旧脇ヶ畑村三集落で一番古い集落として知られる杉集落、そのルーツはやはりご神体にも選ばれた杉の大木から。土着の樹木信仰と山間部では珍しい平地に恵まれた農耕文化、地域性を色濃く残した集落形態は歴史的価値も高いのでした。全国的にも稀な一行政地域一斉離村など語りつくせぬ杉の歩みにフォーカスしたいと思います。
滋賀県│杉集落
調査:2010年06月
再訪:2010年10月 / 2011年05月
公開:2011年01月09日
名称:正式名称→杉集落
状態:長期間放置
調査:2010年06月
再訪:2010年10月 / 2011年05月
公開:2011年01月09日
名称:正式名称→杉集落
状態:長期間放置
旧サイトで複数回に分けて公開していたレポート内容を2011年現在の調査内容に統合して再エントリーしました。また古くなった情報などは精査して削除しております。
旧脇ヶ畑村三集落で一番古い集落
霊仙の主要集落群からやや距離がある山深い旧脇ヶ畑村、この地域は杉集落、保月集落、五僧集落という三つの集落群から成り立っており、中でも一番古くから存在したといわれるのが今回取り上げる杉集落です。と言ってもその中心的な役割を担っていたのは保月集落、これは交通の便や広い平地などによる開発などが関係していました。
本来であれば一番長い歴史を歩んだであろう杉集落がその役目を負ってもおかしくはない、一般的に考えれば保月集落こそが一番長い歴史だったかもしれないのです。大きな集落を差し置いて何故この杉集落が一番古いとされているのか。
そこには「杉」という地名と近隣集落とは異なる独自産業を保持した文化、立地条件などが密接に関係していました。この集落を含む地域の集落形成には諸説あるものの、その歴史を正確に辿る資料は残されていません。
よって多賀町の町史や現在確認できる関連書籍、現地での聞取り調査に加え可能性として語られる「三集落における杉集落最古開村説」を軸に話を進めて行こうと思います。
何故一番古いと推測されるのか
国道306号線から県道17号線に入り、道なりに進むと入谷集落や落合集落へ続く。しかしその手前の分岐で県道139号線に入れば別の廃村群に出会うことに、それが冒頭の旧脇ヶ畑村三集落です。分岐後の集落はどれも古くから少人数の村形態を有していたものの集落組織として近代化されたのは江戸時代後期といわれています、ただこの杉集落だけはその起源をはっきりと知る使用がありませんでした。
この集落の名称、「杉」。
この名称は当然のこと、その地域性といえるかわかりませんが特徴を踏まえた上で付けられています。付近でいえば杉坂峠(杉坂峠の祠)やご神木として共に祀られている杉坂峠の三本杉などがそう、つまり杉に関する地形的特長を色濃く反映した地名なのです。
注意点
杉坂の御神木として知られる県指定木(1991年3月1日に指定)で多賀大社のご神木、謂れについては余りに有名なので割愛致します。この御神木と杉の集落名との関連性について明言された書籍などはありませんが過去、沢山の推測や議論が人々を賑わせています。
場所はここ、集落よりやや西側です。
注意点
県指定とあるがこれは天然記念物ではなく、滋賀県自然環境保全条例によるもの。自然記念物として「多賀町栗栖のスギ」と行政区名称が別途付けられています、杉坂峠の名もこの杉に因んだとされています。
これらは集落が明確化する以前より杉に対する信仰が根強く定着していた証拠として知られており、複数の関連書籍や行政から提供された資料にも記載されています。
実のところ、この土着信仰が定着して以降は保月集落の方が集落発展の為の立地的な意味合い(他集落とのアクセスルートや大きな河川からの距離、当時の宗教的な地理条件など)が良かったので人々は杉より保月へ流入したのだろうとも予想できます。古きより新しきに人が流れるのも発展形態の一つです、後の開発規模が拡大した保月集落が中心的な役割を担うことになるのも時間の問題だったことでしょう。
話は戻り、地名となった杉に関して。
この集落が古いと推測される一番の理由はその信仰対象だった杉の樹齢だったようです、つまり周囲の集落形成時期(もしくは近代化された集落運用)より樹齢が長いことが立証の根拠だというのです。
確かにご神木は樹齢400年以上と鑑定されており、過去には樹齢500年以上の大木も存在したとか。なるほど、地名自体はかなり昔から在ったのでしょう。しかしそこに集落形成が伴ったかどうか、は確証がもてません。
注意点
山岳産業の主体である伐採加工、製炭の為に消失した高樹齢の杉もあったとか。杉が地名となった確証は得られませんが古くから信仰対象だったことは確かで名称根拠としては十分だとする説もあります。
2009年以前、ネット上で見掛るこの集落の写真はまだまだ現役と思える家屋が残されていました。しかし2010年頃を境に急激に倒壊数が増加、2020年現在では完全な形では殆ど残っていません。
廃村時期は1976年といわれていますが行政が確認して記録されたのは1973年、これは納税記録や住人の離村記録によるズレかと思われます。居住実態は1973年には皆無だったことでしょう、土地管理に関してはいまだ元住人によって行われております。
自家栽培用の小規模農地や野外実習地への転用などが行われており、2010年には行政と企業が共同で野外宿泊イベントも行われました。
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注意点
多賀町サマーキャンプIN杉 たがの自然をまるかじり…など、また夏季に長期滞在する元住民がいる為か近年防災無線が設置された。冬季は積雪の為に通行止め(降雪すると車両は元々往来不可能)なので運用されてはいないでしょう。
山間部では珍しい大規模な農地開墾
さて、それではこの杉集落最大の特徴をご紹介したいと思います。杉集落が他の廃村群集落と違う最大の利点、それは広大な平地でした。山村で農地が確保できる、これは大いに集落産業として有利だったことでしょう。近隣集落の殆どが斜面にへばりつくように形成されている中、この杉集落は山間部の窪地に位置している為に村内が平地なのです。
これは田畑などの通常農耕運用が可能だということ、山間部農耕は地形や農業用水確保の為に色々と制限が多い。加えて杉集落の周囲は深い森林地帯、資材としての木材確保や製炭でもその優位性は如何なく発揮されました。
これらによって杉集落からは多数の山道(小規模な産業道路)が簡易整備されました、現在は廃道となっていますが道筋を辿れる獣道は数本見付けることが可能です。経済に直結する運搬経路は勿論現在の県道となりますが沢山のアクセスルートを用意、確保することで取引規模が小さくてもその利点は大きかったのです。
地元農業協同組合の東わびこ農協の複数の支店の方に聞取りを行ったところ、この地で農業が比較的簡単な整備で開墾できた理由に既に説明した平地が多かった点に加え、農業用水が確保できた点も教えて頂きました。
杉集落周辺には細いながら河川の流入があります、地図上では南北に二本分岐した淀川水系の無名河川です。この淀川は杉集落の北側の山に源流があり、後に芹川へ合流して琵琶湖へ到ります。またこの淀川水系の無名河川は地図上に表記されない更に細い支流が確認されており、それらを含め農業用水に利用したのではないか…とのことでした。
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以前取り上げた桃原集落へ続く山道もあり、登山家の間では今も尚その道を歩くのだとレポート公開後間も無く情報を頂きました。
この情報を元に地元新聞社の滋賀報知新聞へ情報精査をお願いしたところ
来栖~杉坂峠間の道路(杉坂林道)は1935年に新設され以前は杉坂峠と八重練を繋ぐ山道だった、また記述の桃原への獣道も頻繁に利用されていた。この道路整備で産業道路として以上に生活道路の重要性は格段に上がり、馬車が通れるようになったことで物も人も一度に運べる量は倍増。
更に1950年には戦後復興も相まってトラックなどの大型車両が通過できるほどに拡張整備が行われ、この時点で既に旧脇ヶ畑村三集落の中心は保月集落へ移っていた。
更に1950年には戦後復興も相まってトラックなどの大型車両が通過できるほどに拡張整備が行われ、この時点で既に旧脇ヶ畑村三集落の中心は保月集落へ移っていた。
と複数の情報をまとめて頂きました。
注意点
山村なのに各家屋に農業工具などが残されているのはこの農業が比較的発展した集落だという理由が大きい、家屋の他に農業用の作業小屋なども半倒壊ながら残っている。
望まぬ来訪者の増加
個人的にこの集落に興味を持ったのは随分と昔でその頃にネット上の情報を収集していた頃はまだ幾つもの家屋が立ち並ぶ写真が散見できました、二度目の来訪時(2011年)の時には殆どが倒壊しており、残された家屋も間も無く朽ちる寸前といった様相。内部は床が抜け、柱は折れ、家屋全体が大きく傾いているものばかり。茅葺屋根だったものは殆どが崩落していました、一見綺麗に残っていても内部は手遅れな状態が実に多く見られましたね。
最近になって頻繁に人が来るようになった
そう話を聞く事ができたのは訪問時に元この杉集落に住まわれていた方が農作業に来られたから、軽トラックから老夫婦が降りたところで声掛けさせて頂き、色々と教えてもらうことができたのは実に幸運でした。
地震(東日本大震災)から集落の家屋などの倒壊が心配で見に来ている、以前から村内の掃除や管理で訪れている。このような辺鄙な廃村を知ってもらうことは歓迎するが窃盗や破壊、倒壊に巻き込まれないかなどが心配。
なのだそう。また期雑誌などにも取り上げられ、一時は県外から沢山の人が物見に訪れたそうだが畑の中を歩いたり危険な倒壊家屋へ立ち入るので行政へ相談したのだという。これらの理由により現在は取材なども断っているそうだ。
更にこの聞取り内容の確認の為に滋賀県彦根警察署へ伺い、件の内容についてお話を聞かせてほしいとお願いしましたがその願いは叶わず。ならばと、思い彦根市立図書館(後に机上調査用の資料をコピーして送って頂きました)へ向いましたが閉館間際でこちらも無駄足に。
注意点
2008年頃より有志と警察の巡回を強化しました、残留品の持ち出しや整備した畑を荒らす、ゴミの不法投棄などがネットの復旧と共に増えたとのこと。
山間部へ延びる山道、この道は桃原集落へ続くのだとか。
このような他集落への獣道が多いのは主要道路の整備が遅れたことに起因します、1935年までは杉に限らず旧脇ヶ畑村一帯は陸の孤島と揶揄されており、1950年までは電気が通っていなかったほど。周囲は近代化が進むものの、この一帯は徒歩交通がメインだったことでインフラ整備から取り残されてしまいます。1948年の雑誌「湖國青年」では県で唯一電燈がない村(旧脇ヶ畑村)として紹介されており、隔絶の度合いからも住民はさぞ苦労されたことだろう。
注意点
杉集落からは主に北西方向の桃原集落へ向う山道が一本、北東方向の向之倉集落へ向う山道が二本簡易整備されていました。
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県下でも稀有な大規模離村とは
杉の特徴は繰り返し、平地を活かした農耕だったとお伝えしましたが斜面にもその形跡は残っています。平地では商品作物として桃原ごぼうと同等の牛蒡畑が広がり、斜面では自家用の野菜などを栽培していました。林業も盛んだったことで大工など数人存在したのですがインフラ整備が遅れたことで一帯の生活はどうしても不便に、また近代化の波は産業形態を大きく変えて工業優先と製炭などの縮小などが重ります。更には行政主導による集落再編成事業の推進で離村を奨励し、より都市部へ流入を促した事で、
1973年 - 杉集落離村完了
1974年 - 五僧集落離村完了
1976年 - 保月集落離村完了
1974年 - 五僧集落離村完了
1976年 - 保月集落離村完了
と旧脇ヶ畑村という行政地域が一度に同時期離村するという全国的にも珍しい政策が行われます。滋賀県ではこの例が唯一として知られ、国内では三例ほどしか記録にありません。
近代史では、
1878年 - 18軒/74人
1955年 - 12軒/37人
1970年 - 08軒/14人
1955年 - 12軒/37人
1970年 - 08軒/14人
と緩やかに村内人口は減少。が、その後元の居住者が期間限定居住(冬季無人集落)の限界集落として復活。1985年辺りまでの十数年間の人口推移は3人~6人を計上、しかし調査団体が行政とNPOとで違うので正確な数字を挙げるとするならば行政記録を優先することになります。
1961年の航空写真、この時点で村民の人口は30人程度を推測されるが家屋は12棟確認できるので1955年と建造物の差異はない。
ただ旺盛時より半減したこの頃においても平地開拓は南北に広がっており、広大な農耕地が確保されていたことがわかります。1935年の林道整備、1950年の車道整備と立て続けに交通に関するインフラは整えられていた筈ですが現在と主要道路のルートが違います。
これについては追跡調査して記載する予定です。
その後の杉集落と住民の動向
多賀町役場、彦根市役所とそれぞれに杉集落の集落再編成事業後の動向をお聞きしました。総合すると、
集落再編成事業により杉集落の住民の殆どが平野部の木曽団地へ移住、墓地移転も平行して行われ村内の光明寺は廃村後に木曽団地へ移転。既に労働期を過ぎた高齢者が多かったのも相まって転職や再就職など支援活動はなく、その様な支援を予定していた若い世代はより都市部へと移った。
とのこと。村内の春日神社は元を辿れば土着信仰だったこともあり、その間々残されたそう。2011年の段階でこの杉の住民で生存されているかたは極僅かで畑仕事に来られていた老夫婦は当時若い世代だった方だ、ご自宅は既に解体して見る影はないと仰っておられました。
外観がしっかりしているようでも内部に入ればこの通り、とても入る気には成れずに勝手口から写真を撮影するに留まりました。
写真を多賀町役場の方へお見せした際は「予想より随分酷いですね…」と職員さんがこぼされていました、巡回時には外観しか確認しないそうなので内部の状態は把握してなかったそうです。
光明寺之跡 記念石碑
地域一斉離村時に住民と共に移設された光明時、実は集落を襲った大火で1911年3月29日に焼失している。その後再建された本堂の跡地には記念石碑が建てられていました。設置日は1993年10月10日、随分と長い間放置されていたのを元住民の要請もあって用意したのだとか。現在の光明寺はここ、一見一般家屋と思わせる外観ですが移設後暫くは活動実態がありました。しかし現在の滋賀県宗教法人名簿にはこの”光明寺(滋賀県犬上郡多賀町大字木曽字東出425-3)”の名は記されていない、どうやら廃寺のようです。
場所はここ、杉集落の住民の多くが離村して定住した木曽団地の北側です。付近には元々曽我神社や開蓮寺などの神社仏閣が存在していたのでそれらが影響したのかもしれません。
注意点
移設した墓地の確認は取れませんでした、同地区内の開蓮寺に統合されたのか付近の山間部内に在るのか今回の調査では判明せず。行政もこの件を把握しておらず、ご存知の方の情報をお待ちしております。
集落形成時期こそ判明しなかったものの、その長い歴史と周囲との差別化を図った産業と地域性。また現在も辿ることが可能な近隣集落への獣道の存在など実に調査欲を掻き立てられた杉集落、山村としても珍しい農耕実態など現在においては歴史検証と共に貴重な文化遺産なのかもしれません。

参考・協力
彦根市役所
滋賀県彦根警察署
多賀町役場
彦根市立図書館
多賀町立図書館
多賀町史下巻
滋賀報知新聞
中日新聞
滋賀彦根新聞社
滋賀民俗学会
東びわこ農業共同組合
彦根市役所
滋賀県彦根警察署
多賀町役場
彦根市立図書館
多賀町立図書館
多賀町史下巻
滋賀報知新聞
中日新聞
滋賀彦根新聞社
滋賀民俗学会
東びわこ農業共同組合
レポートの場所
注意点
該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。
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スゴログの装備とその使用方法など
https://www.sugolog.jp/p/blog-page.html
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