2010年、トビ岩の現状確認の登山時にお世話になった妙蔵寺、その住職さんから教えて頂いた地域に古くから語られいる伝承から調査が始まった石田村。当時行政も余り把握してなかったこの石田村には伝承と共に不思議な景観が残されていました。
千葉県│石田村の巨石群
調査:2010年05月
再訪:2011年06月 / 2012年10月 / 2016年11月 / 2017年05月
公開:2012年12月29日
更新:2024年05月12日に追記更新 / 最後尾参照
名称:石田村の巨石群(巨石の森)
状態:アプローチルート荒廃(アクセス困難)
調査:2010年05月
再訪:2011年06月 / 2012年10月 / 2016年11月 / 2017年05月
公開:2012年12月29日
更新:2024年05月12日に追記更新 / 最後尾参照
名称:石田村の巨石群(巨石の森)
状態:アプローチルート荒廃(アクセス困難)
旧サイトで複数回に分けて公開していたレポート内容を2023年現在の調査内容に統合して再エントリーしました。また古くなった情報などは精査して削除しております。
地域では忌避地として知られていた山深い場所
2010年のトビ岩登山時から知己を得た妙蔵寺の住職、そして丁度その妙蔵寺の庭園整備で寺に来ていた地元の造園業者さんから面白い話を聞かせて頂いた。
寺の裏には城址、といっても現在は何もないが古くは小さな城があった。その城址の更に奥に「穴」がぽっかりと口を開けていて悪さをする子供や若者を閉じ込めた。その穴には南無妙法蓮華経と刻まれていて一度その穴に落とされると二度と出てこれない。
お城がなくなって以降誰も住んでないのに昔から村があると聞かされていた、山仕事の従事者も気味悪がってその周辺には近づかなかった(数世代に渡って言い聞かせられてきた)。
このような昔話です、全国的には集落にほど近い山岳地帯にはこのような幼少期の子供に対する啓蒙的伝承が残されていてその実は子供が怪我をしないように危険な場所へ立ち入らせない為の作り話だったり教育の一環として怖い話で行動のコントロールを目的としたものが多い。
近年では御嶽山や天羽城山などの経由ルートに組み込まれることもあってか房総の樹海などという名称も、ただ2010年当時はほとんど情報がなくて唯一の情報源は先ほどの住職さんと地元の造園業のみ。
この地域で聞き取りも行いましたが詳細を知る方はおらず、やはり昔話程度の認識で小さい時に聞かされたという確証性のない内容でした。
調査時にはこの地の明確な名称が無かったので巨石群と勝手に呼称してしまい、それが現在では公称となりましたが現地の様相は本当にその名通りの岩だらけ。この言い伝えと不思議な景観の謎を解き明かす為にスゴログでは何回も現地に赴きました、行政にも協力頂いた詳細なレポートをご紹介いたします。
梨沢での遡行やトビ岩などの登山でお世話になっている妙蔵寺、今回も早朝の挨拶を済ませて車を置かせて頂きました。
ここから石田村を目指します、当時はまだ石田村の名称すら知らなかったのでスゴログの間では「梨沢の穴」と仮称していました。この地域は房総半島の山岳産業の縮図のような歴史があり、製炭産業も点在していたので今回はその製炭の歴史を調査する目的もありました。
まずは件の城址「梨沢常代城址」を目指すことになりますがルート入口は二箇所ありました。
アース製薬
一般的なのは妙蔵寺の北側に位置する曹洞宗萬松山の見性寺裏手の扇状地の小さな棚田、その作業道から山中に入るルート、本来であれば天羽城跡へ至る登山道。現在は台風被害の為の倒木と土砂崩れで非常に危険です、ピーク沿いは比較的歩き易いのでこのルートから巨石群へアプローチするのが判り易いですが山中を2キロ以上歩くことになります。
谷田堰から向かうルートもありますが現在こちらには害獣侵入防止柵が設置されています、これを乗り換えて入られる方が多いと聞きおよんでいますが一部には防止柵を破壊して入る輩が確認されています。非破壊にしても許可なくここより入山するのは違法となります。
もう一方はこちら。
妙蔵寺の南側から田畑を一枚挟んで山中の旧棚田へ至る農作業道です、こちらは私有地なので地権者に許可を頂いての入山となりますが廃道となってから何十年も経過している為、倒木が多く歩くのが困難なルートです。
1974年の航空写真にはまだ農作業道が描かれており、現在倒木で踏破困難なルートはこのような行程でした。
注意点
調査時は敷地所有者に許可を得て通行しています
補足ルート(崩落済みルート)
1970年代まではこの場所から畑に直登し、そこから城址を通過して製炭の為に石田村へ向かうルートがありました。現在は一部ガリーと同化して危険地形となっています。
存在はしたが実態が定かでない城址
妙蔵寺からの位置関係は地図の通り、裏てから入山して常代城址を経て森林エリアの巨石群を目指す事になります。
城址から北東のこのエリアは植林の歴史などもないので樹木は乱雑に育成しており、起伏も激しく歩き辛い。登山好きから房総の樹海と称されるのも判る気がします。
1960年代、妙蔵寺の裏手斜面には田畑が整備されています。スゴログのアプローチルート上にこの棚田が存在したとは現地を実際見た者では想像できない程の荒廃ぶりです、造園業者さん曰く、50年位前まではよく仕事で入ったとのこと。
棚田を登り切ってピークに出ると直ぐ城址が現れる筈です。
1970年代の航空写真、この時点で既に棚田は破棄されています。つまり廃田となってから半世紀近く経過しているのです。樹海エリアは姿を変えていません、航空写真で確認できる限りではありますが居住者がいた形跡は発見できませんでした。
2010年時でこの状態ですが現在はもっと酷い状況です、旧棚田も荒廃が進み自然に還りつつありますが平地が姿を見せるので辛うじて現在地を確認できます。ただ入山15分で遭難の可能性があるので許可を得られたとしてもこのルートはお勧めできません。
旧棚田を過ぎて標高を更に稼ぐと城址へ至る地形が眼前に、ここからピークを目指して斜面を登ると旧道へ出る筈です。
GARMIN★
注意点
2010年当時、まだGPS専用端末を所持していなかったので発売したばかりのiPhone4でGPS端末の代用としていました。写真は2012年、再訪時のもの。使用アプリは登山系キラーアプリと称されたフィールドアクセスです、非常に素晴らしいアプリでした。
まずは城址とその勢力が及んだとされるエリアの確認、やぐら群と城址エリアの調査となります。
梨沢常代城は地域防衛の拠点だったようで地形を生かした小さな築城形態、規模は小さくとも攻め入るのが厳しい難攻難落の城だと資料にあります。等高線と勢力エリアが見事に合致しているのも興味深いですね。
天神山城跡
富津市海良にある。標高は100m前後の山城で、手前は湊川である。『君津郡誌』によると、文明年間の築城らしい。初めは真里谷氏が在城、後に里見氏の武将戸崎玄蕃頭勝久の居城となったという。『富津市史』では、城域に天神社があることや、近くに妙見社があることから、千葉市一族の天羽氏が築城した可能性を指摘している。
注意点
他に、常城砦跡(関尻字常城)、東大和田城山砦跡(東大和田字堀切)、服部館跡(相川字柳糸、『富津市史』では「正木館」としている)、天羽城跡(相川字天羽城)、鳥海館跡(梨沢字小向)、君ヶ谷城跡(竹岡字二又山)、城山砦跡(金谷字大久保)、岩富城跡(亀沢字岩富山)、北上砦跡(亀沢字座房)、旗本山砦跡(相野谷字辻畑)、虚空蔵山城砦跡(障子谷字堀ノ内)、梨沢常代城跡(梨沢字常代越・相川字古屋敷)、不入斗常代城跡(不入斗字常代)があり、合計で18ヶ所確認されているが、湊川流域や佐貫、三舟山周辺に集中している。同地域が、安房里見氏と真里谷武田氏、後に北条氏による攻防の境界であったことを示しているといえよう。なお、上記の旗本山砦は、『君津市の歴史』「小糸川流域の中世城郭」では、「八幡の森」としてその写真を掲載している。「旗本山」は、「八幡の森」ともいうらしい。
引用先:君津地方歴史情報館 - 久留里歴史散歩Ⅱ
この地域には複数の城址がある事の理由がお解かり頂けると思います、ただ私達が来訪した梨沢常代城址に関しては幾つかの説があり、周辺の歴史と現地の地形などを考慮して総合的に判断すると正確には城址ではないとの見方が大きいかもしれません。
参考:千葉県内の城館主氏名
富津の城に関する資料サイトにも記載が。
注意点
リンク切れの為削除しました
ふさの国文化財ナビゲーションにおいても「富津市梨沢」×「梨沢常代城址」で検索をすると関連資料を閲覧する事が可能です。
注意点
こちらはページが消滅した為にリンクを削除しました
跡名:梨沢常代城跡
読み:ナシザワトコシロ
所在:富津市梨沢字常代越・相川字古屋敷
種別:城館跡
時代:中近世
立地:丘陵・山林
遺構:曲輪・腰曲輪・土橋・櫓台・井戸
読み:ナシザワトコシロ
所在:富津市梨沢字常代越・相川字古屋敷
種別:城館跡
時代:中近世
立地:丘陵・山林
遺構:曲輪・腰曲輪・土橋・櫓台・井戸
参考:掲載時のふさの国文化財ナビゲーションの内容
作図:日本史学者(城郭研究)- 村田修三
参考として。山間部の城址で曲輪が現存する例として上の図解の様な区画分けが見て取れますがこの梨沢常代城周辺には何もありません。見つけられないだけなのか、それとも長い年月の経過によって地形が変わってしまったのか判断がつきません。
千葉県埋蔵文化財包蔵地遺跡分布地図、富津市遺跡の梨沢地区を確認するとやはりこの辺のようです。
この一帯は小規模な扇状丘陵が広がっており、どの枝丘陵に城址があるのか現地では判断がつきません。この特殊な地形を利用した石垣や築城だと資料にありますが形跡は一切残っていません、また一説では城というには大袈裟で監視小屋のような簡易な建造物だったとも。出土品は過去の行政調査で発見されているので何かがあった事は確かなようです。
妙蔵寺と付随するやぐら群は別の枝丘陵にあります、また岩見堂で有名な別のやぐら群は相川石見堂と窟堂と名付けられ富津市指定史跡として詳細な調査が城址同様に過去に行われました。こちらに関しては行政に多くの資料が残されているので興味があるかたは各々調べて頂ければ思います。
注意点
岩見堂周辺のやぐら群と妙蔵寺やぐら群は別の遺構です。
有名な岩見堂のやぐら群はこの入口からとなります。
巨石群は存在した
古くは整備されていたはずの作業道などとうに自然回帰しているのでピークに出れそうな緩やかな斜面を選択して登り詰めます、短い距離ですが疲労感が非常に強く残ります。
既に城址の該当エリアですがやはりその形跡は発見できず、登山道としてもなかなかハードな場所です。
樹木の切れ目の絶壁に出ました、この場所は眼下の道路からも確認できていた場所なので現在地はGPSと共に確認できます。
高さを感じられるよい壁なのでラぺリングで降下したくなりますが本来の目的の為、ひと時の休憩を挟み、再度ピークを登り詰めていきます。
ブランド: BEAL(ベアール)
等高線から予想される盆地のような樹海エリアに差し掛かると突然ゴロゴロとした岩が目立ち始めます、これは流石に異様な景観です。どのように異様かというと
・転がり落ちてきたとしてもその岩の発生源がない
・隆起にしても隆起する方向性がバラバラ
・岩の形に一貫性がない
・隆起にしても隆起する方向性がバラバラ
・岩の形に一貫性がない
当たりを引いたようです、この場所がどうやら巨石群と後に呼称されるようになった「穴」がある場所のようです。
何故この時まで巨石群と認識していなかったか、それは事前にヒアリングしていた情報に巨石群を示す内容がなかったからです。石がゴロゴロしているとはお聞きしていました、住職さんも若い頃はこの辺まで登ってきたそうでこの景観を特に気にもせずにいたそう。
しかしここはまだまだ樹海エリアの端、まずはロガーアプリでポイント登録して帰路を確保してから無線のチャンネルを確認。ここからは数人で調査内容を分担して個別行動に入ります。
wesTayin
石田村の巨石群① - Spherical Image - RICOH THETA
なるほど、確かに房総の樹海と言える景観です。閉塞感はありませんが樹木と突き出た岩々の迫力に暫く呆然と眺めてしまいます。
周辺は地形的に方向性を見失う景観なので樹海という言葉も合致します、何より子供がここまで遊びに来たら確かに危険です。忌避地として創作物の地に選ばれたのも頷けるというものですね。
RICOH
盆地の森林エリアに入ると早速岩と岩の間に子供が入れそうな穴を発見、1mほど(見える範囲で深さ3m位)で崩落の形跡があり、更にその奥は土砂が入り込んで埋没していました。このような穴がこの場所では点在しています、やはり小さな身体の子供には危険だと判ります。
素人判断ではありますがこの一帯は事前に目を通した地質調査報告書とは掛け離れているように思えます、参照した資料は以下より。
地域地質研究報告 - 那古地域の地質
https://x.gd/4NSJS
https://x.gd/4NSJS
こちらも併せて見て頂ければ参考になると思われます。
地質学会 - 千葉県房総半島にみられる特定の凝灰岩単層のみを石材として利用した石蔵
https://x.gd/ZAshl
https://x.gd/ZAshl
凝灰岩層で知られるこの地域の地層ですがどのようにして現在の景観に至ったか想像がつきません。こうなってから随分と長い時間が経過していることだけは判りますが難とも不思議な場所です。
人為的な配置や人工物の残置はありません、登山道沿いで登山者が残したと思われるクッカーや比較的近代の落し物は発見されていますがこの森林地帯では自然そのものの景観を保っています。
しかし見れば見るほどに異常な風景が広がっています、本当に巨石がゴロゴロしています。岩質の違いは見られず、どの巨石も地質を同じとするそれと判断。つまり何処からか運ばれてきた可能性は低く、この地で自然発生したのだろうと思われます。
巨石群と呼ばれる存在は世界各地に現在も残されており、誰もが知る有名な遺構はストーンヘンジです。日本にも金山巨石群のように考古学、天文学的調査が行われ太陽暦と密接に関連する計画的人工物としての巨石群があれば火山の噴火に由来するもの、地質に起因するものなど多様です。この石田村の巨石群は最後の資質に起因するものと思われます、宗教的な造形巨石群として野崎島の王位石などもありますがこの石田村に関しては山岳信仰などもなかったようで類似する文献や言い伝えなども地域のヒアリングでは確認できません。
石田村の巨石群② - Spherical Image - RICOH THETA
巨石群の合間を縫うように密集群生している樹木たちも魅力的に映る、美しい場所です。
巨石群の岩はサッカーボールほどの小さい物から3~5m級の動かせそうな大きさ、10m
以上の巨石に至るまで本当に沢山目に入ります。房総を沢山歩いている登山者ならこの景観はきっと房総っぽくないと思われるでしょう、特徴的な岩や穴を国土地理院からプリントアウトした地図にGPSを照らし合せながら記録していきます。
森林地帯の外周は竹林、内部は複数の樹木が密生しています、しかも所々でこの竹林が発生していて行く手を遮ります。
竹が成長するには日光が著しく不足しているのか倒木が目立ちます、これが非常に探索の邪魔をするのです。
このようなエリアに関しては調査が進みませんでした。
一枚岩かどうかの判断はできませんがこの位大きな岩もあります、地形ではなく岩です。
こちらもとても大きな岩、下方に小さな岩が山積してその上に載るように見えます。このような場所には集積作用が働き、岩と岩の隙間に疑似洞窟が現れます。
集積作用による疑似洞窟はその殆どが小規模、閉塞、埋没していることから今回の調査目的だった穴と思われる存在とは別と考え、地面に直接空いている状態のものを探すことにしました。
森林エリアでの探索を続けていると複数の場所より無線で小さな穴を発見したとの報告が入ります、実際に観察してみると確かに地下へ延びる穴がありました。
しかしよくみるとその殆どが集積作用の上に土砂が堆積しており、過去露出していた岩々が地面に埋没した結果、穴の様に見えるのではないかとの結論に至りました。
2010年より2017年まで数回、この地を訪れましたが人が落ちるような穴は結局発見できませんでした。
焚火ではありません、明らかに同等の長さでカットされた製炭の形跡です、梨沢は地域全体が小規模な製炭産業が点在した歴史をもっており、特に七ツ釜渓谷中流域ではその傾向が多く見られました。
#051 梨沢 七ツ釜渓谷
https://www.sugolog.jp/2012/09/051-nashisawa.html
https://www.sugolog.jp/2012/09/051-nashisawa.html
上記リンクの梨沢七ツ釜渓谷でのレポートでも記載しましたが富津市史にもこの地域における製炭産業に言及した項目があります、旧梨沢村全域でこの製炭産業が行われていたとなればこの石田村に関しても同様だったと言えるかもしれません。
千葉県史料、中世編諸家文書にもこの地での製炭産業に関する記載があります。
石田村の巨石群の謎に迫る
この地の成り立ちを少々掘り下げていきましょう。この地域は古くは梨沢村と呼ばれていました、現在は相川ですが地域称として地元でも包括的に梨沢と呼ばれます、それでは石田村という名称はどこから発生したのでしょうか。
巨石群の石から石田の名を冠したのか、ともすれば名の前に形容体として巨石群が認知されていたのか。
ここで富津市教育委員会生涯学習課から提供された資料を見て頂きましょう。
これは驚きました、簡易的とはいえ行政記録に石田村の名前が記されています。添付資料にもこうあります。
1971年03月10付製図(市町村合併前)の土地法典には両大字それぞれの箇所に載っており、石田村と名称とその地は確かに存在したと言える。また課税用資料にも両大字において石田村という地名が使われており、石田村という地名は今でも存在する。
再度驚きました、どうやら行政として石田村は現在も存在すると認識しているのです。居住者がいない為、納税実績はないので村としてどのように解釈するかは色々な考え方があると思いますが地名としての石田村は実在するようです。
つまり、古くから言い伝えの中の石田村は実際の名称として受け継がれてきたのでした。これにより名前ありきの巨石群ということが判明しました、ただ再度行政に確認すると地質的な巨石群の調査は行われていないとのこと。
それでは何故忌避地として受け継がれたか。
それは巨石群という危険な地形による子供のリスク敬遠、また人が住んでいないのに村と名称がつく気味の悪さ。この二つの理由から忌避地として地域では認識されていたのではないか、そう思われます。
石田村は存在し、巨石群も確かにありました。忌避地としての理由も朧気ながら見えてきました、それでは受け継がれてきた忌避地の中に出てくる穴とはなんだったのでしょうか。
注意点
ネット上に「旧石田村」との表記がたまに見られますが記述の通り、富津市は現在も地名としての石田村を認めています。つまり「旧」は不要です、現石田村となります。
行政から提供された資料に記載された区画分けは感覚的なもののようで実際の地形に透過させるとこのような区分になります。
更に今回調査した森林エリアの該当区画を重ねるとこうなります。
解説:赤い部分が今回調査したエリアです
巨石群を中心に調査した結果ともいえますがその殆どが実は石田村ではないのです、巨石群の北東側が大字梨沢石田村で西から北西側が大字相川石田村となります。
注意点
巨石群と石田村は別々の存在と考えるべきでしょう、故に「石田村の巨石群」間違った呼称です。スゴログが初出と思われるこの名称は勘違いによるものでした、俗称としては既に認知されてしまったので仕方ありませんが正確には石田村と巨石群は別のエリアとなります。
この二つを合わせて石田村と称されますが提供資料の記載を注意深く見てみると「351-175大穴」の文字を発見、「大穴」。これです、昔話として、忌避地として。長い間受け継がれてきた元凶の穴はこの大穴ではないでしょうか、今回の調査対象のエリアのギリギリの場所です。
石田村の巨石群③ - Spherical Image - RICOH THETA
大穴と思われる場所まできました、隆起した地形の上に複数の大きな岩が重なり合った状態で周囲に土砂が堆積しているのですがその岩と岩の隙間が穴のようになっていました。ピークに向かう為、岩間を登っている最中突然足元に現れるので注意が必要です。
石田村の巨石群④ - Spherical Image - RICOH THETA
深さは3メートルほど、滑落しても大怪我をすることはありませんが大人でも道具なしでは上がって来れません。
注意点
滑落した場合、ロープやディッセンダー(アッセンダー)などが必要です。降下したい場合は少なくともマッシャーなどのフリクションノット用コードを持参して下さい、降下しても内部にはなにもありません。また「南無妙法蓮華経」の文字も刻まれていませんでした。
なるほど、この深さなら忌避地として子供を遠ざける意味があったのかもしれませんが果たして当時の子供がここまでやってこれたのかと疑問は残ります。内部を調べましたが製炭の痕跡はなく、人工的な残留物もありませんでした。
加え、記載するとこの場所は石田村ではありません。大穴がある場所は「常代越」。巨石群の盆地部分の殆どはこの常代越という地名になります。スゴログでは便宜上、この一帯を全て石田村と呼称していますが記述の通り
南側:常代越
北東:大字梨沢石田村
北西:大字相川石田村
とこの三地域を総称して石田村としています。また谷田堰付近においても谷田堰を挟んで西側が関下、東側は東谷という地名です。
注意点
全く違う場所に「大穴」と記載した案内板を設置した輩が確認されています、当初の調査であった2010年には勿論のことですが最後に調査した2017年にもこのようなものはありませんでした。
北側へ向かいます、等高線を確認すると盆地部分からせり上がるピークを一つ越えると緩やかな斜面が続いていることが判ります。
石田村の巨石群⑤ - Spherical Image - RICOH THETA
起伏の激しい大穴付近から少し下ります、GPS上では以降少しづつ谷田堰に向かって緩やかな傾斜が続くようです。盆地内のような樹海感は薄れ、巨石も疎らとなってきました。
石田村の巨石群⑥ - Spherical Image - RICOH THETA
地層が斜めに隆起しているのが判ります、これも房総半島ではよくみる風景です。
平地まできました、ここまで来ると巨石は少なくなります。自然育成した巨木に混じり、1950年代に植林した樹木が姿をポツポツと表します。人の出入りが多かったのか瓶などの人工物が落ちているのですが他にも製炭で入山した際の茶碗などが割れた状態で散乱しています。
人里に近くなってくるとこのような石垣が現れます、野面積みですが立派な石垣です。作業小屋があったなどの話はヒアリングから聞き及んでいませんが簡易建造物の為の整地痕かもしれません。
谷田堰から程近い石田村北端、こちらは当初の調査では特に興味をそそられませんでしたが後にランドマークのように認知される丸味を帯びた岩。亀が頭を伸ばしている風体から亀岩と呼ばれることもあるのだとか、自然造形の一端を垣間見ます。
場所は大字相川石田村と関下の境界線付近、古地図と比較してもこの辺りは境界が曖昧です。
石田村の巨石群⑧ - Spherical Image - RICOH THETA
石田村北端、この周辺は関下と思われますが1970年代までは水田の先端部分となります。地面は湿地で湧水している場所もあります、谷田堰の水源と思われる小川が2本(内1本が本流)確認できました。
小川の細い流れが確認できます。
谷田堰側からの入山地点、ステップが刻まれています。2010年当時の調査ではなかったピンテがあちらこちらに括り付けられています、内部でかなりの数のピンテを発見しましたがルートとして適切ではない順路や倒木によって断絶された箇所へ誘導するものなどいい加減な設置もありました。
決してお薦めできるような遺構鑑賞地ではありません、入山される場合は事前のルート確認とGPS端末を持参の上で登山されて下さい。ただ登山のレベル指標としては限りなくゼロに近いので経験者にとっては散歩しているのと変わりません。
注意点
これらのピンテは土地所有者に無断で設置された違法行為です、案内板なども含めて設置は元よりルートの信頼性は皆無ですので注意が必要です。
Lighting EVER
石田村の村とはなんだったのか
最後にこの石田村の「村」とは何を意味するのか考察したいと思います。
むら【村】
人の集まり住んでいる所。むらざと。いなか。また、今の日本の地方公共団体として一番小さいもの。
人の集まり住んでいる所。むらざと。いなか。また、今の日本の地方公共団体として一番小さいもの。
この石田村、行政の納税記録にも居住実態は確認されていません。現地での調査においても文化的な生活の痕跡はありません、むしろ強い自然を感じる場所でした。
では何故に村と呼称されたのか。
それは既にレポート内でも説明した製炭産業に起因すると思われます、この場所から製炭の痕跡が発見できたことからも人の出入りは確実にありました。
この地は七ツ釜中流域とは違い、河川はありませんが本来山岳地帯での製炭はこのような深い山中で行われています。人が住むことはなかったものの、製炭の作業場としてこの石田村は最適だったと言えるのではないでしょうか。
それは調査過程で発見した数々の集積作用による穴です、これは製炭の窯として利用できたのではないか。で、あれば自然の炭窯が点在するこの場所は製炭産業にとっては実に効率的な地形であったことでしょう。
房総半島での製炭は掘削型の窯が中心です、七ツ釜渓谷では開放型の窯が発見されていますがそれ自体が実は稀で他の地域では掘削型が殆どです。この掘削型の炭窯が労せずして点在する石田村、村と称されるほどの人の出入りがあっても不思議ではありません。
自然を強く感じる場所でありながら人工的な匂いを感じることのできる不思議な場所、産業の地であるが故に不要な人間を遮断するための忌避地としての伝承。これらは現在の石田村を形作った理由の数々であると考察します。
周辺のやぐら群が作られたのが1300年代と言われているので人の出入りはその時代からあったはず、その頃にはきっと人々を恐怖させた大きな穴が地表に口を空けていたのかもしれません。
石田村の巨石群⑦ - Spherical Image - RICOH THETA
注意点
石田村の巨石群に関しては今後詳細な調査が行われるという話もあります、東京大学の学生団体「東大むら塾」が主導する「農業×地域おこし」の地道な活動が他の地域から着目されることとなり、更にこの石田村に関しても少しづつその存在が知られるようになっています。スゴログでは現地調査の結果や現場の撮影業務なので今後もこの石田村の謎を追っていこうと考えています。
2024年05月 追記更新
当サイトをご覧頂いた方から大変貴重な情報提供がありました、また公開から10年以上が経過して現地の様子がどのように変化しているかを確認する為に再度来訪。これらの追加調査で新たに判明した情報と共に問い合わせがあった内容に関しても回答しようと思います。
まずは問い合わせがあった回答を記載します。
富津市発行のチラシに貝塚があったとあるが
天羽城~中世の山城楽歩~
富津市観光協会による2019年発行の「天羽城~中世の山城楽歩~」に「石田村巨石の森」が描かれており、キャプションに「以前相当の貝塚が確認できたと伝わる」と書かれています。しかし明確な情報源はなく、梨沢地区の聞き取り調査でも貝塚が発見されたという話はありませんでした。また複数回の調査でも現状貝塚は発見できておらず、近世に至っては居住実態は確実にありません。また縄文弥生時代の話となれば、可能性はあります。
千葉県中近世城跡研究調査報告書
こちらの報告書にも天羽城については触れられていますが梨沢常代城跡や石田村についての記載はなく、資料を探してみましたが富津市大坪貝塚資料調査報告書のような明確な情報源はやはりありません。加え、ウィキペディアに掲載されている千葉県の貝塚一覧分布図にも梨沢一帯に貝塚は記載されていません。
千葉県の貝塚の一覧/分布図拡大 - ウィキペディア
縄文時代の関東の地図では梨沢地区は海岸から程近いとはいえ、隆起した山間部として描かれています。このような地形の場合人口密度の高い内湾沿いに貝塚が集中しますが上総地方には殆ど貝塚はありません。
注意点
この貝塚が発見されたという内容について整合性のある情報源をお持ちの方は是非ご一報願います
人工的に切削した形跡ではないか
この地域は千葉県教育庁教育振興部文化財課によれば「上総層群竹岡層」ながら泥岩を多く含んだ凝灰岩が多いとのこと、また砂岩や石灰岩も多く見られるとあります。写真のような割れ目を人工的な掘削痕と思われるかもしれませんがその殆どは溶食孔によるものと思われます、製炭産業の際に岩を加工した形跡も見られますがその殆どは自然にできたものです。また小規模な節理、断層の動きによるズレなども考えられます。
産業的な、または宗教的な理由にせよ岩の切断には時間とマンパワーが必須。それだけの労力を消費するにはそうするべき根拠が必ずあると考えます、これらが人工切削痕だとすると何の為の切削なのかが問題です。
近代において製炭があったとされる江戸時代から昭和初期に、これらの岩を切断する原拠とはなんでしょう。人の出入りが一番多かったと思われるその時代、石切りの技術は楔子取技法かノデン(タテギリ)でした。そういった切削痕や矢穴の形跡もなく、出荷を目的とした石切り場でもない。産業や宗教各両面の検証考察を行い、更にこれらを踏まえると石の目による裂開とするには十分な根拠でるとスゴログは考えます。
採石技術 - 伊豆石文化探究会
注意点
凝灰岩の風化による割れ方は昼夜温暖差や水分の浸食速度、含有物の構成や圧縮方向性により多種に渡ります。特に平面などの一見して裂開に思える状態は冷却による板状節理の節理面であることも、また過去に水没地域だったり木の根によって割かれた後に樹木が枯れ落ちてその形跡が人工加工のように見える場合もあります。
石田村の巨石群によく見られる剥離(この地域の場合は集積現象と類似する作用と思われる)、大小規模の違いはあると思いますが直線的に剥離すると人工的な切削痕に見える場合があります。
こちらも同様の剥離、人の背を超える大きな岩でもこのような現象が確認できます。
このような形状の岩は典型的な浸食による自然掘削痕です、同じ房総半島にある高宕渓谷でも非常に類似する形状の岩質を見ることができます。
房総特融の柔らかい泥岩層で高宕渓谷は水流による激しい浸食が掘削痕として目視出来ます、石田村には枯れ沢と思われるガリーが幾つもあります。特に北側の谷田堰に向かうガリー沿いにはこのような水流による浸食が点在しています。
浸食痕は一定の高さを維持して下流方向へ向かっています、遥か昔に川が流れていた可能性は大いにあります。谷田堰付近には上流より流れ着いている小川もあり、水田の水源にもなっています。
更に下流方向には川が二手に分かれただろう地形も、右側が本流と思われる。
日本シームレス地質図
地質図によれば梨沢一帯はやはり砂岩泥岩互層で片理面に統一性がないことが返って多様な人工的加工痕に見えているのでしょう、製炭に関する窯由来以外の人工的加工痕は現在のところ発見できていません。
因みに巨石群より程近い梨沢中流域でも類似する岩質や裂開が見られます。
しかしガリーから離れた場所においてもこのような浸食痕が確認できる岩もあります、科学的検証が待たれるところです。
地形を祭壇に模した神聖な場所だったのではないか
ミステリースポットフリークにはなにやらこの場所が「神聖な儀式が行われた特別な場所」などと書き立てる方がいらっしゃるようですが現状、そのような痕跡は発見できていません。地域の歴史的背景を考慮した上で梨沢地区のヒアリングにおいてもそのような証言は一切なく、有人常駐の神社として石田村から一番近い妙蔵寺の住職からもそのような伝承はないと証言を得ています。
地域には山岳信仰が少なからず存在しています、その証拠に岩窟・石仏などが多数確認されており、梨沢大滝にも石仏が掘られています。これらは神道に通ずる自然信仰の一環であり、珍妙な祭事や怪しげな宗教が跋扈した歴史も確認されていません。
歴史的検証や実態を伴わない想像の俗説流布には注意が必要です。
石田村には製炭窯が複数あった
今回地元の方より梨沢青年会経由で新たな証言が届きました、富津市内で造園業を営まわれているSさんのお話です。
Sさんは今年(2024年現在)で72歳ですが小学生くらいの頃に父親と天羽城山へ登山に何度も行ったそうです、入山経路は妙蔵時の裏手の斜面を登り畑に出てから登山道に入ったとのこと。このルートはスゴログでも認知しておらず、今回の証言をもとに現地で探すと確かに人が通ったような形跡が発見できました。
「自分や自分の父親(Sさんの祖父)はここで山仕事をしていたことがある、家で使っていた炭はここで作っていた。」
と聞かされ、実際に炭窯も見せてもらったとのこと。60年以上前の話なので明確な場所は覚えていないとのことでしたが複数の炭窯を見せてもらった記憶があると貴重な情報を頂きました。
やはり石田村には製炭産業が確実にあったようです。
梨沢上流域の製炭産業についてもお聞きしましたが驚くことにこちらはご存じないようで、そもそも梨沢大滝より上流は地元の人間でもあまり歩くことがなかったのだとか。アクティビティとしての沢歩きが確立してなかった時代、産業と直結しない行動は必然的に無意味とされていた時代のこれも貴重なご意見でした。
そして2024年、ついに石田村での製炭の炭窯を発見しました。
近くに破棄された炭が散乱していたので注意深く探すとやはりありました、内部は黒く煤けています。
無線で連絡が入り、他の場所でも炭窯を発見したとの連絡が。確認するとこちらも中が黒く煤けていて付近には炭が数本残されていました。
岩がコの字に積み上がっている自然の造形を利用して炭窯としているようです、特に横穴に多く炭焼きの形跡が確認できました。縦穴での炭窯は発見できませんでした。
2017年頃より行政広報や観光案内にも記載されることが多くなった石田村の巨石群、2010年にスゴログが富津市に問い合わせた時点では職員も殆ど認知されてなかったこの場所が沢山の人の目に触れる事により新たな発見があるかもしれません。
スゴログでも独自に東北大学の研究者と再訪して専門的な調査を行う予定です、そこから新情報などがありましたらこのエントリーにて追記していきます。
参考・協力
富津市
富津市教育委員会生涯学習課
富津市環境保全課
梨沢地区
梨沢青年会
ふさの国文化財ナビゲーション
真言宗智山派 妙蔵寺
富津市立図書館
製炭集落の諸類型/国立情報学研究所
地学団体研究会
久留里歴史散歩Ⅱ/君津地方歴史情報館
レポートの場所 ※ GoogleMap登録済
注意点
該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。
注意点
該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。
スゴログの装備とその使用方法など
https://www.sugolog.jp/p/blog-page.html
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