2019-11-21T15:50:58Z #029 霊仙 男鬼集落

#029 霊仙 男鬼集落

男鬼集落は他の霊仙廃集落群とはやや趣が異なります、一見すると同系統の集落と思われますが山岳産業の収益方法や極々限定的な統治、文化などとても面白い特徴を多く兼ね備えていました。また神社の信仰性にも他との違いが見て取れ、何より実は周囲の集落群の中で断トツに古くて長い歴史を誇ります。この不思議で興味深い男鬼集落を少しだけ、現地見聞と共に掘り下げていきたいと思います。

スゴログ 男鬼集落 廃村
滋賀県│男鬼集落

調査:2010年06月
再訪:2010年10月 / 2011年05月 / 2012年7月
公開:2010年11月25日
名称:正式名称→男鬼集落
状態:長期間放置(一部は元住民による保存活動が継続中)

旧サイトで複数回に分けて公開していたレポート内容を2012年現在の調査内容に統合して再エントリーしました。また古くなった情報などは精査して削除しております。


近隣集落では一番古く、長い歴史を有する

落合集落からも程近い(結構走りますがこの地域の間隔で言えば隣町です)男鬼集落、読み方は「オオリ」。その歴史は古く、この地に人が集落を形成し始めたのが西暦700年頃といわれています。

712年に建立された霊仙山七ヶ寺の中に男鬼寺と言う名が記録として残されている、この読みが違う点が地域民俗学の関係者を困らせていてこの場所に立てられた寺なのか別の場所なのかがハッキリしないそう。後天的な当て字とされる記録もありますがその検証結果には疑問も多く、現在でもハッキリと判明していません。

注意点
男鬼寺は「オオリジ/オオリデラ」読まれることもありますが正しくは「ダンキジ」が正式呼称、集落名「オオリ」とは読みが異なります、これは集落がまだ黎明期の頃に現在の「オオリ」ではなくて「ダンキ」と呼ばれていたとされる説に基づきますが諸説ある為、正確な確認はできません。

中納言秀次(豊臣秀次)が近江一円氏に命じ作らせた1588年発刊の「絵地図」には武奈、男鬼の村名が記載されているのでこの時点では確かに男鬼集落は存在していたのだろう。

近年の歴史では製炭や養蚕などで得ていた収益も1960年代後半から衰退し、遂には1971年に廃村に。無人に成ってからも林間学校や行政の自然学習、地元民の方の集まりなどで度々家屋などの改修は行われていた。

現在では夏季に家屋の手入れなどで元住民の方が不定期に在村されているが定住者はやはり一人も居ない、訪れた時も茅葺屋根の葺きなおし作業が途中だったので最近も人が入っているのは確かだった。折角なのでハシゴを降りてきた元村民と思われる方にこの男鬼について聞いてみました。

「行政から頂いた資料でこの男鬼は非常に古い集落だとお聞きしたのですが」
「自分も祖父から昔のことを聞いたことがあるが以前は語部がいた」

「文字による記録ではなくてですか」
「そう、ただその語り部も祖父が子供頃にはもう亡くなってしまって」

成程、この地域に歴史に関する諸説が語られるのはこの辺が関係しているのかもしれません、この時同行した役所の方も話をされていましたが特に有力な情報は得られませんでした。

彦根歴史散歩―過去から未来をつむぐ (近江旅の本)
彦根景観フォーラム
サンライズ出版
売り上げランキング: 1,039,024

スゴログ 男鬼集落 廃村

非常に解りにくい寺と神社の存在

この男鬼集落にも近隣の集落同様に寺と神社が隣接する、と言うか隣接して存在していました。写真は日枝神社、非常に立派で山深い場所に何故ここまで大きな神社がと思わせます。山の神様(大山咋命/おおやまくいのみこと)が今も尚鎮座する場所は自然が溢れる荘厳な雰囲気が漂います。

ところで先に書いたように寺はちょっと複雑な経緯があります。

重複しますがこの地域は何故か寺と神社が隣接している事が多い、地図を確認すると日枝神社と場所を隣り合う様に寺の印が在る。



訪れると実際に寺は在るのだけどどうやら最近に成って廃寺と成ってしまったそう。人が居なくなり、維持と意味が薄れた結果だろう。名を誓玄寺と言うのだけど調べてみると寺はもう一つ在った、此方の名は無量寺。

元々は誓玄寺と無量寺の双寺体制だったが無量寺を明治初年に売却、その後この無量寺が在った場所に誓玄寺を移動。しかしその誓玄寺も2000年代に入って廃寺と成った、という事は本来の誓玄寺の場所を正しく記憶している方はもう居ない事になる。

それと山岳集落には独自の自然信仰(土着信仰とは別に風土の文化的信仰)がありまして、この男鬼集落では「水」が挙げられます。残る家屋には屋根部分に「水」と大きく彫られています、これが良く解らずに帰宅後に調査するとどうやら火事などの火災から守る為のまじないの様なモノでした、信仰心と山岳集落では壊滅的な悲劇となる山火事へ注意喚起。これはとても興味深く、再訪時には近隣の寺や神社についても同様の彫細工が為されてないか見て周ったほど。

山岳集落における火事は村の消滅と同意義(直ぐに火が回る)なのでこの様な土着信仰が広まったのだと思います、これは他の地域では余り見ない様式です。


霊仙山麓の地場産業では中心だった男鬼の林業

また、この集落の山岳産業が少々面白い。

主な産業は林業でその主要生産は勿論製炭、村の規模のわりには膨大な山岳地帯の土地を有していたこの集落、その広さは凡そ300町歩を越えていたとか。

1町=10反
1反=300坪

という事は。1町=3000坪なので900000坪…?これは非常に広域に渡り、この男鬼の影響力があったことを示します。ディズニーランド+ディズニーシー×3つ分、一見するとこの小さな集落が、です。

これだけの広さです、豊富な木材を求めて他の村からも多くの杣人(杣夫)が山に入ったと多くの記録(村暦、町暦など行政記録も)に残されています。産業誕生当初は人の手で彦根までの山道を炭俵担いで売りに行ったようですが1935年にリアカーが押して通れる道が開通、その後は今迄の10倍程の量を売って村内も潤ったそう。

しかし戦後の燃料革命には流石の村力も及ばず、周辺の集落と同様に近代化の波に飲まれる形で廃村への道を歩みます。しかしこれは考え方によっては自然災害からこの村を残す手立てを唯一残す結果となりました。

製炭産業で地面が露出した山の斜面では到底大雨の水を吸収できずに年々増える水害に震えていました。火を恐れる山岳集落の土着信仰だった「水」に悩まされた時期が男鬼にエネルギー革命過渡期を告げたのだろう、こうして緩やかではありましたがこの土地の賑わいは減っていきます。

現在では男鬼集落内を流れる小川は流れも穏やかだが「山の神の怒りに触れた産業優先の反映に自然は川の氾濫と山からの鉄砲水で罰を与えたのでは」と先ほどの方が冗談交じりに語ってくれました。

またこの集落も村内に平地があった為に畑が作れた、特にゴボウ栽培が収益となって村の反映に貢献したそうだ。更には唯一他の集落と違う「養蚕」に特化したこと、これはこの集落を語る上で重要なキーワードになりますが非常に長くなるので割愛させて下さい。

スゴログ 男鬼集落 廃村

この美しく歴史的にも興味深い男鬼集落ですがこの間々では近い将来本当の意味での廃村となってしまいそう、国が率先して景勝地のような保護プログラムを取り入れれば今後の地域研究や文化研究に役立つ筈ではありますが。実はこの地域には近年になって城跡が発見されています、しかも謎がとても多い城跡のようでして。



近江高取山城(男鬼城)跡がそう、城主が日光の東照宮を建てた大棟梁の一族かもしれないとの説もあり、今後の調査結果次第ではこの地域に多くの視線が注がれる事になるかもしれません。


近年発見された謎多き城址

追跡記録 / 2015年05月

近江高取山城についての情報提供が複数あったのでそれらの情報を精査し、また机上調査と行政への電話取材を交えたものをまとめて追記致します。

男鬼集落の公開当時からこの近江高取山城については沢山の反響と情報提供がありました、また発見が近年であることと山深い場所に大規模な城とそれに付随する痕跡が見付かっていることがその要因であると思われます。

スゴログ 男鬼集落 廃村

近江高取山城、付近では「タカトリジョウ」、「オオリジョウ」とも呼ばれていますが「オオリニュウダニジョウ」とする説も。これは以前紹介した入谷集落と男鬼集落を直線で結ぶとその丁度中央にこの城が位置すること、近代調査時の聞き取りで双方の出身者がこの城の存在を集落内で聞き及んでいたことなどに起因します。

また独自に入手した古書()には入谷集落の谷神社と比婆神社の密接な関係性を仄めかす記述も、この点に関しては整合性がとれていないので確定とはしまえんが位置関係から十分有り得る可能性の一つでしょう。

注意点
手書きと思われる明治時代(と説明されて受け取りました)の記録でこの霊仙集落群一帯の歴史などが筆者の主観で綴られています、現在幾つかのNPO団体から保管移譲の申し出をされていますので所持が完了次第に改めてその旨を追記させて頂きます。



スゴログ 男鬼集落 廃村

この近江高取山城へは比婆神社から山中へ入り、尾根沿いを暫く歩くと明らかに人の手が入った大規模な城址が見て取れます。発見は2000年、私達が最初に男鬼集落と比婆神社に赴いたのが2010年だったので当時は発見されてから僅か10年という本当に真新しい城址だったことになります。

現在では国有林の山林との区別ですが発見後は幾度と無く現地調査が行政や教育委員会、NPO団体らによって行われています。以下は公開されているデータ。

城名:近江高取山城
別名:高取城 / 男鬼城 / 男鬼入谷城
区別:山城
築城:1532年~1553年頃
城主:河原豊後守
築城:京極高広
遺構:曲輪・土塁・石垣・堀切・これらに茶碗や土器などの出土物が加わる

スゴログ 男鬼集落 廃村

写真は発見された土器の一部

実は城主・築城者はハッキリとした根拠がなく、彦根市教育委員会の資料には上記の名が記載されてますが諸説…と言うよりも現存する資料が余りに少なくて判断できない状況なのです。

発見に至るまでのエピソードは長く、近代史では1982年~1992年にかけて行われた「滋賀県中世城郭分布調査」でも発見至らず。その後2000年に私人(泉良之氏)によって場所が明確化され、彦根教育委員会などを中心に調査結果が纏められました。

男鬼入谷城 - 彦根教育委員会
https://bit.ly/2zgcXhi

※ 上記リンクは彦根教育委員会のPDFリンクです

歴史的価値の重要性を見出した彦根市はこの城址を文化財遺跡登録を決定、登録名を「男鬼入谷城」とした。そう、現状この城名は少々複雑なものとなってしまった。

元々は「大洞弁財天当国古城主名札」に記されていた「男鬼城主川原豊後守」の記載を確証として城址発見に挑んだ調査の数々だった、その後「江州佐々木南北諸士帳」にも「男鬼 住 河原豊後守」との記載があることが解り、城名は「男鬼城」としてその発見が急がれていた。

しかし周辺の歴史的な経緯や関連性が不明瞭な資料や書籍を基に識者達は発見以前に「近江高取山城」と命名、しかし調査が本格化すると周辺集落の出身者からまた別の名称が出てくるではありませんか。

上記2つの古い資料から1792年、彦根藩士の源義陳が「近江小間攫」をまとめ、その書の中で「川原豊後守が城主だったことと城址が残っていること」を革新的に記載。これにより城主に関してはおぼろげながら真実に近づきつつもやはり城名がハッキリせずに2000年の発見へ、よって歴史的な見地から予想される「近江高取山城」と彦根教育委員会が定めた「男鬼入谷城」、また聞き取りによって挙がった複数の類似城名が混在することになったのでした。

2012年に発行された「広報ひこね(2012年12月1日号)」では

京極高広の南下ルートが霊山山系を越えて芹川に沿って平野部に出るルートだったことから「京極高広は、坂田郡の山間部で勢力を維持していたと推測されており、抗争で立てこもる拠点として男谷入谷城が築かれたのではないかと考えられています」

と掲載。ここでもやはり行政サイドの「男谷入谷城」としている。

築城に関しては京極高広が有力視されており、日光東照宮造替工事の大棟梁の甲良宗広がこの京極高広だとする記載が「近江與地誌略」の中にある。甲良町史には「甲良」を古くは「かはら」と読んだとする記載があり、これも「甲良=河原」と読み解き「河原豊後守」との関係性を匂わせます。

東照宮 - ウィキペディア
http://archive.is/TWWKG

注意点
エントリー公開当初の最後尾、「城主が日光の東照宮を建てた大棟梁の一族かもしれないとの説」はこの点の拡大解釈で正確には今回の見解をスゴログでの正式予測とさせて頂きます。



名称から城主、築城者に至るまで謎に包まれている近江高取山城。スゴログでは今後も追跡調査を行う予定です。今後も更なる情報をお待ちしております、またある程度机上調査が進みましたらこちらのエントリー上で報告させて頂きます。

近江の山城を歩く
近江の山城を歩く
posted with amazlet at 19.10.04
中井 均
サンライズ出版 (2019-04-19)
売り上げランキング: 68,966

参考サイト

城跡巡り備忘録(http://archive.fo/XlTn1
城郭探訪(http://archive.fo/FCEce

にほんブログ村 歴史ブログ 近代化遺産へ

参考・協力

彦根市役所
彦根市教育委員会
彦根市文化財課
多賀町役場
多賀町立図書館
多賀大社
一般社団法人多賀観光協会

レポートの場所



注意点

該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。

スゴログの装備とその使用方法など
https://www.sugolog.jp/p/blog-page.html



エントリー関連広告

廃村をゆく 2 (往時の面影を求めて)
浅原 昭生
イカロス出版 (2016-05-26)
売り上げランキング: 436,136


このエントリーをはてなブックマークに追加