2019-04-22T18:37:34Z #024 岩塔ヶ原 ①

#024 岩塔ヶ原 ①

2000年初頭、ネット黎明期に登場した都市伝説「岩塔ヶ原」。山窩と呼ばれる漂浪民族の終焉の地とされるその場所は、現在特別天然保護区域に指定された尾瀬の立入禁止地区でした。戦前の創作と史実に揺れた謎多き 岩塔ヶ原へ、約20年の時を経て今回は現地来訪へ向けての事前調査の内容を公開します。

スゴログ 山窩 岩塔ヶ原
群馬県│岩塔ヶ原

調査:2010年09月
再訪:2015年12月 / 継続調査物件
公開:2010年10月10日
名称:正式名称→なし
状態:行政管理

今回のエントリーは全3回の連載形式となっております、「連載記事」ページより今後の連載状況をご確認頂けます。初回となる今回は予備知識の為の準備エントリーです、興味の無い方やこれまでの「岩塔ヶ原」に関する都市伝説をご存じない方には些かつまらない内容になることを何卒ご了承願います。

注意点
旧サイトにて2010年に調査、2015年に追跡調査を行ってエントリーした内容を再構築しております。



情報化社会が進むつれて「都市伝説」とされるものは少しづつその姿を消し、スマートフォンのカメラ機能の性能向上と相まって国内外問わずに誰もが情報の真偽を発信できるように。時代検証を必要とする内容でさえ、専門家と一般の方がSNSで繋がることで容易に回答を得られる現状は大変素晴らしい時代だと感じさせてくれます。

そんな中であっても実しやかに語り継がれる怪しい言伝えや伝奇など、それらの類はいまだ存在し続けています。今回取り上げるのも実に長い間、それも沢山の人々を魅了した日本の失われたとされる山岳民族「山窩」、その最後の集落と言われる「岩塔ヶ原」です。

この岩塔ヶ原、専門的な公式研究を行った機関が記録されておらず、その存在自体が本当に確認されたのかも判明していません。では何故現在においても山窩の存在が噂され、終焉の地とされる岩塔ヶ原という場所までが語り継がれているのでしょうか。

今回スゴログではこの真偽を確かめるために

① 予備知識を準備
② 岩塔ヶ原とされる場所へ向かい現地調査
③ 机上調査と総論

の三段階に分けてレポートをエントリー。長い間謎とされてきた岩塔ヶ原を出来る限り調査し、その内容を公開することに致しました。不十分な表記や誤った解釈なども多数見受けられるかと思われます、もし更に詳細な情報をお持ちの方は是非ともより正確なレポートの為にご協力願います。

注意点
情報提供はお問い合わせよりお願い致します



スゴログ 山窩 岩塔ヶ原

岩塔ヶ原。

一枚の写真(上の写真)と共に瞬く間にその名を轟かせたこの地名、随分と昔にネット上を騒がせた()眉唾ものの言伝えでして。幾ばくかネット界隈を騒がせたのですがその謎の漠然性と情報量の少なさから現在(2010年)に至るまで明確な答えは出ていません。各所で議論された内容として

・岩塔ヶ原には地下大神殿がある
・今でも山窩の集落跡が残されている
・昭和中期に国が隠蔽した
・集落跡には石塔が存在する
・平将門の終焉の地

などなど…大凡近代の話とは思えない霧がかった内容が。

注意点
2001年頃の某掲示板で最初のスレッドが立てられ、その後個人サイトへ飛火
2010年頃に再びこの地に関しての話題が某掲示板やブログで取り上げれた

そもそもこの都市伝説が話題に成ったのは探検家(登山家)西丸震哉氏の著「西丸震哉の日本百山(実業之日本社/1998年発行)」で尾瀬ヶ原の西方に位置し、非常に踏破困難な盆地として「岩塔ヶ原」の名とそれに関する記載が異彩を放っていたからです。

西丸震哉の日本百山 - アマゾン(書籍)
http://archive.is/9AD5g

この書籍を書いた「西丸震哉」とは一体どんな人物なのだろうか、そして何故出版当時既に失われつつあった「山窩」という文化を知りえたのでしょう。しかし氏は既に故人(2012年没)であり、直接本人にその真実を問う事は叶いません。

注意点
調査時はご存命でしたが本人取材に思い立った2015年、既に亡くなっていたことを知りました(再調査時)。

西丸震哉 - ウィキペディア
http://archive.fo/iYBbv

ウィキペディアの既述を引用すると、

・台湾山脈、パプアニューギニア、アマゾン、アラスカ、南北両極圏などを踏破
・若い頃から鮮明な幻覚を見る事がよくあり、幽霊やいわゆる超能力現象に興味を示
・動物の珍しい行動(タコが陸上に上がり、大根を引き抜く)も記録している
・作詞作曲から絵画まで手がける
・幽霊話はある種の神経変性疾患()の症状に極めて類似している事が報告されている

注意点
晩年はアルツハイマー病や脊髄小脳変性症の症状が見られ、発言などに一貫性が無かったが医師の診断があったかどうかは不明。

なかなかどうして言葉に詰まる人物像です、特に山行記録は公式な物が存在しない物もあって何処まで事実なのかも判断が難しい。また大きなパーティを必要とする探索などの同行者証言も全くないのも更に踏破を疑う要因に、持論に対して科学的なアプローチも試みたそうだが専門分野(水産・水産製造学)以外を修めた記録もありません。

これだけの怪しい人物像ですが日本旅行作家協会常任理事や日本山岳会役員、日本熱帯医学協会顧問などを兼任。政治家や芸能人の知人も多く、実際政治活動も行ったようです。

1980年代に山窩文化に興味を持ち、その調査過程で岩塔ヶ原を含む外田代(尾瀬ヶ原)が立入禁止区域に指定される前に足繁く通ったのだと言う。

スゴログ 山窩 岩塔ヶ原

スゴログ 山窩 岩塔ヶ原

注意点
公益財団法人 尾瀬保護財団 発行「尾瀬保護レポート」内より引用、指定登録の項に「特別保護地区指定 > S28.12.22 > 尾瀬ヶ原、尾瀬沼及び檜ヶ岳山頂部」と記載されている。

しかし待って欲しい。

尾瀬保護財団と環境省によれば尾瀬(尾瀬ヶ原地域含む)の立入禁止区域の制定は

1938年 国立公園特別地域に指定
1953年 国立公園特別保護地区に指定
1956年 天然保護区域に指定
1960年 特別天然保護区域に指定

という段階的な規制を行っており、1938年には現在の尾瀬全体が国立公園特別地域に指定されている。この段階ではまだ歩ける場所とそうでない場所が混在していたが1960年に尾瀬ヶ原は完全立入禁止だ、西丸震哉が尾瀬ヶ原を調査していたのは1980年代。

氏の功績を記載する記録には「立入禁止に指定される前に」とあるので実際に調査を行ったのは天然保護区域に指定される1956年より以前ということになります。1923年生まれの氏が33歳、年齢的には不思議ではありません。

どういうことでしょうか。これについて西丸震哉記念館に問い合わせてみました、すると

「西丸震哉が尾瀬を調査したのは1950年代で岩塔ヶ原の命名もその頃」

との回答。成程、氏は法を犯してはいなかった。更に当時の氏はまだ山窩に深い興味はなく、あくまで尾瀬というフィールドを楽しんでいたそうだ。後に山窩の文化を調べる中で尾瀬の外田代との関係性を知り、自ら名付けた岩塔ヶ原と書籍内で紐付けたとのこと。

注意点
岩塔ヶ原という名称は公式に認められていません(国土地理院などには記載なし)

これには納得です、1950年代の尾瀬におけるフィールドワークと1980年代の山窩の文化調査が書籍で同時に扱われ、一般的な話題として以降広まったとすれば立入禁止に関する諸事は何ら問題ありません。とりわけ氏が同時期に調査できなかったのはさぞ悔しかったであろうと想像に難しくない、スゴログとしてどこまで当時の痛惜を和らげることができるか解りませんが一役買うと致しましょうか。



スゴログ 山窩 岩塔ヶ原

注意点
山間部を移動しながら生活する漂白民、写真の簡易テントは「セブリ」と呼ばれていた。

導入部分の説明として聊か長くはありますが少々お付き合い願います、まずは殆どの方が存じ上げない「山窩」とはなんであるかを掻い摘んでご説明しようと思います。

戦前までは割りと一般の方にも知られていたという山岳民族、山窩。

この名称を指す集団は実は現代においても明確にされておらず、存在したと思われる当時の山岳集落を形成した少数山岳民族や山賊の類、また小規模で山岳産業を生業とした職人達を指すなどとも言われる不確かな言葉でもあります。

また諸説ある中で一般化した認識をまとめた内容としてまずはウィキペディアを参照するのが良いでしょう、ただこのページに記載されていることですら全ての整合性は得られていません。

山窩 - ウィキペディア
http://archive.is/UzCID

複数の情報を基とするならば回遊農民(山岳狩猟民)だったり特定の時代においては犯罪集団だったり(所謂”山賊”的な意味も含まれているとされている)、学問や時代など提唱する立場が違うと対象となる山窩という存在も大きな違いが出てくるのです。

何れにせよ、1950年代以降の高度成長期に飲み込まれた形で現在においてはその存在は確認されておらず、諸説のどれが本来の彼らの姿なのかも明言できません。

よってこれから幾つか参考となる「山窩」の説明を致しますがどもれもが仮説であり、またその正確性を保証するものではないことを留意願います。

注意点
地域によっては方言も考慮しなければなりません、呼称によって解釈の地域差がある様です。

以下、参考にしたサンカに関するウェブサイト(一部アーカイブ化)

山窩(サンカ)とは何か
http://archive.fo/Of7Ih

サンカ(山窩)を考える
http://archive.fo/XD4Ow

スゴログ 山窩 岩塔ヶ原

山窩は北海道の原住民「アイヌ」同様、日本に存在した(思われる)山岳民族とされ、俗世との交流を好んで行わなかったことでその存在を明確にする文献などが殆ど残れていません。また近代史においては戦後の復興時に山間部を切り開いて開拓した際、それらしき集団を確認したと幾つかの公文書にのこされるだけです。

つまり民間レベルにおいて伝承のみで国としての公式な資料が残されていないことになります。

またこの山窩という言葉が一般化するのは山窩研究家として後に知られることになる三角寛が大正時代に大衆紙へ小説として発表したのが最初なのです、その後著者である三角寛が研究成果として公表した山窩に関する報告書の殆どが虚偽であると民俗学の研修者達によって証明されています。

三角 寛 - ウィキペディア
http://archive.is/i3eeU

ウィキペディア記述にも

「三角による山窩に関する研究は、現在でも多くの研究者が資料とするところだが、実は彼の創作である部分がほとんどであり、小説家としての評価は別として、学問的価値は低い。これはその後、多くの研究者により虚偽であることが証明された。よって、三角によるサンカ資料は、三角自身による創作小説と見るのが適当である。

三角は当時、自分以外の者がサンカについて言及・研究すると激しく抗議し、サンカ研究を独占していた。」

と記載されており、当初より山窩の存在は疑問視されていたことはよく知られている。他の山窩を扱う書籍の著者に至っても幾分かの思想や推論が加味されていることが多く、今回のレポートを作る上で数社の出版社に協力を求めて参考文献を送って頂きましたがやはり核心に迫るものはありませんでした。

しかし出版関係の方から提供された情報の中には幾つか詳しく検証したと思われる書籍を教えて頂きました、簡単な説明と併記してご紹介致します。

・山に生きる人びと - 宮本常一/https://amzn.to/2WsqUSQ
宮本常一は日本の民族学者、調査内容やレポートの整合性の高さには定評が。三角の山窩に関する発言には疑問を呈していた、山窩に関しては独特の文化集団としてよりは山で生活する山岳集落として捕らえていたようです。

・山の人生 - 柳田国男/https://bit.ly/2HLj7fq
柳田国男は日本の民族学者、上記の宮本常一に多大な影響を与えた人物の一人。山窩に関しての調査内容に関しては当初より疑問視する声が多い、山岳文化に強く傾倒していた為に学術的なレポートもその傾向が見られる。

・幻の漂泊民・サンカ - 沖浦和光/https://amzn.to/2FEohGC
沖浦和光は日本の民族学者、日本古来よりの被差別民などの研究分野では高名。日本の民族文化として山窩を研究したが自ら「山窩の研究内容には自身の独断的解釈が多く含まれている」と吐露しており、調査内容には懐疑的な声が多い。

このように掘り進めて行くと以外や意外と沢山の山窩研究者の存在を知ることができます、ですがどれも国としての公式見解レベルには遠く及ばず。書籍内で提示されている資料なども正確な出典が明確でない場合が多いのが残念です。

スゴログ 山窩 岩塔ヶ原

江戸時代より以前より、山窩と類似する被差別民は各地に多く存在していました。特定の集落や地域に住む者を指して山窩と呼称するのも考えにくく、同和対策事業が進む近年までの間の伝承などはこのような被差別民の人権擁護を目的とした啓蒙活動だったのではないかと思われます。

同和対策事業 - ウィキペディア
http://archive.fo/lfgAP

事実、戦後復興と共に小規模で存在した集落は1950年代を境に消滅の一途を辿ります。つまり、国政としての復興事業の影として人権侵害されたと思われる山岳地域の集落の人々とそれに賛同する活動家によるロビー活動の一環として生まれた架空の存在、そうとも位置づけられるということです。

故に山窩の名称は1950年代辺りから世に出始め、復興事業が終わり高度成長期に入ると消え失せてしまったと思われるのです。またこれらの年代にも意味があり、同和対策事業が機能し始めるとそれまで被差別民とされていた人たちの公営住宅への優先入居や生活保護などが実施されました。

ダム建設などの住民移動などにも言えますがその後の生活や保護政策が納得いく内容であれば問題視するに値しなく、当然啓蒙活動など不要となります。

この様に近年では戦後の近代化難民を勘違いした研究結果であったり、著者のフィクションであったりと山窩を取り巻く様相は余り良いものとは言えない。事実、創作を裏付けるように書籍内の取材した山窩集落の人々が一様に同じ人物であることが挙げられます。

スゴログ 山窩 岩塔ヶ原

作家活動中の抗議やその後の検証結果でも解るように三角氏を例にすると別々の書籍で同一の人物や同じ集落と思われる人々ばかりが写真に映し出されていました。

注意点
筒井 功「サンカの真実 三角寛の虚構(https://amzn.to/2WA1aEj)」内では撮影された人物を特定した上で本人に撮影当時の事をインタビューしている、これにより関連書籍に登場している人物がなんら山窩と関係ないモデルである事と撮影場所や日時が書籍内に記載されているものと相違している点などにも言及している。

他にも参考として掲載されている写真を検証された民俗学の研究家たちによれば

・収入元が皆無の山窩集落の人々が真新しい衣服を着用している
・時代背景と記載されている人物の平均な体格(慎重や筋肉量)が異なる
・使用されている食器などが当時の近代化されたもの
・モデルと思われる人物が複数の書籍に違う時代の人物として登場している

などやはりその存在を否定する根拠が多く示されているのです。

これをどう判断すべきだろう、尾瀬をフィールドワークの場として好んだ西丸震哉、山窩という言葉を巧みに駆使して世論操作の道具とした三角 寛。この二つの奇抜な作風と思想が偶々溶け合ってしまったのだとしたら、それが山窩の正体だとしても何らおかしくはありません。

だとしても、です。

何故、西丸震哉が尾瀬の最深部ともよべる外田代を選んで「終焉の地」としたのかが解らない。こじつけるにしても何らかの要素が必要ではないか、それは例えフィクションだとしてもある程度の信憑性があればこそのリアリティ(作品としての)ではないでしょうか。

今回のレポートでは山窩の存在を否定するのではなく、多様な角度から現地検証も行いたいと考えています。例えばですがカッパドキアの妖精の煙突やオーストラリアのデビルズマーブルなどはかつて何かの遺跡だった(人工物)とも考えられていました。

西丸震哉でなくとも凡そ想像がつかない大自然の中で人工物に見えてしまう景観があったならば一度は文化的な集合体(集落など)を想像すると思います、外田代にそんなランドマークとなる岩が存在すれば尚更「岩塔ヶ原」という名称にも納得できるというものです。

湿地帯、しかも高地の集落形成は大変珍しい。国内でも殆ど例をみないことを考慮しても尚、尾瀬という未踏の場所が多く残された地にそのような夢をみたのが西丸震哉その人だったのかもしれません。

重ねてスゴログとしては山窩の有無を調査するのではなく、岩塔ヶ原の存在とその事実確認という地域民俗学的な知識の遡及が主題であります。

よって既述の通り彼らの存在に関する明言は避け、あくまで岩塔ヶ原の調査をメインにレポートを進めていこうと思います。前置きが随分と長くなりましたがここより「岩塔ヶ原」のレポートを開始致します。

これら山窩に関する記述は以下のサイトも参考にさせて頂きました(表記不順)。

・日本の古部族『サンカ』の存在を知っていますか?/https://archive.is/s3n5Z
・サンカ研究/https://archive.is/qmBVT
・最後のサンカの孤独死/https://archive.is/lqgtG



まずは机上調査からはじめるとしましょう。

2001年、ネット上での初出から現在に至るまで実に沢山の推論や検証が行われてきました。また謎とされてはいますが実は複数の登山パーティが現地(と思われる場所 )に赴いてもいる、これは動画でも確認出来るので参考にご覧になってほしい。またレポートとしては何と話題が出て直ぐの2002年のものがネット上に残っている、こちらは恐らくだが岩塔ヶ原周辺で間違いない。

注意点
動画を見る限り外田代付近で間違いないが岩塔ヶ原ではないと思われる

父と娘の尾瀬・岩塔ヶ原スノーハイク
https://archive.is/vA6pL

このサイトでは親子で山ノ鼻山荘から出発、猫又川沿いに遡行していると思われます。レポートを読む限りこの親子は岩塔ヶ原付近に到着している様子、が。これから紹介する動画でも同様なのですが一様に「岩場の上に樹木が密集した箇所」を岩塔ヶ原と認識しています、これはどういう事でしょうか。



動画内でも岩塔ヶ原に言及されていますが「丘」だったり「岩場」だったりとハッキリしません。恐らくですが「岩塔」という言葉に引きづられている可能性が高いです、岩塔とは読んで字のごとく岩の塔。日本では「燕岳の岩塔」が有名ですね。

西丸震哉がどのような景観を指して岩塔ヶ原と名付けたのか、その場所は何処なのかは解りません。しかしそこには人工的な(若しくは人工的と思える自然のランドマーク)が存在している筈、人の手が入ったと思える奇岩であれば冬季のスノーハイクで発見されていてもおかしくないのです。

尾瀬の湿地帯という地形において突出した奇岩が存在するのは考えにくい、在るならば岩というより最早地形と表現するに値する岩場しかないでしょう。そこで最初にご紹介した「岩塔ヶ原」と思われる写真を思い出して下さい(要確認)、改めて確認すればあの写真と岩塔という言葉がセットになって人々の頭に情景を連想させているのは確かです。

長年謎とされている岩塔ヶ原、正確な場所も要となる岩塔も解らないのに何故写真だけが残っているのでしょうか。

次の写真を見て下さい。

スゴログ 山窩 岩塔ヶ原

季節や角度はやや異なるが冒頭の写真、その場所に間違いない。そして良くみると右下には遊歩道が整備されており、半袖の男性がカメラを提げて歩いています。

ここ数年で場所が判明し、観光地化されてしまったのでしょうか。

スゴログ 山窩 岩塔ヶ原

特徴的な岩の形、そして樹木の枝ぶり。冒頭の写真より左側に回り込んだアングルですが明らかに同一の風景、これは一体。

まずは写真の答え合わせをしましょう。



岩塔ヶ原とされてきた1枚の写真、その正体は温泉街で有名な草津から程近い白根山麗の火口湖「弓池」。そうです、あの写真は全くのデタラメだったのです。

スゴログ 山窩 岩塔ヶ原

少々画を引いてみる、するとこのように全体像が見えてきます。あの写真は中央右側の木道の分岐を右に折れた場所から撮影した弓池の岩山だったのです、観光客や芳ヶ平のトレッキングルートを歩く方にはかなり有名な風景でしょう。



こちらはグーグルマップにアップされている360°写真、やはり間違いない。更にグーグルで「弓池」とイメージ検索するとほぼ同じアングルの写真も散見できました、これで写真に関しては西丸震哉を含む複数の岩塔ヶ原の都市伝説に巧妙に溶け込んだ虚偽写真である事が証明されたわけです。

フィクションの色味が強い山窩、共に語られてきた唯一の手掛かりだった写真の真偽。いよいよ胡散臭くなってきた岩塔ヶ原とそれを取り巻く様々な情報。

一級都市伝説としてのメッキが剥がれてきたのは否めませんが岩塔ヶ原という場所が地図に表記されている以上、その場所に向かわねばなりません。現地見聞に勝る状況把握はなく、私達は準備を進めます。



岩塔ヶ原は何処なのか

西丸氏の著「西丸震哉の日本百山」内で掲載されている地図が元となり、現在様々なウェブマップにその名を見る事ができます。

スゴログ 山窩 岩塔ヶ原

このなんともいい加減な手書き地図が現在の「岩塔ヶ原」の存在を示す根拠だという、些かどころか全くと信憑性に掛ける資料です。



グーグルマップではこの位置に表記がありますがレイヤーを航空写真にするとどうやら平地のよう、国土地理院で等高線を確認するとやや西側に10メートルに満たない高台が見て取れます(太線部分)。

スゴログ 山窩 岩塔ヶ原

この位置を元にグーグルマップで大体の位置にカーソルを合わせると何や樹木が茂っているのが解ると思います。



まずはこの高台を目指すことに、現地についてから周囲を更に詳しく探索することにしましょう。

スゴログ 山窩 岩塔ヶ原

岩塔ヶ原へ向かう場合、入山口となるのは鳩待峠。降雪期以外であれば車でこの峠まで来ることが可能です、群馬県の冬季通行止め道路の解除予定一覧の平均では4月中旬には解除される見込み。尾瀬自体の山開きは通常GW付近、山開き後も尾瀬では7月後半まで降雪することがあるので油断(装備などの)は大敵。

休憩地となる山の鼻小屋でスノーハイクの装備に切り替えて立入禁止区域へ向うことになります、スケジュールは入山当日に外田代まで歩きテントベースを設置。日没まで周辺探索をして翌朝詳細探索、午前中に現地を出発して夕方までに鳩待峠に戻る予定です。

注意点
入山届は警察の他に参考予定などを鳩待山荘と山の鼻小屋に提出

かなりのハイペースですが実は尾瀬の山小屋に長期滞在の経験があり、当時は片品村役場の職員と一緒に熊の生態調査や尾瀬特有の山菜採取(尾瀬ビルなど)を行っていました。その関係で尾瀬ロッジや山の鼻小屋の職員と共に登山者の救護訓練、ヘリによる物資運搬、山間部という特殊なロケーションでの消火活動訓練なども実施。

このような経緯があって周辺の地理にはやや明るいのです、また行政はもとより各方面への報告(申請などを含む)なども進めることができたのは幸運だったと言えます。

注意点
今後、スゴログのレポートを基に現地へ行かれる方はいないと思いますが尾瀬は日本で一番ツキノワグマの密集率(生息個体が多い)が高い地域です。スゴログでは複数の熊対策を行っております。また今回の外田代へのルートは基本立入禁止区域となっており、普段人が入らない場所ゆえに熊棚も多く見られます。

尾瀬ツキノワグマ保護管理 - 尾瀬保護財団
http://archive.is/nTzd0

尾瀬国立公園ツキノワグマ出没対応マニュアル
http://archive.is/YHrGD



さて、正確な場所が解らない限り現段階で判明している情報である程度「岩塔」に目星を着けなければなりません。先程等高線と航空写真から”コレ”だろうと推測した場所を含め、もう少し吟味してみましょうか。

スゴログ 山窩 岩塔ヶ原

この写真は戦後アメリカ空軍が撮影した1947年当時の航空写真、その中の予想該当地域のもの。1940年代後半から1950年代となれば山窩が終焉を迎える時期でもあります、この年代の航空写真に何か写っていれば当然怪しくもあるわけですが。

赤い円で囲ったこの影、当初岩か何かの延びた影に見えたのですがその後のカラー写真で確認するとどうやら池のよう。国土地理院でも同じ場所に池が描かれているので間違いなさそう、では本来の岩塔の位置は何処かと思えば。

スゴログ 山窩 岩塔ヶ原

この辺りになります、等高線と比較しながら円で囲っていますがこの航空写真からは岩塔が確認できません。

そもそもは西丸氏が昔の航空写真を見て「岩塔」と思しき場所を特定した事からこの「岩塔ヶ原」と言う場所が命名されました、と言うことは氏が山窩文化に興味を持った1980年代までの航空写真に岩塔と思しき何かが映し出されている筈です。

スゴログ 山窩 岩塔ヶ原

1971年の航空写真にはそれらしき高台が見て取れます、やはりその他には岩塔と思えるようなものは発見できません。

スゴログ 山窩 岩塔ヶ原

1976年の航空写真、やはり同じ場所の高低差がカラー化によって顕著に判別できます。広く付近の状況を確認してもこれだけ隆起している(等高線でも確認できる)場所はありません、まずはこの場所を目指すことになりそう。

スゴログ 山窩 岩塔ヶ原

現地ではこのレポートでも紹介した写真や動画と現地がどう合致するかなども検証する予定です。



予備知識(事前調査)総評

殆どが湿地帯で国内随一の熊の生息地、岩塔ヶ原。本当にこんな危険な場所に集落があったのでしょうか、例え山窩と関係ない山岳部の集落だったとしても人が生活していけるのかが大きな疑問なのです。

俗世と隔離された山岳地帯で暮らすには何かしらの理由があります、被差別民や現在で言うハンセン病患者が一般的な文化集落から忌み嫌われた過去は確かにあります。年貢などの課税を逃れて山岳部で流浪する民は事実居たことでしょう、はたして彼らは本当に尾瀬の山奥で生活ができたのでしょうか。

同じ課税を逃れた存在として「山伏」は崇敬対象であり、山岳地帯を生業の主とした「マタギ」は山麓の集落と物々交換など文化的交流を持っていました。1872年の修験禁止令で山に残った山伏だとか、明治維新による近代文明化に適応できなかった人達だとか。当時は逃散した農民も多く山に篭ったので中には山賊化した者もいたのだろうと推測できます、ならば山窩と呼ばれる存在は「山窩」ではなくてこれらを総称したのであればその名称の由来とも繋がってくるのではないでしょうか。

山窩は「散家(離散した人々)」、「山稼(山で稼ぐ=山賊/又は製炭や細工)」などとも呼ばれていて「山の窩(穴、窪み、暗所など)に潜む」とも書く。尾瀬の外田代という人が住むには厳しいロケーション(湿地帯、熊、豪雪)、そして近代化の波。

木挽や木地師がこの地に居たという公式記録もありません、これらのヒントが現地調査でどう関係してくるのか。まずはその結果を少々お待ち頂ければ幸いです、次回の「岩塔ヶ原」エントリーは5月後半か6月の予定です。

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参考・協力

環境省 自然環境局
群馬県警察本部地域課
東京電力ホールディングス株式会社
片品村役場
片品村観光協会
公益社団法人 日本山岳協会
鳩待山荘
山の鼻小屋
尾瀬山の鼻ビジターセンター
公益財団法人 尾瀬保護財団
インターネット自然研究所
西丸震哉記念館
サンカ社会の研究/三角寛(現代書館)
サンカ研究/田中勝也(新泉社)
遠野物語・山の人生/柳田国男(岩波文庫)
サンカの社会資料編/三角寛(現代書館)
別府大学 機関リポジトリ/竹田市周辺の山窩の住生活(https://bit.ly/2JLsHRu

注意点
その他、名前を伏せることでご協力頂いた歴史研究家や民俗学の識者の方々には心より感謝申し上げます。



レポートの場所



注意点

該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。


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