2025-04-17T23:32:38Z #059 贄川小学校桑崎冬季分校

#059 贄川小学校桑崎冬季分校

くねくねと幾重にもつづら折れる細い林道を根気よく登り詰めると小さな平地が眼前に、そこには山深くも山村の学び舎として地域に愛された木造建築の校舎とランドマークとなる2本のサイロが残されていました。冬季分断集落の学童を支えた小さな学校の物語をご紹介します。

スゴログ 廃校 贄川小学校桑崎冬季分校

長野県│贄川小学校桑崎冬季分校

調査:2011年05月
再訪:2018年05月
公開:2013年07月16日
名称:楢川村立贄川小学校桑崎冬季分校
状態:アプローチルート荒廃(アクセス困難)

旧サイトで公開していたレポート内容を2023年現在の調査内容に統合して再エントリーしました。また古くなった情報などは精査して削除しております。



塩尻市の行政広報のお手伝いをした際、長野県の教育委員会を引退された元職員さんから興味深いお話を聞かせて頂きました。当時、並行して地域民俗学の取材で諏訪湖周辺を調査していてたこともあり色々と情報を集めていたところでした。

先程の元職員さんと塩尻市観光協会の方と一緒に元祖山賊焼き「山賊」で食事をしていた時のお話です、レポートとは関係ありませんが有名店ながら非常にオススメのお店です。

鳥料理 山賊

「桑崎集落という廃村があります、既に殆どの家屋が崩落していますが石仏群が残されていてなかなかに興味深い歴史があったようで以前少し調べたことがあるのです。楢川村の村史にも幾つか記載がありますがご紹介できる図書館に村史が保存されていない可能性もあるので気になるのであれば役所の人間に資料を用意させますよ」

これはありがたい申し出でした、石仏などはスゴログとしても大好物の調査対象でして。宿に戻り、この桑崎集落について調べてみると廃校も残されているのだとか。ウェブ上に残された情報を精査すると現存する建造物はその廃校だけのよう、後は崩落しているか半壊状態だという。

これは石仏とは分けて個別調査としてこの廃校にお邪魔してみようと翌日役所の方に場所を詳しくお聞きしました、相当の山奥のようで車で行くのは途中までにと念を押される始末。

アプローチルートがメインアクティビティだったとは思いもよらない、新緑が生い茂る山中の贄川小学校桑崎冬季分校をご紹介したいと思います。



恐ろしい林道桑崎線



塩尻市内から国道19号線を下り、県道254号線を更に南下。地図上の桑崎馬頭観世音を目印に林道入口までやってきました。

これが後に精神をすり減らせる酷道、林道桑崎線です。オフロード系のバイクでなら容易なルートも納車1ヶ月の新車で突入すのは無謀と思える鋭利な破石が散乱する無整備林道でした、亀の子にならないように地面の様子に注意しながら現存するという贄川小学校桑崎冬季分校を目指します。

道中では写真や資料動画を撮影する余裕もなく慎重に進みます、どうにかこの林道の荒廃具合をお伝えしたいのですがウェブ上にもレポートが余りありません。。


Youtubeで走行動画が探しましたがやはり途中で引き返す内容しか見つかりません、過去何か所か二度と走らないと誓った道路が幾つかありますがこの林道桑崎線もその一つです。

動画は参考程度、とご承知下さい。

注意点
贄川側からのルートは崩落の為、途中で道が消滅しています。桑崎側からは複数の枝道が現存しており、辛うじて通行できます。荒れ果ててはいますが毎月自然巡視員が環境の保全状況の確認と道路の通行可能範囲の確認に来ており、放置されてはいるものの低水準ながら桑崎集落跡付近までは車でも通行可能です。

自転車で林道桑崎線にあるかつての集落をめぐる - YAMAP

スゴログ 廃校 贄川小学校桑崎冬季分校

途中、倒壊した家屋の中に半壊状態の雨戸に「民宿ふるはた(たの文字だけ変体仮名)」と書かれた建造物があります。この民宿に関して贄川駅周辺で聞き取り調査を行いましたが明確な情報は得られず、しかし気になる情報も。

「そのふるはたは知らないが手前の川側には宿があって結構な歳のおじいちゃんが昔に宿をやっていた筈、夫婦で営業していたけど先立たれてから2005年くらいまでは集落に住んでいたと思う」

行政に残されている閉村記録は1968年、納税実態があれば以降も廃村とは言えない筈。この件について更に聞き取り調査を行うと面白い話が聞けました。

「桑崎の集会所が大きな建物で。他の家屋より(建てたのが)新しかったから、それで離村した爺さんが仕事辞めて暫く集落に通ってた」

なるほど、宿かどうかは判りませんが先の話の2005年位まで…の件はどうやらこの桑崎出身の方が集会所を利用して何かしていたのだという証言のようでした。行政記録に納税実態が残っていないのは居住せずに通っていたからなのですね、1990年代に桑崎で宿を見たとの話もネット上にありますが実際どうであったかは判りません。

注意点
この民宿ふるはたについては明確な営業実績の記録がなく、ペンキで書かれたいたずらの可能性もあります。半壊家屋の中には祭事に使用した飾り神輿などが残されています。この神輿は1980年代には頻繁に使用されており、廃村後も元々の居住者によって村内文化が保持されていたことが判ります。

考察・桑崎集落に宿は必要か

牛首峠を越えて小野街道から贄川へ抜ける楢川村きっての不便さを誇る林道桑崎線、その中ほどに位置する桑崎集落は江戸時代には余りに山深いことから読んで字のごとく「山中村」と呼ばれていました。

桑崎は非常に生活し難いことで知られており、昭和に入っても整備が進まずインフラも最低限のみの過疎集落でした。冬季分断集落でもあり、その為に冬季分校が設置された背景もあるのでその過酷さはご理解頂けると思います。

自然信仰の中、この山中に石仏を祀ったことで人々が少数集まり、集落となったわけですが信仰の為の参道ではありません。主要道から迂回路でも時短路でもなく、限られた平地に宗教的ランドマークが設置され、同じ場所に少数集落が形成された外来者の少ない場所なのです。

それではこの外来者が少ない場所で「宿」を営む理由ははたしてあったのでしょうか。明治時代の資料によると道幅は僅か半間以上一間未満とありますから今でいう1000mmと少々、江戸時代後期から明治時代に使用された多くの牛馬車の荷台の横幅は900mm程なので場所によってはすれ違いが困難な場所もあったことでしょう。

産業道路としては余りに狭く、宗教的な参道でもない。あくまで最低限の生活道路としての里道だったのです、更に未整備ですから尚更人が往来する理由がない。日出塩集落から贄川へは信濃川水系奈良井川沿いを歩けばよし、小野から牛首峠を越えて贄川へ出るにしても多少大回りでも整備された小野街道を歩いた方が旅人にとっては安全です。

するとこの桑崎集落にあったとされる「宿」は誰のためのものだったのでしょうか。

この桑崎集落、集落の人々の主な収入源は他の山岳集落と同様に林業(土着産業は養蚕)でした。桑崎地区の林業に関しては複数の資料で僅かながら語られていて外部からの林業関係者の出入りも頻繁にあったのだとか。

贄川地区でも桑崎に山仕事で数日泊まり込みで仕事をしていたという内容の話を聞くことができたことで何となくではあるけれど桑崎の宿の役割が判ってきました、この桑崎の宿は林業関係者の為の滞在場所だったのではなかったかと。

交通の便が悪く、限られた往来で産業を支える為の人員確保が小さな山村で宿を営む理由だとすれば不特定の来訪者をターゲットした一般的な宿形態でなくとも十分に利益は見込めたことでしょう。

2005年頃のお話に関しては整合性がとれませんが昭和初期まではこのような林業従事者を対象とした宿があったと思われます、離村と共にこの地域の林業は失われているので宿も同時期に閉業していると考えられるのでこの点だけが疑問として残ります。

釜ヶ崎資料センター所蔵資料より各所抜粋
楢川村教育委員会編 楢川村文化財散歩 一部意訳抜粋
楢川村誌編纂委員会編 木曾・楢川村誌 一部意訳抜粋

スゴログ 廃校 贄川小学校桑崎冬季分校

こちらは嘗ての稲荷社、2006年頃までは辛うじて建っていましたが現在は崩落しています。ご存知の通り稲荷大神は稲の豊穣と山の守護を主とする山岳信仰の神様の一柱、一般的に狐が想起されますがこれはあくまで眷属です。神道における農業の作業時期が山の神の顕現時期とされており、同時期に狐をよく見掛けることから山の神の眷属と思われたのが現代に伝わっています。

この社にも狐が狛犬のように鎮座していましたが崩落時に地域の方によって移動しています、因みに狐の赤い化粧は歌舞伎の隈取りと同じで正しい力を表現しています。

注意点
稲荷大神(宇迦之御魂神)は稲の神様なので火を嫌います、故に浄化の火を色として描いたとの説もあります。

スゴログ 廃校 贄川小学校桑崎冬季分校

稲荷神社とおキツネさん

ウカノミタマ - ウェイペディア

注意点
この地域の信仰、石仏などに関する地域民俗学アプローチのレポートを別途公開予定です。地域産業や桑崎集落の歴史もそちらで詳しく紹介いたします。

桑崎集落を過ぎ、暫くすると今回の調査対象である贄川小学校桑崎冬季分校が見えてきます。



冬季分断集落の僻地分校


スゴログ 廃校 贄川小学校桑崎冬季分校

緩やかに登る荒れ果てた林道を詰めると一段高い平地が姿を現します、ここが楢川村立贄川小学校桑崎冬季分校です。まず目に入るのは二棟のサイロ、昭和に入り近代化が進む世相にあってこの場所はいまだ最低限のインフラで生活していた極小山村集落。

戦後農業、林業共に苦境を強いられた苦肉の策が食肉用の畜産でした。新たに牛舎も設けられ、校庭を含む限られた平地に牧草を育て牛を管理放牧。その牛の給餌用にこのサイロが建設されました、実質十年ほどだった畜産も上手くは行かずに離村時に廃業しています。

土着産業は養蚕でしたが規模は小さく、農業は村産村消。必然的に重きをおく産業は林業でしたが冬季分断集落の為に限られた出荷体制も集落全体を衰退させる一因だったようです。

スゴログ 廃校 贄川小学校桑崎冬季分校

楢川村木曾・楢川村誌の第五巻によると

1948年09月26日 桑崎分教場着工式
1948年12月01日 開設
1949年12月05日 桑崎分室開室式

とあります。元は市内の贄川小学校の学区だった桑崎集落の児童でしたが記述の通り、この集落は降雪による冬季分断集落でした。その間の児童学習の場を確保する為、集落内に冬季分校を設置。しかし2007年には贄川小学校本校も楢川小学校と統合、過疎化による学習児童の減少で134年続いた贄川小学校の血筋は絶たれてしまいました。

スゴログ 廃校 贄川小学校桑崎冬季分校

登校距離は山道6キロだったと思われます、片道2~3時間の距離です。秋口など午後の授業が終わって集落へ到着する頃は帳が落ちた暗闇を歩いた末の帰路だったことでしょう。

スゴログ 廃校 贄川小学校桑崎冬季分校

校舎外観はかなりヤレていて部分的に崩落も進んでいるようです、廃村後は暫く離村した住民の為の多目的倉庫のような形で利用されていましたがその後「自然絵画教室」が定期的に実施されていてその名残が現在でも見受けられます。

スゴログ 廃校 贄川小学校桑崎冬季分校

校舎内に残された絵画は絵画教室で描かれたもの、児童たちの作品ではありません。この絵画教室に関しても教育委員会の元職員さんに実態をお聞きしましたがそのような話は聞いたことがないとのことでどのような団体が運営していたかは判明せず。

キャンプ場として利用されてたことは知ってた、との発言から廃校後は色々と再利用された施設として多少は地域に貢献していたのかもしれませんね。

スゴログ 廃校 贄川小学校桑崎冬季分校

内部は薄暗く、小学校だった頃と絵画教室だった頃の前後が交錯する空間です。

冬季分校が開設されて約10年後の1959年当時の生徒数が16名だったのでこの時既に生徒数のピークは過ぎていたのかもしれませんが極々少数の分校だったよう、離村を翌年に控えた1967年の閉校時の生徒数は更に減少していたことでしょう。

スゴログ 廃校 贄川小学校桑崎冬季分校

この小学校とイコールで知られているピアノがある教室、山深い山村に小型とはいえグランドピアノが用意されているのは非常に珍しい。

贄川方面からは運べないので小野方面から小型トラックで運んできたことになる、僻地とは子供たちへの教育は熱心だったのでしょう。

以前は他にも楽器が残されていましたが2018年時には見掛けませんでした。

スゴログ 廃校 贄川小学校桑崎冬季分校

給仕室、後の話になりますが贄川小学校では1991年から給食用食器に漆食器が使われていました。塩尻市木曽平沢周辺では木曽漆器が有名でその特産を子供たちにも慣れ親しんでほしいからなのだとか、経済産業省の伝統工芸に指定されたのが1975年なのでこの地域での漆器はただの生活の一部だった頃でしょうか。

と、思い探してみましたが残念なことに漆器類は発見できませんでした。

塩尻市の楢川小学校と楢川中学校では給食に漆食器を使っているが、いつから始まったのか。

スゴログ 廃校 贄川小学校桑崎冬季分校

スゴログ 廃校 贄川小学校桑崎冬季分校

職員室という名の宿泊部屋だったと思われる一室、冬季分校は教員も通いでなく勿論滞在しての指導でした。

臨時教員という記録は資料にないので本校から出向だったと思われます、本校通学時にも冬季と同じ教員と顔を合わせられるのは生徒とその親共々安心感があったことでしょう。



生活が一変した集団移住までの顛末


スゴログ 廃校 贄川小学校桑崎冬季分校

1965年の航空写真、桑崎集落全景。この時点で二棟のサイロは完成していてサイロの裏手には校舎より大きな牛舎がありました、大きさにして凡そ二倍。

スゴログ 廃校 贄川小学校桑崎冬季分校

こちらは1975年、既に離村後で牛舎も取り壊されています。サイロの影と冬季分校の赤い屋根が見えますね。畑には離村時に植林された杉が並んでいます。



山村にしては南北に延びた桑崎集落、現在その殆どが自然に飲み込まれていますが離村時に杉が植林されていてその所為で家屋の敷地が判別不可能な状態となっています。

一般的に桑崎集落は集団離村と記録にありますが桑崎集落出身で楢川村村会議員を務めた小林さんという方の証言が残されています、以下はその記録の意訳となります。

近代化に取り残された桑崎でしたが集落の山岳産業起死回生を願い、1957年に食肉牛の飼育を開始。桑崎家畜組合を組織して楢川共牧場を拓く、しかしこの事業が最大の打撃となり集落の予算を食い潰した。

林業は外部の者が多く、養蚕は既に衰退していたからこの牛の事業が最後の望みだった。でもだめだった、事業は赤字を重ねて失敗に終わった。

1965年頃から離村する者が現れた、桑崎に見切りをつけて贄川はもっと遠い所へ行く者もいた。村の住民の総意は離村に傾いていたし、自分もそう思っていた。

その年、桑崎集団移住対策特別委員会の委員長になって1967年に11戸77人の集団移住に至った。一時は30世帯200人はいた、結局次の年の1968年に全戸移転して廃村になった。

失敗から数年で全戸移転の責任者となり、その責務を全うして間もなく小林さんは48歳の若さで亡くなっています。

因みにこの集団移住に最初に賛成したのは幼い子供がいる過程であったと月刊誌の桑崎の特集記事にありました。

当時、保育園児や小学生低学年の子供が村内にまだいたのですが通学について毎年問題になる状況でした。冬季分断集落として冬季分校が設置されていても冬季以外でも桑崎の子供は他地域と比べ大きなビハインドとなっていたのです。

当初反対されていた畜産業、村内の限られた平地の田畑を潰して牧草地に転化したのを村民は大反対したのだとか。しかし件の小林さんは

農業や林業じゃ食っていけない。このままでは収入源が外の仕事ばかりになって出稼ぎ部落になってしまう、事業を成功させて桑崎を自立した村にしたかった。

しかしこの思いは村民には届かず、事業も失敗に思わって離村へ突き進むことになります。近代化と過疎化、二重苦に苦しんだ山間の小さな部落であった桑崎集落。現在はその殆どの家屋が崩落し、残されたのは今回の調査対象であった冬季分校。

そして離村の要因となった畜産業に使用されたサイロが二棟、この桑崎の唯一のランドマークが負の遺産とはなかなかに考えさせられる調査でした。

今回のレポートは以上となります。

楢川村立贄川小学校桑崎冬季分校

1948年09月26日 桑崎分教場着工式
1948年12月01日 開設
1949年12月05日 桑崎分室開室式
1967年03月**日 閉校
2007年03月**日 贄川小学校本校が楢川小学校と統合の為に廃校

#042 熊ノ木小学校西高原分校 

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参考・協力

塩尻市
塩尻市教育委員会
塩尻市生活環境課
塩尻市企画政策部
塩尻市観光協会
塩尻市立図書館
塩尻市立図書館宗賀分館
塩尻市立図書館楢川分館
中山道贄川関所・木曽考古館
釜ヶ崎資料センター
農業集落境界データ
楢川村誌編纂委員会編楢川村 木曾・楢川村
月間キブツ 1975年05月号(第98号)・桑崎無人部落/百瀬直彦
月刊キブツ 1972年06月号(第99号)・失はれた部落の記録/百瀬直彦



レポートの場所 ※ GoogleMap登録済


注意点

該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。

スゴログの装備とその使用方法など
https://www.sugolog.jp/p/blog-page.html

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