この場所はアリの巣にように小型のホールがメインホールから放射線状に複数確認できます。
倉沢鍾乳洞 最奥部① - Spherical Image - RICOH THETA
倉沢鍾乳洞 最奥部② - Spherical Image - RICOH THETA
メインホールと言っても人が二人ほど入れ違えるほどの小さいスペース、この場所にこの鍾乳洞で一番下方に存在する水晶池への入口が小さく口を開けています。
この薄い竪穴が水晶池への入口になります。幅にして30cm程で途中更に狭い場所もあります、それがバーチカルではなくくねくねと折れ曲がりながら下方へ向かっているのです。
調査人員の編成では70kg~80kgの筋肉質な人間ばかり、ラぺリングの装備を装着して降下するにしても隙間に挟まってしまい降下できません。
降下しても更に狭隘な場所での匍匐前進を強制されます、水晶池へは並大抵の覚悟では到達できません。
この水晶池に関しては1980年代中盤に複数の団体がアタックしており、その成果もまとめられています。
倉沢鍾乳洞探検ケイビング - PCC
https://archive.is/Ff6lT
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倉沢の水穴・孫惣谷出合いの水穴探検ケイビング - PCC
https://archive.md/nDzuD
https://archive.md/nDzuD
この場所からアプローチするには50kg~60kg位の細身の体格でないと無理でしょう、今回は諦めます。
どの位狭いかは脚と一緒に撮影した写真を参考にご想像ください、壁面はツルツルで滑り落ちたら自力登攀は不可能な非常に恐ろしい場所です。
恐ろしいと言えば、ネット上には倉沢鍾乳洞に関するまた別の方向性での恐怖体験を綴ったレポートがありました。
ほんとは怖かった倉沢谷 - 今夜も山の中
https://archive.is/QcLYM
https://archive.is/QcLYM
実はこの倉沢鍾乳洞、上記のような怪しい団体の他にも宗教団体絡みで色々と噂が絶えない場所でもあります。レポートでも記述していますが元々が霊場としての役割を担っていたと思われる鍾乳洞です、以降同様の目的で使われていても不思議でありません。
これらの噂を裏付けるように1995年には関係性の高い倉沢集落に新興宗教の調査目的で警察が入ったことも。と、いってもこの調査は同年の大事件だった地下鉄サリン事件の容疑者の潜伏先としての調査だったのですがこの一帯はそのような宗教関係者の往来が頻繁だった時期がありました。
入洞禁止柵が設けられる以前はこの鍾乳洞が一般探索者の他にも多様性を見せていたのは確かのようです。
入洞禁止柵が設けられる以前はこの鍾乳洞が一般探索者の他にも多様性を見せていたのは確かのようです。
倉沢鍾乳洞には洞内へアプローチルートが三箇所ほど確認されています、今回ご紹介したルートが一番安全ではあるのですがそのルートでさえ壁面崩落の為に現在では非常に危険なものとなりました。
この間々放置されてしまう可能性が出てきた林道倉沢線、この林道がどのような経緯で存在するのかを少しだけご紹介しようと思います。
アース製薬
近代化に取り残された地域
倉沢鍾乳洞へ至る林道倉沢線は近代において林業事業に関連して整備されてきました、その以前は作業道として細い未整備道や獣道で構成されていて鍾乳洞が霊場として機能していた時代は更に険しい正に修験道の修行場として字面通りの場所だったのです。
観光洞として名が知られてきた戦後の復興時も未整備道として運用されたこの林道、その歴史を辿ると倉沢集落へ人々が定住し始めた1350年代まで遡ります、固有値の輪業整備として簡易整備と拡張が行われたのは勿論戦後ではありますがハッキリとこの地域が開発対象して着目された時期があります。
日原鉱業所が稼動を開始した1944年から就労人員が増加の一途を辿り、1958年には日原社宅が建設。移行や生活に便利な倉沢橋が翌年の1959年に竣工、倉沢方面への簡易舗装を伴っての整備が進められます。倉沢集落においては既に定住者人口のピークは過ぎて減少傾向にあった時期、林道整備は不要な奥地まで延長するのは些か時代背景と逆行すると考えるのが自然です。
しかし戦後復興の林業とその付随事業がこの地に及び、同時期に植林が盛んに行われていたので作業道として側面も考慮すると以外でもありません。林道の終点地点となる魚留橋より先にまで及んだ簡易整備ですが燃料革命が同時期(1960年代~1970年代)起きたのを境に計画的輪業は縮小して廃道の流れと繋がり、現在は各所で崩落が発生して通行止め(ゲート封鎖)となりました。
これらを念頭に鍾乳洞内の落書きの時期をもう一度考えれば全国からの来訪者というより林業の従事者や日原鉱業所の就労人員が近場の観光地として来訪していたと予想できます、故の落書きの時代表記とこの地域一帯の人口増加時期が一致するわけです。
注意点
林道倉沢線は倉沢橋竣工の2年後となる1961年には宮下橋(鍾乳洞まで1/5の距離)が、仮設橋との架け替えで時代が前後する1960年には八幡橋(鍾乳洞まで2/5の距離)が、宮下橋と同年の1961年に鳴瀬橋(鍾乳洞まで3/5の距離)がそれぞれ設置されています。結局簡易舗装は全行程の20%程で潰えてしまいましたがこの先の魚留橋(1962年竣工/現在崩落の為通行禁止)の先にも輪業の為の作業道として延長工事が進められていました。
この倉沢の地、倉沢鍾乳洞や倉沢集落と見所が多かったわけですが近年はビギナーの沢登りエリアとしても人気がありました。林道倉沢線と並行するように倉沢谷がありますが日原川から延びるこの支流は確かに沢登初心者には優しい地形で小規模ながらシャワークライムを楽しむことも可能です。
倉沢鍾乳洞付近の河川は水位が下がっていて中州と斜面が地続きで往来も簡易な事でデイキャンプを楽しむ姿を見かける事もありました。
しかし2019年の関東への台風直撃の被害はこの倉沢谷も例外ではなく、壊滅的な河川崩壊へ。現在は見るも無残な倒木の堆積、河川の地形変形、土砂崩れなど酷い状況となりました。
以下のサイトに倉沢線の現状が詳しくレポートされています、レポート中盤からが林道倉沢線です。
奥多摩と奥武蔵の境界の山々を巡る - 週末は山を目指す
https://archive.is/04Hba
https://archive.is/04Hba
台風前までは車でアプローチできましたが今後は徒歩になりそうです。またYoutubeにも現在の林道を踏破している動画あったので掲載しておきます、こちらは魚留橋以降の旧作業道も歩いているのでご存知の方は懐かしい風景がご覧頂けるでしょう。
台風の被害が及ぶ以前においても林道の管理状況は酷い物でしたが車やバイクで構想可能な状態を辛うじて残していました。その時代の倉沢線のレポートも参考のためにリンクしておきます。
林道小岩線から林道倉沢線へ - Japanese Black Army
https://archive.md/wip/k5g8a
https://archive.md/wip/k5g8a
2017年時ではまだ最奥の崩落場所直前まで走行できたようです。その後関東を直撃した2019年の連続台風と2021年の台風19号とで崩落が進み、現在は倉沢線入口でゲート封鎖されています。
廃道化の進む棒杭尾根と、奥多摩と奥武蔵の境界の山々を巡る
https://archive.md/04Hba
https://archive.md/04Hba
この林道が再び走行可能な状態になることは恐らくないでしょう。
以前紹介した石舟沢鍾乳洞も無計画伐採を起因とする自然災害でアプローチルートが消滅、片道45分が3時間へと増大しました。この倉沢鍾乳洞も以前は直前まで車でアクセスできましたが自然災害の為に1時間ほどの徒歩踏破を必要とされる状況になっています、今後これらのアクセスルートが絶たれた鍾乳洞の観測や状況探索は行われなくなり、本当の意味で自然に還っていくことになるでしょう。
倉沢鍾乳洞に関して詳細をまとめたレポートを発見したので是非一読頂ければと思います、美しい自然が同じ自然によって形を変えていく様はエゴ共に憤りを感じずにはいられません。
参考・協力
奥多摩町役場
奥多摩町教育委員会
奥多摩町古里出張所
日原鍾乳洞
日原森林館
奥多摩工業株式会社日原事務所
JR奥多摩駅
奥多摩ビジターセンター
駒澤大学
地学団体研究会
日原村史/青梅市教育委員会
東京・奥多摩日原三叉洞調査報告書/東京洞穴研究会
レポートの場所
注意点
該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。
注意点
該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。
スゴログの装備とその使用方法など
https://www.sugolog.jp/p/blog-page.html
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