霊仙の廃村群の中に一際異彩を放つ集落が一つあります。長い歴史が確かに記録されてはいる、なのに集落形成時期や形成当時の模様がはっきりしない。そんな謎多き「向之倉集落」は幾つもの呼称で呼ばれたことでも知られる、近年に急速に倒壊数が増えたこの集落の歴史とそこで生活した人々の様子をレポートしたいと思います。
滋賀県│向之倉集落
調査:2010年06月
再訪:2010年10月 / 2011年05月
公開:2010年12月23日
名称:正式名称→向之倉集落
状態:過疎集落
調査:2010年06月
再訪:2010年10月 / 2011年05月
公開:2010年12月23日
名称:正式名称→向之倉集落
状態:過疎集落
旧サイトで複数回に分けて公開していたレポート内容を2011年現在の調査内容に統合して再エントリーしました。また古くなった情報などは精査して削除しております。
立地の利を活かせなかった小規模集落
この集落に興味をもったのは他の霊仙廃村群と同じ2006年頃、時を同じくしてまだ自立していた家屋が倒壊し始めてしまい、2008年には全てが自然倒壊してしまった。もう少し早くこの地を来訪していればより詳細な現地調査が可能だったことを考えると残念でなりません。
注意点
倉庫や関連する建造物は多少残ってはいますが集落内の住宅は倒壊しています、2004年頃までは殆どの建造物が残っていました。
向之倉集落の形成は江戸中期と言われています、人口増加が目立ったのは1700年~1750年の頃。江戸時代後期には現在とほぼ同等の造成地形が確立したのだそう。
丁度その頃はこの地の山間部においても貨幣経済が民間にまで浸透した時代、林業、山間部農業、山窩木工など様々産業形態を経てこの村では製炭が主な産業として定着しました。周囲の集落同様、多賀町の山間部での産業は製炭が多く、これは形成時期こそ違えどその地形や資源が同様なのを考えれば当然のことなのでしょう。
場所はここ、他の集落も含めてみると丁度この地域の中心に位置します。主要産業道路の他にも山道を多く開拓し、生活道路としていた時代背景を考えると集落群の主要的な役割を持ってもおかしくないのですが。
近隣で一番古い男鬼集落でも生活レベルが高かった入谷集落でもなく、霊仙集落群の中心的な役割を担ったのは落合集落でした。これは集落の位置関係や産業資源の問題ではなく、川の流れ(水源の確保)が何より重要だったことに起因します。
山間部での集落形成で問題となるのはこの水源で、川から遠く離れていたり井戸が機能しなかったり(井戸を掘削しても水量が少ないなど)と兎に角「水」が生活基盤となります。落合集落は平地が潤沢で井戸も多く、そして名称の由来となる「川が落ち合う」ほどの河川優遇立地。
そしてこの向之倉集落はこの「水資源に余り恵まれなかったことが立地の良さを活かせなかった最大の原因ではないか」、とは現地で聴き取り調査を行った当時に複数の方からお聞かせ頂いた言葉でした。
特に周囲の集落との差異も感じられない山中の立地、しかし調査を進めると何故か「水」に関するエピソードに多く行き着くことになります。
冒頭の説明通り、この向之倉集落。その形成時期がハッキリとしていません、それどころかどの様に集落ができたのかも詳しく解っていないのです。更には「むこうのくら」、「むかいのくら」、「こうのくら」など地元の住民にも多様な呼称で知られていた始末。
現在は「むかいのくら」で統一されましたが近代史においても複数の呼称名を様々な関連資料で目にします、それでは何故このよう謎多き集落になったのでしょうか。
集落内をはしる生活道路、というより路地。以前(2004年頃)はもっと荒れていましたが2008年の全倒壊後に行政の回収作業で再整備されて歩き易くなっていました。
倒壊、解体された家屋の木材などは廃棄されたそうで歴史的な資料となる生活用品も全て捨てられてしまいました。
そこで一つの仮定が生まれました。
この霊仙廃村群にはどの集落にも大小様々ではありますが神社仏閣が、いうなれば宗教観がしっかりと根付いた形で信仰が運用されていました。
よって集落内の石垣は生活範囲では野面積みが散見できたとしても神社などの基礎部分は打込接ぎなどで造られています(言葉に矛盾はありますが丁寧な野面積みなど)、しかしこの集落は全てが原始的な野面積み。
つまりこの集落には多賀大社の末社こそあれど生活基盤が産業に大きく傾倒していたのではないか、と思われるのです。
聴き取り調査の内容を精査すると集落形成当時、この場所では井戸を掘っても少量の水しか湧水しなかったそう。また桂の大木付近の泉に関しても容易に手を出せない言い伝えがあったようなのです。それらを紐解く末社の名称は井戸神社、「水に困窮した」との情報とこの神社名…何とも考えさせられるではありませんか。
また、形成時期や生活模様がハッキリと記録されていないのには「末社意外に神社仏閣が存在しない」という事実が大きく関係していると思われます。何故ならば古い文献の文化的記録は神事や祭事を優先して残していたから、付随する生活や文化の記録が希薄なのはこの地域宗教感の強弱が大きく作用していると思われます。
ここからはそれぞれの疑問点を含め、答え合わせといきましょう。
これは水の資源に乏しかった時期の水乞い行事でもあったのでしょう、また祭具である太鼓を集落内を闊歩しながら打ち鳴らしたそうです。これにも意味があり、太鼓の神性は広く知られていますが正に「雨乞い」。日本全国の集落で主に農業に関する神事や祭事で使用されてきました。
この祭具としての太鼓は、その物自体が神性を帯びている証として大木で作られていました、集落には樹齢400年を越えるカツラの木が残されていることからまだ幼木だった1700年代から続くこの地には多賀神社という大きな宗教感より土着の大木信仰(神道に近い考え)があったようなのです。
この集落が霊仙の集落群の中で重要性を認められなかったのは水源に乏しかった(その様な時期があったか集落形成時に水か火に関する災いが発生した)と共に同一の宗教感に依存しなかった、そして産業としても大木信仰の為に製炭さえ規模が小さかったことが大きな要因だった考えれれます。
よってこの地の記録は少なく、現在にフィードバックされる情報が少ないという結果を齎したのでしょう。恐らく、特別変わった風習や独自文化は存在しなかった筈。そして普通に周辺地域の人々とも交流し、生活も大きく滞ることはなかったのです。
色々な憶測はあくまで情報が少な過ぎた結果であり、事実は余りに凡庸なのだと思います。
桂は成長に多くの水分を必要とする樹木です、水源に乏しいといってもそれは井戸の話で土中に含有している水分は鈴鹿の山々となんら変わりはありません。水に悩まされたと言われるこの集落の御神木が水を大量摂取する樹木とは神社の名称共々皮肉が利き過ぎていますが更に面白い伝承があります。
何故この集落の人々が水源に苦しみ、そしてそれを良しとして大木信仰を継続したのか。この伝承から読み解くことができます、何かしらの自然現象(または気象現象)がこのような伝記を生んだのでしょうがその正体は何だったのかは今となってはわかりません。
この伝承から当時の人々がどの様な想いでこの神社を「井戸神社」と名付けたのかも解るような気がします、向之倉集落の歴史と共に何かしらの「戒め」があったことは間違いないのでしょう。
またこの集落には神社の他に小さなお堂があり、中には地蔵が祀られていますが石造ではなく木造の地蔵なのです。この珍しい木造の地蔵も何かしら大木信仰と関係しているのかもしれません。
それからは定住者が減り、冬季限定の廃村状態と限界集落を繰り返しながら1985年に廃村へ。しかしその後再度冬季限定の廃村として復活、限界集落として1992年頃まで人が住んでいたようです。
公式記録の人口推移としては、
この集落の関係者やご家族は各地に転居しているが今でも訪れる事が在るそう、廃村になってからも定期的に「秋祭り」は行われており、その地域文化は守られています。
行政記録としては、
となります。主要産業だった製炭も燃料革命と戦後復興の都市型整備、高度経済成長などの世相の波に飲み込まれ廃村へ。この流れは同地区のどの集落とも符合し、近代化の影が行政から提供して頂いた地域関連資料かも見え隠れします。
冒頭でも記載しましたが「むこうのくら」、「むかいのくら」、「こうのくら」と好き勝手呼ばれていたようです。現在では「むかいのくら」。
この多賀町の霊仙集落群は移住者は少なく、古くから同じ地に住まう地元民の人々です。ならば何故このようにバラバラに呼ばれることになったのか、現地調査時に多賀神社の参拝者からお聞きした話を参考に記しましょう。
この時点で集落内外で同じ漢字表記なのに呼称が違っていることが判明、更に
つまり、これは合併前後の読み間違いと元々の集落内外の呼称違いが混同して発生した複雑な要因があったのですね。戦後は役所の方も担当する者によって呼称名が違ったという話は全国的にもよく聞く話です(地名どことろか個人名に到っても)、戦後の混乱時ならばそれは更に顕著だったことでしょう。
もう一つ、これは謎という謎ではありませんがこの集落の廃村時期についてです。行政記録や町暦、書籍によってこの向之倉集落の人口推移や廃村時期が異なって記されています。
これについては離村した方が再度この集落に戻って一時期生活した期間を限界集落としてカウントするかどうか、という問題のようです。
彦根市役所にも確認しましたが結局は納税記録がどの住所から行われているか、これに帰結します。つまり実際に居住実態がなくてもその登録された住所から納税されており、しかも転居手続きが行われていなければ行政記録としては残ってしまうのです。
福祉課業務で高齢の自宅を来訪する事が当然となった今とは違い、当時の居住実態の確認がどれほど正確だったのかは推して知るべしでしょう。
特に周囲の集落との差異も感じられない山中の立地、しかし調査を進めると何故か「水」に関するエピソードに多く行き着くことになります。
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冒頭の説明通り、この向之倉集落。その形成時期がハッキリとしていません、それどころかどの様に集落ができたのかも詳しく解っていないのです。更には「むこうのくら」、「むかいのくら」、「こうのくら」など地元の住民にも多様な呼称で知られていた始末。
現在は「むかいのくら」で統一されましたが近代史においても複数の呼称名を様々な関連資料で目にします、それでは何故このよう謎多き集落になったのでしょうか。
集落内をはしる生活道路、というより路地。以前(2004年頃)はもっと荒れていましたが2008年の全倒壊後に行政の回収作業で再整備されて歩き易くなっていました。
倒壊、解体された家屋の木材などは廃棄されたそうで歴史的な資料となる生活用品も全て捨てられてしまいました。
注意点
この地に限らず霊仙集落群を要する鈴鹿山麓は豪雪地帯で知られ、放置された家屋などの建造物には厳しい地域です。自然倒壊が急激に進んだのではなく、建設時期が似通っていた為に倒壊時期も重複したと考えられます。
小規模な集落の正体
集落内には生活道路や家屋の基礎部分に石垣を見ることができます、そのどれもが野面積みでしかも乱積み。これは集落の形成時期が古いのではなく、集落規模が小さいことで大きな造成工事を必要としなかったと思われます。拙速ではありますが地産産業が小規模だったので仕方なかったのかもしれません、因みに農業の平地は確保できなかったようで出荷用の農作物の栽培は行われていませんでした。そこで一つの仮定が生まれました。
この霊仙廃村群にはどの集落にも大小様々ではありますが神社仏閣が、いうなれば宗教観がしっかりと根付いた形で信仰が運用されていました。
よって集落内の石垣は生活範囲では野面積みが散見できたとしても神社などの基礎部分は打込接ぎなどで造られています(言葉に矛盾はありますが丁寧な野面積みなど)、しかしこの集落は全てが原始的な野面積み。
つまりこの集落には多賀大社の末社こそあれど生活基盤が産業に大きく傾倒していたのではないか、と思われるのです。
聴き取り調査の内容を精査すると集落形成当時、この場所では井戸を掘っても少量の水しか湧水しなかったそう。また桂の大木付近の泉に関しても容易に手を出せない言い伝えがあったようなのです。それらを紐解く末社の名称は井戸神社、「水に困窮した」との情報とこの神社名…何とも考えさせられるではありませんか。
また、形成時期や生活模様がハッキリと記録されていないのには「末社意外に神社仏閣が存在しない」という事実が大きく関係していると思われます。何故ならば古い文献の文化的記録は神事や祭事を優先して残していたから、付随する生活や文化の記録が希薄なのはこの地域宗教感の強弱が大きく作用していると思われます。
ここからはそれぞれの疑問点を含め、答え合わせといきましょう。
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集落の記録が何故少ないのか
向之倉集落には「秋祭り」という神事があります、この神事には本社である多賀神社より神主が訪れて玉串拝礼などを元住民などと一緒に行います。そして重要なのはこの後にありました、実は拝礼後に巫女が井戸神社の井戸の水(初期は井戸神社のカツラの泉)を汲み、沸騰させて末社(旧くは集落内も)周囲に湯気を沸き立たせながら撒くのです。これは水の資源に乏しかった時期の水乞い行事でもあったのでしょう、また祭具である太鼓を集落内を闊歩しながら打ち鳴らしたそうです。これにも意味があり、太鼓の神性は広く知られていますが正に「雨乞い」。日本全国の集落で主に農業に関する神事や祭事で使用されてきました。
注意点
向之倉集落の近代史に「水源に乏しい、水に困窮した」という記録はありません。聴き取り調査時の複数の情報を基に現在残る他の資料や祭事などを考慮した予測となります。また恐らくですが一時期水不足に悩まされた、もしくは転じて火の驚異にさらされたとも考えられます。事実、地域で一番古い男鬼集落にも「水」の文字が屋根部分に大きく彫られた家屋が点在しており、これは「火災から守る為のまじない」と信じられていました。
同様にこの向之倉集落の家屋の屋根部分には「水」と大きな彫刻が施されており(倒壊前の家屋の屋根部分にて確認)、地域全体で類似する文化が共有されていたのかもしれません。
同様にこの向之倉集落の家屋の屋根部分には「水」と大きな彫刻が施されており(倒壊前の家屋の屋根部分にて確認)、地域全体で類似する文化が共有されていたのかもしれません。
この祭具としての太鼓は、その物自体が神性を帯びている証として大木で作られていました、集落には樹齢400年を越えるカツラの木が残されていることからまだ幼木だった1700年代から続くこの地には多賀神社という大きな宗教感より土着の大木信仰(神道に近い考え)があったようなのです。
注意点
雷様で知られるように太鼓は雷を呼ぶ道具としても知れれています、雷つまり雨と考えて「雨乞い」の神性を帯びた祭具とされていました。
この集落が霊仙の集落群の中で重要性を認められなかったのは水源に乏しかった(その様な時期があったか集落形成時に水か火に関する災いが発生した)と共に同一の宗教感に依存しなかった、そして産業としても大木信仰の為に製炭さえ規模が小さかったことが大きな要因だった考えれれます。
注意点
集落内における大木信仰は公式記録には残っておらず、こちらも現地の聴き取り調査に基づくものです。また大木信仰と産業規模の関連性に関しても諸説語られています。
よってこの地の記録は少なく、現在にフィードバックされる情報が少ないという結果を齎したのでしょう。恐らく、特別変わった風習や独自文化は存在しなかった筈。そして普通に周辺地域の人々とも交流し、生活も大きく滞ることはなかったのです。
色々な憶測はあくまで情報が少な過ぎた結果であり、事実は余りに凡庸なのだと思います。
合致する残された記録の生活模様と伝承
件の桂の大木、井戸神社のカツラとして知られています。県下一の巨木だという、御神木として地元民ならず行政の保護も受けており町指定天然記念物。大木や老木には偶にみる複数の幹が延びる株立ち、全部で12本もの幹(ひこばえの集合体)が空高く今も尚伸び続けています。桂は成長に多くの水分を必要とする樹木です、水源に乏しいといってもそれは井戸の話で土中に含有している水分は鈴鹿の山々となんら変わりはありません。水に悩まされたと言われるこの集落の御神木が水を大量摂取する樹木とは神社の名称共々皮肉が利き過ぎていますが更に面白い伝承があります。
この大木の下(もと)には絶えず湧き出る泉があり、その水色は不思議な深い緑色(現在でいうコバルトブルー)だった。村人はその魅入る水面の色と透き通り底が見えない泉へ石を投げて深さを知りたくなった、村人が好奇心に塗れて石を放り投げるとそこから純白の大蛇が姿を現した。白蛇は泉から水を巻き上げると周囲をたちまち大洪水へ変貌させ、人々は白蛇の怒りを収める為に神社を造り治水を願った。
更には年に一度、その泉の水替えを行い、その時は白蛇が大木へ宿ってその様子を見守った。それからこの大木はご神木となった。
更には年に一度、その泉の水替えを行い、その時は白蛇が大木へ宿ってその様子を見守った。それからこの大木はご神木となった。
何故この集落の人々が水源に苦しみ、そしてそれを良しとして大木信仰を継続したのか。この伝承から読み解くことができます、何かしらの自然現象(または気象現象)がこのような伝記を生んだのでしょうがその正体は何だったのかは今となってはわかりません。
この伝承から当時の人々がどの様な想いでこの神社を「井戸神社」と名付けたのかも解るような気がします、向之倉集落の歴史と共に何かしらの「戒め」があったことは間違いないのでしょう。
またこの集落には神社の他に小さなお堂があり、中には地蔵が祀られていますが石造ではなく木造の地蔵なのです。この珍しい木造の地蔵も何かしら大木信仰と関係しているのかもしれません。
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向之倉集落の近代史
向之倉集落には一時期とは言えこのような山間部に20軒の家屋が立ち並び、100人近くの人間が住んでいた。1880年頃の話だ。小規模といいながらピーク時の集落人口は周囲の中規模集落と同等か多い位なのです。それからは定住者が減り、冬季限定の廃村状態と限界集落を繰り返しながら1985年に廃村へ。しかしその後再度冬季限定の廃村として復活、限界集落として1992年頃まで人が住んでいたようです。
公式記録の人口推移としては、
1880年 - 95人
1960年 - 52人
1965年 - 43人
1970年 - 10人
1975年 - 3人
1980年 - 2人
1985年 - 廃村
1960年 - 52人
1965年 - 43人
1970年 - 10人
1975年 - 3人
1980年 - 2人
1985年 - 廃村
この集落の関係者やご家族は各地に転居しているが今でも訪れる事が在るそう、廃村になってからも定期的に「秋祭り」は行われており、その地域文化は守られています。
行政記録としては、
1974年 - 滋賀県に編入
1889年 - 町村再編に伴い芹谷村へ編入
1941年 - 多賀町に合併
1889年 - 町村再編に伴い芹谷村へ編入
1941年 - 多賀町に合併
となります。主要産業だった製炭も燃料革命と戦後復興の都市型整備、高度経済成長などの世相の波に飲み込まれ廃村へ。この流れは同地区のどの集落とも符合し、近代化の影が行政から提供して頂いた地域関連資料かも見え隠れします。
向之倉はなんと読むのが正しいのか
さて、最後に何故複数の名称で呼ばれ続けたか、の謎です。冒頭でも記載しましたが「むこうのくら」、「むかいのくら」、「こうのくら」と好き勝手呼ばれていたようです。現在では「むかいのくら」。
この多賀町の霊仙集落群は移住者は少なく、古くから同じ地に住まう地元民の人々です。ならば何故このようにバラバラに呼ばれることになったのか、現地調査時に多賀神社の参拝者からお聞きした話を参考に記しましょう。
向之倉は戦前「向倉」と書かれていてその頃は「こうのくら」と読んでいた、しかしそれは集落以外の方がそう呼称していたそうで同じ「向倉」でも集落に住んでいる方達は「むかいのくら」と自称していた。
この時点で集落内外で同じ漢字表記なのに呼称が違っていることが判明、更に
多賀町に合併して漢字表記が「向之倉」に統一、その時期に集落外の方が「むこうのくら」と勘違いして呼んだと聞いたことがある。
つまり、これは合併前後の読み間違いと元々の集落内外の呼称違いが混同して発生した複雑な要因があったのですね。戦後は役所の方も担当する者によって呼称名が違ったという話は全国的にもよく聞く話です(地名どことろか個人名に到っても)、戦後の混乱時ならばそれは更に顕著だったことでしょう。
もう一つ、これは謎という謎ではありませんがこの集落の廃村時期についてです。行政記録や町暦、書籍によってこの向之倉集落の人口推移や廃村時期が異なって記されています。
これについては離村した方が再度この集落に戻って一時期生活した期間を限界集落としてカウントするかどうか、という問題のようです。
彦根市役所にも確認しましたが結局は納税記録がどの住所から行われているか、これに帰結します。つまり実際に居住実態がなくてもその登録された住所から納税されており、しかも転居手続きが行われていなければ行政記録としては残ってしまうのです。
福祉課業務で高齢の自宅を来訪する事が当然となった今とは違い、当時の居住実態の確認がどれほど正確だったのかは推して知るべしでしょう。
参考・協力
彦根市役所
多賀町役場
多賀町立図書館
多賀町史下巻
財団法人 滋賀県文化体育振興事業団
角川日本地名大辞典25 滋賀県
彦根市役所
多賀町役場
多賀町立図書館
多賀町史下巻
財団法人 滋賀県文化体育振興事業団
角川日本地名大辞典25 滋賀県
レポートの場所
注意点
該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。
注意点
該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。
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