2024-04-23T15:20:03Z #042 熊ノ木小学校西高原分校

#042 熊ノ木小学校西高原分校

山々に囲まれた地場産業のなかった開拓集落、移民追従児童の山間教育現場として設けられた分校の歴史を少しだけ除いてみましょう。そこには少ない児童数と、たった一人で四苦八苦した地域教育の現場と住民に支えられた素晴らしい環境がありました。たった18年間の歴史に刻まれた様々な思いをレポート。

スゴログ 熊ノ木小学校西高原分校 廃校

栃木県│熊ノ木小学校西高原分校

調査:2010年06月
公開:2011年09月30日
名称:正式名称→塩谷町立熊ノ木小学校西高原分校
状態:地元公民館として現在管理されています

旧サイトで公開していたレポート内容を2022年現在の調査内容に統合して再エントリーしました。また古くなった情報などは精査して削除しております。


山々に囲まれた開拓集落の分校校舎

以前ご紹介した「鹿沼市立石裂小学校」の調査時に地元の方に教えて頂いた廃校物件、塩谷町立熊ノ木小学校西高原分校。お話を聞く限りかなり小規模校舎と教職員宿舎がおそらく残っているだろうと、お知り合いがその廃校の近くに住んでおられて一緒に見学したこともあると。

時間もあったので行ってみることに、そこには山間部の開拓集落に分校として運用された小さな学校がのこされていました。

注意点
2010年くらいまでは公民館として使用されていましたがその後は倉庫として使用され、現在はやや長期間放置されている状態です。詳細をご存知の方がいましたら「お問い合わせ」から是非情報をお寄せ願います。

スゴログ 熊ノ木小学校西高原分校 廃校

現地付近で入口が解らず、畑仕事をしている方にお声掛け。廃校近くの土地で農家をなさっているとのことで地域の昔話と共に案内して頂けた、更に建物の鍵を持っている方に電話までしてもらいましたが運悪く繋がらず、今回は外観のみの撮影となりました。

周囲は鬱蒼と木々が生い茂り、一見して建造物があるようには思えない景観。少し手前に教職員宿舎が一棟、崩落の時を待っていました。

内部は二部屋と台所、そしてトイレ。簡易宿舎として建造されたが余りにも僻地だった為に在職中は基本この宿舎に先生一人が常駐していたそうです。他にも本校から保険医や臨時の職員が度々訪れていたのだとか。

そう、この廃校。実は分校で本校はかなり離れた場所にありました、山間部の開拓民が点々と住居を構えていた時代に少数ながら児童の教育現場を守る為に分校が設置されていたのです。場所は、ここです。



2013年頃に大規模な除草作業と木々の伐採が行われて一時期周囲の見通しも良くなりましたが現在はまた元の植物の楽園と化しているようです。

スゴログ 熊ノ木小学校西高原分校 廃校

1976年の航空写真、中央右側には教員宿舎と校舎に校庭がハッキリ見えます。地図中央は牧場です、こちらは学校とは関係ない敷地です。

スゴログ 熊ノ木小学校西高原分校 廃校

石垣と生垣植栽、校舎全景。

前面には昇降口と教室が二部屋、裏手に廊下。教員は基本一人でしたが生徒は地域児童を集める形で授業が行われていたので学年別と言うより低学年と高学年の分別方式のだったと聞く。生徒数自体が山間集落の小規模教育なので在校数7人~10人程度の極々小さな現場だった。

注意点
交流授業で本校から分校へ、分校から本校への交換授業なども実施されていたそうです


本校から分校までの距離は凡そ12キロ、途中の集落は本校よりの塩谷地区のみ。当時から児童はもとより大人の人数も非常に少ない地域だったことがわかる。

山間部開拓の農耕地域住民(移民も含む)という集落形成なので元々何もない地域、牧場と登山道(作業道)の連絡道としての中間地点だったので地場産業存在しなかった・

子供たちにとっての遊び相手は極僅かな友人たちと大自然だったことだろう、本校との交流の場で幾ばくかの人脈拡大の場が設けられていたのは幸いだ。

スゴログ 熊ノ木小学校西高原分校 廃校

この分校の名称「熊ノ木」、熊の木ではなくて「ノ」が正式な書き方だという。1889年に「玉生村」、「船生村」、「大宮村」が成立、それまでは別称で集落単位の呼称だったそうで幾つかの名称が混在していた。

1957年に上記3村が合併して「塩谷村」へと改称、以降1985年までは人口数位の増減は僅かではあったが高度成長期の間は微小ながら流入する人間の増加と共に子供も増えた。大きな主落として既に成長していた塩谷地区では「塩谷町立熊ノ木小学校」が開校していたが距離的に通学が難しいことから高原地区に「熊ノ木小学校西高原分校」を設立。

ここから僅かながら山村教育を育んだ「塩谷村立熊ノ木小学校西高原分校」の歴史が始まります。

1874年 - 熊ノ木小学校 開校
1957年 - 熊ノ木小学校西高原分校 開校
1965年 - 町制施行により塩谷町立へ改称
1974年 - 熊ノ木小学校創立100周年記念式典開催
1975年 - 地域の児童人口が低下し熊ノ木小学校へ統合(分校は廃校)
1999年 - 人口減少に伴い塩谷町立玉生小学校へ統合(熊ノ木小学校は廃校)

注意点
旺盛時は2つの分校を合わせて合計367人の児童を抱える地域学舎でした、少子化の流れで1998年には43人まで減少。翌年の1999年に125年の歴史に幕を閉じました。卒業生総数は2888人。

分校としての歴史は18年間、当時は本校の塩谷町立熊ノ木小学校から教師が1人赴任し、校舎手前の小さな教員宿舎に居住して職務に当たっていた。

試行錯誤した上での過疎化した少人数教育が残した功績は大きい、実はこの学校が廃校されてもなお卒業生や関係者が協力して地元のNPO団体として活動されている。

特定非営利活動法人塩谷町旧熊ノ木小学校管理組合

注意点
2014年に運営法人名称を変更し、現在は「特定非営利活動法人くまの木 里の暮らし」となりました。

星ふる学校くまの木は、1999年に閉校となった熊ノ木小学校舎を利用し、宿泊できる体験交流施設として、2002年4月に開業いたしました。

長い間、地域を見守ってきた小さな木造校舎は、小学校としての役目は終えましたが、地域の資源や農山村の環境を活用した体験交流事業を行い、新しいにぎわいの場として現在も当時の小学校の雰囲気を感じることができます。

自然豊かな環境と里地に建つ木造校舎を生かし、宿泊・都市農村交流・体験プログラムと交流の場の提供など、里の暮らしを体感できる場をめざしています。 

(公式サイトから抜粋)

閉校後の2001年に設立されました、地域を支えた歴史ある学校だけに地元から校舎の存続を望む声も多かったそうでレストランや地域学習施設などの転用用途を基に旧NPO団体「塩谷町旧熊ノ木小学校管理組合」が作られたのだとか。

主導したのは当時の理事長を務めた遠藤正久氏、現在は副理事長。サラリーマンを辞めてこの体験学習施設の運用を始めたというから驚きだ、当時の教育思想は今でも確実に受け継がれているのだろう。

スゴログ 熊ノ木小学校西高原分校 廃校

校舎裏側には別舎が設けられており、渡り廊下から行き来していた。向かって左側はトイレ、右側は教材置場やその他の倉庫として使用されていた。

相互扶助で支えられていた山間教育

スゴログ 熊ノ木小学校西高原分校 廃校

校庭には滑り台、ブランコ、回旋塔、雲梯、タイヤ跳びのタイヤが残されている。実はこれらの遊具、開校当時はなかったそうで地域住民(といっても殆どが登校する児童の関係者だったと思われる)やボランティアによる寄贈遊具。

本校と比べて余りに質素な運用実態だったことから学校の予算外から校庭遊具が設置された素晴らしい試みだった、子供たちもさぞ喜んだことだろう。

後に雲梯脇に体育用具倉庫も設置された。

聞き取り調査では一般的な授業に加え、地域の大人を交えた野外学習や学校行事も行われたとか。このような幼児教育の方針は都市部では中々難しいが本来はこうあるべきという現場形態のひとつだろう。


スゴログ 熊ノ木小学校西高原分校 廃校

近年になり、高原地区を支えた林業や農業は衰退の一途を辿りつつあります。空き地となった場所は太陽光発電のパネル設置が進み、自然の景観を崩しています。

この高原分校の近くにも太陽光パネルの設置が始まり、公民館としての運用も実質されていない現状からいつ解体されてもおかしくありません。

件のNPO団体の本拠地は本校だった「熊ノ木小学校」だったのでこちらの分校は今後どうなるか、保存に向けた活動がなされれば野外学習の場としても十分活用できるロケーション。

卒業生にとっても思い出の場所なので是非残してほしい建造物であります。

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参考・協力

塩谷町役場
塩谷町図書館
塩谷町生涯学習センター
星ふる学校・くまの木
特定非営利活動法人塩谷町旧熊ノ木小学校管理組合



レポートの場所



注意点

該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。

スゴログの装備とその使用方法など
https://www.sugolog.jp/p/blog-page.html



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廃校遺産 the ruins of a school
昭和ノスタルジック愛好会

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