国内屈指の軍需工場だった浦之崎造船所(川南造船所)、その創業者だった川南豊作が経営権を取得した向山炭鉱。造船所に隣接する炭鉱遺構の稼動当時を振り返りながら造船所との関連性や地盤産業として発展した炭鉱の数奇な運命を辿る。戦争とその後の戦後復興期に右往左往したその歴史を紐解くレポート。
佐賀県│向山炭鉱
調査:2010年09月
再訪:2011年08月 / 2011月09月
公開:2010年09月28日
名称:正式名称→向山炭鉱
状態:長期間放置
調査:2010年09月
再訪:2011年08月 / 2011月09月
公開:2010年09月28日
名称:正式名称→向山炭鉱
状態:長期間放置
初公開から長い時間が経過し、掲載情報も古くなったので不用な部分も含め既に常用化した部分を削除して再構成致しました。またその後判明した新しい事実なども追記しております、追跡調査は2015年に行いました。
造船所解体の話題によってこの炭鉱跡が再注目される
2000年代前半までは殆ど注目されることが無かった今回ご紹介する向山炭鉱、解体が決まった浦之崎造船所(川南造船所)の認知度が急上昇したことで着目される機会が増えたのだろう。と、言っても殆どの方がこの向山炭鉱を紹介する際に「捲揚機」跡と海上に幾ばくか残る「積込機」跡を指して説明しているのが残念なところ。実はこの向山炭鉱、本坑はもっと内陸部に存在しており、更にはメインの工場などは新坑と同様に造船所に隣接する場所にあったのだ。
これらの位置関係や歴史的背景、どうして造船所と密接な関係にあったのかなどを解き明かしていこう思います。伊万里焼と同じく、地場産業としてこの地域で発展した炭鉱の栄枯盛衰はどのようなものだったのか見ていくことにしましょう。
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この地図は閉山当時まで向山炭鉱(閉山時は新向山炭鉱)で炭鉱夫として就労していた千葉県在住の成坂さんが製図したもの、地図の内容は昭和35年頃とあるので閉山するほんの少し前のものだ。
今回のレポートは基本的にこの手書きの地図と資料アルバム「向山」を製作した当時、このアルバムに写真を提供した浦ノ崎地区の元地区長である平石嘉人(1933年生)さんの2009年時の聞き取り内容をベースに進めていきます。
注意点
資料アルバム「向山」が所蔵されている熊本県立図書館/くまもと文学・歴史館の館長を務める服部英雄さん(九州大学比較社会文化研究院名誉教授)からこのアルバムに使用されている写真は元浦ノ崎地区長であった平石嘉人さんが提供したとのこと、服部英雄さんが九州大学の学生と共に2009年に調査した向山炭鉱の調査レポートにも語部として平石嘉人さんがクレジットされています。
この場所は向山炭鉱ではない
向山炭鉱の歴史は実は非常に古い、伊万里市は焼物で有名ですがそれと同等以上に炭鉱資源が潤沢な地としても名を馳せていました。採掘が盛んだった頃には周囲に約10を数える炭鉱企業が名を連ねており、向山炭鉱は中でも長い歴史をもつ地元でも有名な存在だったのです。略歴を記すと、
1750年代 現浦ノ崎地区の山中で幾つかの炭鉱資源が発見され採掘がされていた
1781年 佐嘉藩第8代藩主の鍋島治茂が藩内の炭鉱全てを管理下におく
1820年 浦ノ崎地区で炭鉱(後の向山炭鉱と別の場所)開抗
1909年 村井鉱業(村井善兵衛)が浦ノ崎地区にある複数の炭鉱採掘権を取得(買収)
1911年 西分炭鉱減産の為に金桝宮次郎が採掘権を売却(村井鉱業が取得)
1912年 村井鉱業が西分炭鉱で新鉱を開坑し「向山炭鉱」として運用開始
1937年 川南工業(川南豊作)が向山炭鉱の採掘権を取得
1951年 川南工業が破産した為に地元の井家上氏が採掘権を一時取得
1952年 樋口鉱業が採掘権を取得
1953年 樋口鉱業が新向山炭鉱として運用開始
1961年 鴻上氏に採掘権が移譲される(詳細不明)
1963年 新向山炭鉱閉山
1964年 全ての抗口を閉鎖(12月21日と資料に記載あり)
1781年 佐嘉藩第8代藩主の鍋島治茂が藩内の炭鉱全てを管理下におく
1820年 浦ノ崎地区で炭鉱(後の向山炭鉱と別の場所)開抗
1909年 村井鉱業(村井善兵衛)が浦ノ崎地区にある複数の炭鉱採掘権を取得(買収)
1911年 西分炭鉱減産の為に金桝宮次郎が採掘権を売却(村井鉱業が取得)
1912年 村井鉱業が西分炭鉱で新鉱を開坑し「向山炭鉱」として運用開始
1937年 川南工業(川南豊作)が向山炭鉱の採掘権を取得
1951年 川南工業が破産した為に地元の井家上氏が採掘権を一時取得
1952年 樋口鉱業が採掘権を取得
1953年 樋口鉱業が新向山炭鉱として運用開始
1961年 鴻上氏に採掘権が移譲される(詳細不明)
1963年 新向山炭鉱閉山
1964年 全ての抗口を閉鎖(12月21日と資料に記載あり)
注意点
村井善兵衛は村井吉兵衛と表記も
1943年~1945年までは軍需炭鉱として運用
最後の採掘権利は福岡の鎮西興業(買収時期不明)
1943年~1945年までは軍需炭鉱として運用
最後の採掘権利は福岡の鎮西興業(買収時期不明)
このような流れに。この年表、取り寄せた複数の資料の寄せ集めなのですが1909年~1912年までの間と1952年~1955年の間が前後する表記が多く、実は確定的ではない。信憑性の高い通産省の産業史から地元で個人出版された資料冊子まで目を通したのですが人物と年代が前後しており、スゴログでは暫定的な略歴とさせて頂きたい。
それではもう少し歴史を掘り下げていこう。
年表の通り、この周辺には良質の鉱床が多く眠っており、その資源活用は1700年代にまで遡ります。浦ノ崎地区限定で言えばその歴史は1909年、村井鉱業の創業者である村井善兵衛が西分炭鉱を含む住ノ谷炭鉱と八幡山炭鉱を買収したことがはじまりと言えるでしょう。大阪の炭鉱会社であった村井鉱業は石炭商社として大きく成功しており、以前よりこの地に目を着けていたようでした。
後の本抗(村井鉱業としての)となる場所で西分炭鉱を操業していた金桝宮次郎の資金難から減産体制に、そこへ兼ねてよりこの地の炭鉱採掘権の買収を計画していた村井鉱業が周辺の炭鉱企業ごとまとめて買収。元八幡山炭鉱を本部としてこの伊万里の地で経営拠点を広げ、1912年に西分炭鉱で新鉱を開坑。翌年は眼前の伊万里湾にあった福島炭鉱(市村政太郎が経営)も買収、更に事業を拡大していった。
この間々村井鉱業の勢力が広がるかに見えた1937年、この地で以前より大規模な工場(曹達・硝子)を運営していた川南工業の川南豊作が一帯の炭鉱施設と採掘権の取得に乗り出す。これは同年に買収した松尾造船所と同規模の造船工場をこの浦ノ崎に作る計画を表面化させた結果だ、つまりは自家用の炭鉱施設を設けて工場運営に活用したかったのだと思われる。
経営に行き詰ってはいなかった村井善兵衛が何故あっさりと川南豊作に買収を許したか、それは恐らくだが軍上層部とズブであったことと無関係ではないだろう。1935年の時点で川南豊作はこの地に造船所を作ることを考えており、埋立の許可申請を行っている。
これらに関しては「#021 川南浦之崎造船所」を参照して頂きたい。
#021 川南浦之崎造船所
https://www.sugolog.jp/2010/09/021-kawanami.html
https://www.sugolog.jp/2010/09/021-kawanami.html
軍部との癒着の恩恵を大いに振るい、また資金的にも潤沢だった川南工業は1939年より本格的な炭坑開発を始まります。その勢いは留まることを知らず、雇用も増えて1946年には造船所とは別の「向山炭鉱労働組合」が結成されます。
注意点
同年(1946年)女性や青少年による坑内労働が禁止され対象となる就労者が解雇された
戦後処理の中で浮き沈みのあった川南工業が1950年に破産申し立てを行い1955年に倒産するまでの間、向山炭鉱は1952年に樋口鉱業が採掘権を取得。新事業として石炭鉄道輸送や1953年の炭鉱業の拡大(立岩、追崎第五場開発に着手)などで経営維持を模索。が、1954年に資金難から閉山へ。
その後複数の権利取得者によって新西坑や一校坑などの開発が進められたが継続的な運営は無理と判断、1963年には全ての閉山が決まりました。更に翌年の1964年、全ての坑口は閉鎖されて現在に至ります。最終的には福岡市に拠点をもつ鎮西興業が閉山~閉鎖までを担ったそう、世はエネルギー転換期にあって石油燃料へととって代わる正に燃料革命真っ只中だったのだ。価格競争に敗れ、経営難が内外部からも叫ばれたのは奇しくも川南工業の末期と同様と言えよう。
注意点
一校坑は一枚坑との表記も見られます
地場産業の衰退と炭鉱閉山
新向山炭鉱の末期となる1962年の師走、炭鉱及び炭鉱関連施設への送電が電気料金未払いの為に停止する。これは複数存在した炭鉱夫達の集合住宅へも及んだ、この事件によって炭鉱夫達の怒りが頂点を極めたことは容易に想像できる。
注意点
伊万里市史によれば半年以上この状態が続き、1963年7月6日に閉山されたとあります。
年末期に職場どころか居住区の電力も止められ、労働組合と激しく闘争中だった鎮西興業が炭鉱夫達に正規の給金を支払ったかどうか…さぞ不安を抱えた年末年始だった筈だ。既に状況は最悪を迎えており、1963年の閉山は自然な流れだったのかもしれない。
1960年4月10日に発行された「市広報いまり 第72号」には「本年初めに起こった新向山炭鉱の閉山の動きに際し」と読み取れる一文が残されており、樋口鉱業から鎮西興業へ採掘権が移譲した時点で経営存続は難しい段階にあったことが解る。
全ての抗口を閉鎖した1964年から丁度10年後の1974年、「広報いまり No.424(1974年4月1日発行)」には「向山炭鉱の固定資産税及び鉱産税の延滞金収入1235万円」との記述が。これは閉山後10年をもってしても税金滞納が続いており、企業としては大きな負の遺産だったことの証拠でもあります。
産炭地としての伊万里市はエネルギー転換で消滅しましたがその裏事情は幾重にも絡みあった国政と戦後処理、そして企業の思惑が混在する複雑な経緯を辿っていたことが解りました。
それらの皺寄せは結局地方行政への負担となり、当時の雇用は冷え込んだと記録にあります。近年の地域レポートでは関連企業や炭鉱夫達が利用していた商店なども連鎖倒産(閉店)したと報告されています、川南工業に引き続いて地域にとっては非常に大きな問題だったことでしょう。
それでは隆盛時の向山炭鉱をご紹介する前に現在残されている廃墟に関しては少々ご説明しましょう。
冒頭でも記述しましたが多くの来訪者が向山炭鉱としているのは新坑(新向山炭鉱時)の捲揚機跡(コンクリート建造物)と貨物船へ積込港の一つとして機能していたベルトコンベア積込機の残骸、この二つにシステム的関連性はなくて海上に延びたベルトコンベアはホッパーから直結していました。
余談ですが浦之崎造船所が閉鎖されてからは目と鼻の先に在る「浦ノ崎変電所」からの送電が行われていたそうです、確かに川南工業とも一時期関係があったので当然と言えば当然でしょうか。
残留物は不法投棄された遺物
捲揚機と積込機の残骸が残る海岸、黒い砂浜で横たわるのはベルトコンベアの主柱です。精炭ホッパーから延びるベルトコンベアと海上の積込機の間には複数のコンクリート製の橋梁があり、これはその一つなのです。
注意点
この新抗積込港はサブとして併用運用された場所であり、メインの積込港は専用軌道のエンドレスが設置されていた浦ノ崎港です。
それにしてもこの砂浜(海岸)、本当に黒く煤けています。この黒さを殆どの方が細かく砕いた石炭だと勘違いされていますがそれは大きな間違いです。石炭はとても軽く、そして海に浮きます(流れてしまう)。それが細かく砕かれた状態とあらば尚更です。
ではこの黒い残留物は一体なんなのでしょう。
その答えは松岩、松岩は石炭の掘削過程で炭鉱夫達が一番忌み嫌う炭鉱業務の敵のような存在。正式名称は珪化木(けいかぼく)で石炭層に含まれる非常に硬くて重い、何より燃料になり得ない為に石炭に付着している場合は削ぎ落とさなければなりません。しかし記述の通り非常に硬く、掘削機の刃でさえも中々削ぐこと叶わず、それが地層中の大きな塊であったならばどれだけの時間的ロスになることでしょう。
つまり砂浜を黒く染めていたのはこの松岩の粉砕物、一緒に砕かれた石炭はあっという間に海へ流れ出してこの硬くて重い松岩の粉砕物が海岸の砂に紛れて黒く見えているのです。では所々に散見する少々大きめな破砕岩の正体も松岩なのでしょうか。
勿論石炭でも松岩でもない、それは鉱滓(こうさい)と呼ばれるものです。石炭と石炭以外の鉱物で選別し、選別からもれた俗にいうスラグと呼ばれるこれもまた炭鉱夫にとっては不要なものだったのです。操業から軍需工場指定までの間は指定の場所へ運び破棄されていました(海岸の埋立にも利用)が戦時中の人手不足の中、軍部からは「鉱滓などは海にでも捨ててしまえ」との命を受けた炭鉱夫達が海岸に無造作に捨て始めます。
戦後もその悪習のみが残され、閉山以降もこのような無残な姿を残すことになりました。九州では「ぼた」というそうで同地区内で10程度を数えた炭鉱の中でも一番汚い炭鉱場と噂されたとか、付近の炭鉱跡には見られない向山炭鉱独自の残骸物ともいえます。
これは大変有名な捲揚機の台座跡、この台座の奥地に新坑が口を開けていましたが閉山後の閉鎖作業で埋められてしまっています。台座の上には大きな建造物(捲揚機を収納)が設置されており、水洗機や原炭ホッパーと連結されていました。
ところでこの台座、鉄筋コンクリート製なのですが原材料のコンクリート含有量を減らす為に玉砂利が使用されている粗悪な造りだった。閉山後からの半世紀、よくも海水や経年劣化に耐え抜いたものだと感心してしまう程。
海上の遺構も含めてそれぞれの位置関係はストリートビューで確認してほしい。
海上遺構にもコンクリート製の積込機関連の台座が確認できる。
ホッパーのボトム部分にも見える遺構物や浮桟橋(ポンツーン)のような鉄製トラス、これは炭鉱操業時には存在しなった。どうやら炭鉱閉山時の解体作業で投棄されたそうだ(浦ノ崎地区の方への聞き取りで判明)、どちらにせよ向山炭鉱と関係ある遺構物なのだろうが本来海上には存在しない設備なので鉄製というのも納得できた。
向山炭鉱本来の姿は広範囲に渡る地域の主要産業だった
最後に隆盛時の向山炭鉱を。資料アルバム「向山」に写真を提供した元地区長である平石さん、炭鉱夫として就労していた成坂さん共にアルバム内で話されているのは川南豊作が採掘権を得てから。なのでここから記載する内容は1937年以降の向山炭鉱となります、年表でお断りした通り時代検証が多少前後している可能性があることを何卒ご了承願います。
まずは向山炭鉱全体の位置関係を地図で確認して頂きましょう。
炭鉱として大きな事務所が設置されていたのは本抗、新抗、浦ノ崎港の三箇所。本抗からは空中索道で運搬された新抗、専用軌道のエンドレス(エンドレースとも表記)で運搬された浦ノ崎港がそれぞれ出荷・積込港として指定されていた。
2つの運搬先には大規模な工場が建設され、石炭の精製も行われていました。たった2年間だけですが終戦までの間、軍需工場として浦之崎造船所、浦ノ崎変電所、向山炭鉱が同時稼動していたことで現在まで関連遺構として取り上げれることに。
注意点
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川南工業が本格的に炭坑開発を行った西抗(新西抗は樋口鉱業が開抗)、一校抗と本抗との位置関係はこのようになっている。本抗を囲むように点在した松浦寮、上町住宅などの住宅群に加え保育園や集会所、共同浴場(給水塔)などがありました。余り知られていませんが浦ノ崎変電所以外にも小規模な変電所も設置されており、少し離れた場所には火薬庫(発破用ダイナマイト)なども。
現在でも解体後の遺構が残っています。
以下のブログにそれらの写真が掲載されているのでご参考までに。
鶴嘴さんのブログ - 向山 炭鉱 本坑 西坑
http://archive.is/GkDrR
注意点
一校抗の資料は乏しく、後期に開発されたが大規模な操業は行われなかったようだ。因みに閉山後は1967年に熊本営林局指導の下「排水用隧道」として再整備されて暫く運用されたが現在は閉鎖されている。
資料アルバムには向山炭鉱としは初めて開抗した抗口と説明があります、周囲の状況や抗口の形状から本抗だと思われます。この本抗は閉山後の閉鎖作業で地中に埋められてしまい、暫く場所が不明な時期が続きます。
しかし1980年代に農家の方が畑の整地の為に重機で土手を崩していたところ、この抗口が顔を出したという面白いエピソードが残されています。
しかし読み進めていくと一つの疑問にぶつかりました、もう一つ「本抗」と書かれた写真が掲載されていたのです。
写真を見るとアーチ型の抗口の表札に「本抗」とあります、これは恐らくですが村井鉱業が買収後に運用した西分炭鉱の本抗だと思われます。川南工業の買収後はこの表札は取り外された筈。
一校抗の抗口、この抗口は樋口鉱業が操業から離れる間際に掘削が開始されて実質的な操業が行われたのは鎮西興業に移行してから、内部抗路を整備したのが1960年なので閉山間際の新規開拓だったのだろう。しかし本格的な開発は行われない間々閉山が決定、閉鎖された1964年から3年後に熊本営林局が排水用隧道として再利用しました。
選炭場、この場所で抗内から専用軌道で運ばれてきた原炭を石炭とボタに選別分離。更には石炭の大きさを分別したようだ、予想の域を出ないがここで松岩も剥離処理されたのではないか。
エンドレスの本抗側始点、西抗からの専用軌道終点地点でもあるので選炭場とのジョイント部分の写真だと推測できる。
本坑からメインの積込港となる浦ノ崎港へ向かうエンドレス、終点は浦ノ崎港の水洗機だ。このエンドレスとは軌道中央のワイヤーを動かして耐荷重300キロまでの運搬籠を動かす専用軌道、カーブに弱いことから基本的には直線軌道として設置されたが地形的な問題でカーブする場所には曲番(まがりばん)と呼ばれる係員がワイヤーや軌道のボルトの緩みなどをチェックしていた。
最後にご紹介するのがこのエントリーで最初に掲載した朝焼けの新坑積込機、その残骸が現役稼動時を山側から移した写真です。
手前に大きく見える建造物は新坑事務所です、この事務所内から新坑抗口内への人道抗路が整備されています。
左側中央のトロッコ軌道は新抗と捲揚機を繋いでいます、黒く見えるのは積まれた石炭です。現在海岸に残るコンクリートの台座は奥に見える建造物のボトム部分、写真では海水の水位が高いので隠れています。
海に向かって延びる桟橋は精炭ホッパーから積込機へ、一際大きく見える橋梁が今も残る(海岸に倒れているものと海中に沈んでいるもの)主柱です。
実は左端にも軌道が見えますがこれは原炭ホッパーへ向かうもの、今ではこれら全てが草木に覆われて幾つかの遺構を残すだけとなっています。
抗口名称が「新抗」とあるように向山炭鉱時代ではなくて新向山炭鉱の操業時に運用されていた施設群です、実際には10年ほどしか使用されなかったこの場所が長い歴史をもつ向山炭鉱の代表的な来訪地になるとは当時の就労者は思いもしなかった筈でしょう。
2015年の追跡調査で以前より気になっていたものを調べました、造船所や炭鉱、変電所と取り上げられると必ずついて来る「丘の上の貯水池」と「浦ノ崎グランド」です。
丘の上の貯水池は造船所や炭鉱との関連性が全くと見付けられず、その建設時期さえ解りません。現地を訪れれば解りますが消火用水にしては少な過ぎるし場所的にも眼前に海が広がる為に実用的ではありません。
当時貯水池の周囲に大規模な田畑はなく、その農業用水さえ佐代川から取り入れていました。個人的には怪しくは思いますがスゴログとしては暫定的に無関係と致します。
次に「浦ノ崎グランド」ですがこれは川南工業が向山炭鉱を買収後、草野球大会などを開催した場所として記録に残っていました。写真も残されており、造船所の就労者と炭鉱の鉱夫達が対抗戦などを楽しんだそうです。
その他細かな修正点などはエントリー全体に反映してあります、お読み頂いた方で当時を知る方など新たな情報や修正点などにお気づきの方は是非ご連絡下さい。
参考・協力
伊万里市総務課
伊万里市情報広報課
伊万里市教育委員会
熊本県立図書館
くまもと文学・歴史館(館長 服部英雄)
九州大学
浦ノ崎地区にお住まいの方(聞取り調査にて)
伊万里ふるさと読本 第6集 歴史編
伊万里市史 戦後編Ⅱ
市広報いまり 第72号(1960年4月10日発行)
広報いまり No.424(1974年4月1日発行)
伊万里市総務課
伊万里市情報広報課
伊万里市教育委員会
熊本県立図書館
くまもと文学・歴史館(館長 服部英雄)
九州大学
浦ノ崎地区にお住まいの方(聞取り調査にて)
伊万里ふるさと読本 第6集 歴史編
伊万里市史 戦後編Ⅱ
市広報いまり 第72号(1960年4月10日発行)
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注意点
該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。
注意点
該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。
スゴログの装備とその使用方法など
https://www.sugolog.jp/p/blog-page.html
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