地元の人々の記憶から消え去った小山の山頂に残された小さな祠、そこには地場産業と密接に関わる設置理由と長い歴史がありました。地域住民との共同調査によって判明した祠のバックストーリーをレポート、二入隧道で知られる二入地区の歴史を一緒に辿りましょう。
千葉県│二入の石祠
調査:2022年05月 / 2022年06月
再訪:2022年06月(該当月2回目)
公開:2022年09月22日
名称:正式名称→丸山の地鎮祠
状態:2022年にスゴログよる簡易的な参道整備を実施
行政広報の取材で千葉県に点在する神社の取材を行った折、君津市二入に残ると噂されている廃神社の話をお聞きした。取材当時、県内の古い神社と鎮守の森と呼称される田畑にポツンと残されている原生林や人工林、神社などの取材も並行して行っていたので類似する廃神社に関しても幾ばくかの興味が湧いたのでした。
なんでも小山の山頂に詳細が全く判らない廃神社が残されていて、今では参拝者も居ないのだとか。取材中の神社からも程近かったので行ってみることに、場所は二入という地方集落。該当地には「二入隧道」で何度か訪れたことがある、凡そ10年以上振りの再訪だ。
今回は全く予定になかったこの廃神社の調査で地元の方々の協力の下、地域でも失われつつあった地元産業とそれにまつわる歴史を掘り起こすレポートとなります。
県内の神社の取材で耳にした廃神社
冒頭説明の通り、元々予定になかった今回の廃神社の取材。行政広報のリストにも挙げれていないので完全なプライベートレポートなわけですが地域民俗学の観点から非常に興味深い物件でした、と言うのも最初に軽い気持ちでこの地域の聞き取りを行った際に
「そんな神社は聞い事がない」
「小さい頃から住んでいるが場所も知らない」
「古い歴史を知っている方も既に亡くなっている」
など全くと情報が得られない。
ネットにも情報がなく、本当にその廃神社が存在するのかも怪しい雲行きとなってきた。最初の来訪時は他の取材が混在した為に地域唯一の商店に寄って情報が得られなければ諦めようと考えていました、休憩がてらに入ったのはこの商店。
井戸店
千葉県君津市二入366-1
この商店は石射太郎への登山口からのアプローチで登山客が最初で最後に目にする店舗、なので地域住民の他にも県内での登山を楽しむ方にも知られている商店です。
さて、入店して身分を明かし早速廃神社の情報を得られないかお話を伺うと
「丸山のことだろうか」
「あそこに確か鳥居があった様な…」
「お墓の脇に石段があった記憶が」
丁度買物に来ていた近所の方からなどにも記憶は無いそう、なので現状一番の有力情報だ。更にお知り合いに電話して頂きKさんという近所の方も駆けつけてくれました。
「子供の頃に行ったことがある」
この方の証言で確証が持てました、やはり廃神社はあったようです。現在も残るかは別としてその存在を記憶している方にやっと出会えました。そこからKさんと廃神社の場所探しが始まります、近所の畑で作業中のご夫婦も合流して歩く事数十分。
「多分ここだね」
鬱蒼と茂る山の中や田畑の裏に設置された祠などを経て盛緑の小山に少しだけその身を覗かせた鳥居を発見、「そう言えば子供の頃に上まで登ったことがあって何か在ったのは覚えているが神社ではなかったと思う」と。
その日はタイムリミットを迎え、一先ず得られた情報を整理して帰路に。2週間後にまた来訪する事を伝えると再度協力してくれる事に、私達はそれまでに法務局で登記簿・地積測量図・地域地図を取得。
その後登記簿を参考に土地の所有者にコンタクトを取り、調査地域の清掃と整備の許可を頂いて当日は枝の伐採や草刈、参道整備を行いながらの大掛かりな調査となりました。
放置された小山に残されていた鳥居
前回の来訪で偶然発見できた廃神社だと思われる予測地、その確証はないものの最大のヒントとなったのは生い茂る木々の隙間から少しだ目視できた鳥居。Kさんの記憶とも一致し、それではと古い地図なども確認。しかし神社などの地図記号は昭和初期からの地図を遡ってみても記載はなく、また国土地理院の航空写真で辛うじて解像度が高いカラー写真(1974年~)でもやはりそれらしき建造物は見当たらず。
登記簿を確認すると最初期の登記内容は記載されていないが書類上の最初の記載名の方が昭和初期より所有している事は現所有者のご家族からのヒアリングで確認しています、2007年に別姓名義に相続されていますが親族なのでお話を聞く限り戦後以降は同じ一族で所有されて続けている土地という事になります。
調査を混乱させたのはこの地域には同性が非常に多く、親族付き合いがない現在から遡れば同じ一族で合った可能性も高い事。これは最初期の所有者を辿る上でどのご家族とコンタクトを取るべきかで困難を極めましたが運よくそのご家族(及び親族も含め)からお話を直接お聞きできたのは幸運と言えるでしょう。
しかし予測値の土地所有者とのコンタクトは無事に成功したもののこのご家族でさえ、神社の存在は記憶にないと言う。恐らく詳細を知っていたであろう先代のお爺様は数年前に鬼籍に入られており、親族一同その存在を認知している方がいらっしゃらない。
限られた情報を整理すると現状(2022年現在)80代後半以降の方でないと判らないのではないか、とのことだった。
この写真の奥に鳥居があります、Kさんの子供の頃の話では「ずっと昔から小山があった」との事でしたが
「穴があるので危ないから行ってはいけない」
「悪い事をすると穴に落とされる」
と幼少期は注意されていたそうです。ヒアリング当初、この
穴=廃神社→同じ場所
の形式が成り立たずお互いに同じ場所を指している事に中々気付けず。今では子供も殆どいない地域ですが現住の方々が子供の頃は危険な小山に入る事を注意喚起として怖い伝承の様な扱いで話していようです。危険な地形や高低差、禁足地などに散見できる言い伝えの部類です。
そしてこの「穴」についても調査過程でその存在を確認するのですが一先ず廃神社の発見までの過程を記載していきましょう。
調査の舞台となった場所はここです。
この辺りは一時期地場産業が存在したようでその当時、この小山付近は分筆されたそう。故に詳細な土地の境界線なども現地の人でも判らないのだとか。そこで事前に取得しておいた区画図面を確認します。
注意点
地図上の地形と現地での実際の地形には高低差も含めて大きな違いがあります
住所でいえばこの場所(君津市二入字南香木原342-1)になります、国土地理院同様にヒントとなる情報はこの地図からは得られません。
戦前の同地域の地図を旧地図閲覧サービスで確認してもそれらしい地図記号の記載はありません、机上調査では神社の存在は完全に見つけられない状態です。
そこで古い住宅地図閲覧サービスでこの場所を検索してみると…ありました、階段(梯子状に描かれている場所)とその先に小さな建造物。1970年代の地域建造物調査ではこの小さな建造物が行政に認識されています、その事実をやっと発見できました。
注意点
君津市に問い合わせましたが行政が現在管理している住宅地図にはこの階段と建造物が描かれておらず、神社の存在は確認できないとの回答を頂きました。
中央の隙間に辛うじて目視できる鳥居、ヒアリングと旧地図を確認した限りではこの場所で間違いなさそうです。
これからこの生い茂る木々を伐採し、通路を確保するところからはじめます。
今回の調査内容は
① 廃神社の確認
② どのような歴史的背景があるのか
③ 周囲に認知されていない理由
④ ”穴”とは何か
この4項目となります、君津市二入の簡単な歴史と共に地場産業との関係性なども同時に調査して神社のバックストーリーに迫ります。
隣接する墓地には川俣家の集合墓地、この地域に多い姓の一つで複数の一族が埋葬されているのだとか。実は該当する小山や付近の土地の古い権利者にもこの川俣家の名前が挙がっています(現在は譲渡や相続で大分分散しましたが)、同一の姓ではあっても昭和初期の頃には既に複数の過程に分かれていたので所有者は複数いらっしゃいます。
今回の調査とは直接関係はないので詳細は割愛。
注意点
地図上の地形と現地での実際の地形には高低差も含めて大きな違いがあります
改めて今回の調査地域の確認をしましょう、等高線でも判るように高台が中央円の中に見えます。計曲線の上に補助曲線が描かれているので地図上では55メートル、高さは大したこと無さそうですが藪が厄介です。
注意点
地図上の地形と現地での実際の地形には高低差も含めて大きな違いがあります
もし廃神社が残るならばこの場所辺りの筈、鳥居は残っているので昔は参道か少なくとも人が歩ける簡易整備はされていたと思います。
1968年の航空写真、解像度が低いですが建造物は確認できません。いつ頃から神社があったのか、地元の方も記憶にないとおっしゃる程に古いのか。地元住民からの聞き取り年齢層は主に50~80代、50代後半の方が子供の頃の記憶を話していた事を考慮すると少なくとも現在(2022年)から45~50年前には存在していたと思われます。
で、あれば。
この年代の航空写真に何かしらのヒントがあっても良いのですが…。
こちらは1974年、該当地に向かって樹木が並んでいるようにも見えますがこれは東側の計画伐採によるものだそうで。「参道のようにみえるのは恐らく偶々」とは、聞き取り証言から。
伐採許可を得た地域の最終確認をします、可能ならば今後地元の方も参拝できる環境に整備できればと考えており、慎重に作業を進めなければなりません。
今回用意したのはレシプロソー・小型チェーンソー、草刈り機・手持ち鋸に鎌、3人でこれらを使用して整備していきます。
マキタ(Makita)
平場の雑草を刈り、まずは鳥居までの導線を確保します。
(株)コーコス信岡
階段が出てきました、土に埋もれていましたが石段を見つけて急遽地元の農家の方にスコップをお借りして階段を露出させていきます。
平地からこの階段が設置されているようで鳥居の直下で一度途切れていました、見える限りでは階段の段数は20段。
まずこの石段の存在に少しばかりのヒントが存在します、地方山岳信仰の場合に多く見られますが神社は住居などが建ち並ぶ平地より高い場所に建造されます。これは信仰すべき対象や神仏をより高い位置に据え、神様を見下ろさないように考慮された宗教的思想が日本にあったからです。
勿論平地に置かれた神仏も多くありますがその場合、より大きく造る傾向や台座の上に鎮座されることが多いそう。
つまり、鳥居と石段(階段)の存在は過去、この場所に信仰対象が在ったことの証明になり得るのです。
アース製薬
笹に埋もれた袖石と親柱が姿を現しました、長い年月で摩耗していますが四角錐が見てとれます。
本来、親柱は手摺などの主柱として使用されますがこの様な石段の意匠としても使われます。略化されて完全な装飾とも思えますが袖石の強度を確保する為に設置されているが多く、今回の石段にも一区切り毎に左右2本づつ残っていました。
袖石と親柱は共に120mm、石段は720mm、全幅は960mm程。親柱の全高は240mm(錐部分含む)とかなり低め、石段の幅は200mm未満で非常に歩き難い。
小規模な神社などの石段の幅が狭い理由は諸説あるそう、この階段との関連性を示す明確な理由は判らず終い。時代背景や土地柄とも、また石段の造成方法などにも起因するのだとか。
鳥居の全貌がやっと確認できた、形式は一般的な神明鳥居。この時点で一休みとなりお世話になっている件の商店に戻ります、一先ず石段と鳥居がしっかりと目視できた事を伝えうると新しい情報が。
さっきおばあちゃん(現在引っ越されて別の地域にお住まいの先代所有者の配偶者)に電話してきいてみたんだけど
「鳥居は昔、木だった」
「腐って倒れて作り替えた」
「山に神社はない」
だって、また後で電話してあげようか。
これは衝撃的な事実が、”山に神社はない”とは。現在の所有者は病気で入院されており、自由に連絡が取れない。そこで昔の事を知っているだろう唯一の人物としてお婆様にご連絡して頂けたのですが…。
神社はないと明言されており、ならば
”何の為の鳥居と石段なのか”
が謎となる。信仰対象があったのは恐らく確かな筈、では小山の山頂には何があるのか。
狛犬、そうです。向かって右側の本来”阿形”の獅子である筈の石像は”阿形”の狛犬。耳も垂れておらずたてがみも直毛、しかも吽形でもない。
調べてみると清水寺の仁王門前に設置されている狛犬も双方が咆哮の”阿形”で獅子吼と呼ばれる珍しい阿阿像の狛犬で眼前の狛犬と同形態、阿阿像や獅子吼の概念は仏典由来で昔からあるようですがこの考えが一般的に広がったのは1900年代中盤との既述を多く見かけます。
恐らくそのキッカケとなったのは清水寺の狛犬。
清水寺の狛犬は第2次世界大戦前までは銅製だったが戦需供出で撤去されてしまい、以後石像なら没収されないだろうと1944年に寄贈さたものが現在のもの。この時、戦時中の混乱の世相を反映してか
「仏陀の教えを大声で世に知らしめる」
という意味を含めて双方を”阿形”にした説が話題になりました。それまで阿阿像は非常に珍しく、一般的でもなかったので眼前の狛犬が恐らくは戦後に作られらのではないかと…予想できます。
台座には奉献の「奉(篆書体)」。
注意点
獅子吼の概念は複数存在し、一番有名なエピソードは清水寺の参拝に関するもの。「長い清水坂を登り、疲労困憊の状態でも参拝者が笑顔であってほしいとの想いから双方口を開いて笑いかけている」説、この口を開けるという状態にも別途意味があって「仏陀の説法はまるで獅子が吼えるが如く」と仏典に記載が。
こちらもやはり狛犬、大きな欠損などもなく状態は良い。
狛犬の形からも何かヒントが得られないか、ウェブ上の狛犬のデータベースと照合してみたが同じ物は発見できず。
台座には奉献の「献」、漢字は獻(篆書体)。
タヌパック
下段、中段の堆積した枯葉や土を除去して歩けるように整備。左右の雑草も取り除き、大分見通しが良くなった。
中段の石段は33段。
注意点
下段から鳥居の沓石が置かれているテラスまでが20段、約3100mmの平場から中段の石段が33段。
上段、こちらは堆積した土で既に階段が見えなくなっておりただの斜面だった。土から親柱だけが顔を覗かせていたので階段の存在を確信、スコップで少しづつ掘り起こしていった。幸い最上部だけは石段が見える状態だった。
注意点
中段から平場約2200mmを経て上段は47段、一番長い。
神社はやはり存在しなかった
上部の階段整備をしている最中に小山の頂上が見えており、そこに神社らしき建造物がないことは既に判っていた。複数の
「そんな神社は聞い事がない」
「何か在ったのは覚えているが神社ではなかったと思う」
「山に神社はない」
など、証言の通り神社はなかったのだ。
① 廃神社の確認→神社はない
しかし私達の眼は別のものを捉えていた、それは山頂に残されていた石祠。成程、これが廃神社の正体だったのですか。
三段ほどの石段に台座があり、その上に小さな祠。ロケーションとしては素晴らしいが随分と長い間放置されていたことが伺える、至る所に苔が付着している。
祠に対する拝礼作法は心得てないので手を合わせ、一礼してから調査に入ります。
周囲に土を払い、枯葉を除きます。それから刷毛で祠の埃を落とし、この祠の歴史的背景に関するヒントを探します。
まず石祠について簡単なおさらいを。
祠 - ウィキペディア
石の祠は全国に点在するが幾つか種類があり、今回の祠は扉上部に向拝があるので「流造り」だと思われます。石祠については以下のサイトを参考にどうぞ。
石祠の種類
扉は「扉取り外し式」で台座も含めて特筆すべき特徴は見当たらない、意匠の穴は擬宝珠を模った開閉時に指を差し込むもの。
祠自体は神社の簡略化形態として設置される事からあながち「廃神社」でも間違いではないのかもしれないがどちらにせよ何かしらの信仰対象があった証拠にはなる。
側面や裏面に文字などが刻まれていないか細かく観察、優しく刷毛やブラシで表面を綺麗にしてもヒントは得られなかった。
穴の意匠が擬宝珠タイプだったので狐穴がないか確認してみたがこちらもなかった。
お稲荷さんの「狐穴」
追加で行政広報に掲載する為に祠の計測、地域の方にも出来る限りの調査内容をお伝えする約束だ。
注意点
県内の神社仏閣データベースにも情報提供する予定です。
穴の意匠からご神体が見えないか照らしてみるとどうやら土が蓄積しているよう、土自体がご神体という祠は少なくともスゴログでは調査上に挙がらなかったので埋もれてしまっているのだろうが流石に開ける事はできない。
ではこの土はどういった理由で蓄積したのかという疑問が残る。
蟻などは元々土がある場所に営巣するので祠の中に運び込んだ可能性は低い、だとするとクロスズメバチやハナバチ、ドロバチの類がこの場所に巣を作ったのだろうか。
Lighting EVER
最後に便宜上ではありますが御神酒を捧げ、一礼して現地調査は終了です。
調査終了間際、周囲を探索していた時に祠の左側斜面に深い穴を発見しました、幅は700mm程で深さは数メートル(目視できる範囲では人の背丈以上の深さ)はあるようです。成程、これは子供が落ちたら一大事です。遊び場としては非常に危険で新緑の時期などは草木で隠れて落とし穴のような状態だったかもしれません。
④ ”穴”とは何か→存在を確認
現状把握している情報でこの穴の正体の予想はつきますが自然発生したとも考えられます、一先ずここでは穴の確認のみに留めましょう。
注意点
自然発生の場合、陥没理由は水源枯渇やこの陥没部分のみ地質が異なっていて流出したなど色々と考えられます。
祠の設置理由とは
現地調査を終えて商店に戻ると土地所有者の相続人と連絡をとって頂いており、凡その話が見えてきました。
まず小山の名称は丸山といい、元々は今より大きな山だったそう。それが現在の相続者の祖父と祖父の父親、つまり曾祖父とで切り開き埋め立て用土砂を採掘して商売をしていたのだとか。
つまり現在の丸山はそのズリ山の残積土でそれが自然に還ったものと思われます、戦前の話とのことで土砂は当時房総半島内湾の埋め立てに使用されたようですが残念ながら記録は発見できませんでした。
ではこの丸山=残積土に残された祠は何なのか。
これもハッキリとしませんが現在の土地所有者の曾祖父が山の土を切り売りする為、地鎮の為に個人で設置したものでのようでした。ご家族の話では詳細を知る方が一人も現存しておらず、祠の存在も忘れていたそうです。
また周囲には土砂採掘時に作業員が事故で亡くなったとの噂も流れ、祠の設置理由も諸説派生したようですがこれは相続人のご家族が否定されておりました。
② どのような歴史的背景があるのか→地場産業のズリ山残積土
③ 周囲に認知されていない理由→関係者が亡くなられている為
神社と勘違いされたのはやはり鳥居の存在、藪に覆われていた為に参道を登る方がおらず、祠の記憶が薄れ神社と混同されたのではないかと思われます。
調査過程の写真を見て頂き、ご神体についてもお聞きしました。
「たしかに土砂に関する商売だったので土を込めた可能性も捨てきれないが恐らくは別のものが入っている筈」
とのこと。
注意点
祠には神社の社殿を代替する意味もある為、一概に神社ではないと断言もできません。山深い場所に設置される理由には自然崇拝や土地信仰も含まれます、ご神体は様々で由来依存です。
注意点
今回の祠の場合、屋敷神(庭内神祠)の類には該当しません。
件の穴ですが採掘当時の残骸である可能性が最も高いと考えられます、祠や神社の存在が消え去っても穴の注意喚起が残ったのは子供の安全の為に僅かながらに語り継がれたのでしょう。
土地に関する詳細はもう少し調査しましたが余りに個人情報と直結する為に割愛、基本的な調査内容は関係者の承諾を得た範囲で行政広報に掲載される予定です。
最後に調査でお世話になった弁護士さんから面白い話をお聞きしたので追記します。
個人所有の敷地に祠がある場合、一定の条件を満たすと庭内神祠とみなされて祠と祠が設置されている部分の敷地は非課税財産となります。
どこまで敷地として認識されるかは千差万別ですが節税の為に庭内神祠を意図的に設置する方もいるのだとか、ということは世の中には信仰も崇拝もない節税の為だけの祠が少なからず存在するようですがそれは些か罰当たりな気もします。
二入隧道
冒頭でも少しばかり触れましたがかれこれ10年以上前、2010年にこの二入の地に足を運んだことがあります。
当時の調査対象は二入隧道、事細かく調査したのですがレポートに関しては有名サイトである「山さ行がねが」が大変秀逸なのでそちらを是非参照下さい。
山さ行がねが - 君津市二入の廃隧道
調査当時の2010年はまだ房総スカイラインが有料(普通車¥300)でしたが2013年02月に無料通行措置開始、以降継続されて無料通行でしたが2019年04月に正式に無料開放されました。
イカリ消毒
房総スカイライン - ウィキペディア
二入の草原
この地域を横断する国道465号線、今回お世話になった拠点のIDOMISEさんからほど近い場所に情緒溢れる草原が広がっています。場所はここです。
震災後に簡易整備が入りましたがスゴログが初めて来訪したのは2004年頃、その後2010年にも来訪しています。どちらも雑誌の撮影で晩秋の夕方に来たのですが素晴らしい風景が眼前にありました。
バイクのツーリングなどでも目に入るのでお気づきの方もいらっしゃるかもしれません。
しかしここがどんな場所だったかご存知の方は少ないようです、実はこの場所はかなり昔より水田として管理されていました。ウェブ上で確認できる一番古い航空写真では1966年になりますが既に立派な田園風景が確認できます。
1974年の航空写真ではカラーで確認できます。
この一帯は山岳地域ではありますが二入周辺は小糸川沿いに平地が広がっており、古くから田畑の運用がされていたそうです。
1980年代には放棄されたようで現在はご覧の通りの大草原が残されています。
草原からIDOMISEを過ぎ、更に少し南下すると50年続けているという駄菓子屋さんが現在も営業されています。
駄菓子屋どんぐり - 房総タウン.com
リピーターの殆どが車で来店する大人ばかりだそうです、営業開始当初はまだ子供の姿が多かったそうですが山岳地帯の過疎地となると人口減少の波は都市部より甚大なのかもしれません。
当時子供だった方が現在では祖父祖母の可能性もあると思うと中々に素晴らしい店舗だといえるでしょう、可能な限り長く営業されてほしい駄菓子屋さんです。

参考・協力
君津市市役所
二入地区
二入自治会
辻森郵便局
井戸店
二入地区
二入自治会
辻森郵便局
井戸店
注意点
二入地区の方々には初期調査の同行や関連資料などの提出などで非常にお世話になりました、また井戸店様には数度の調査協力と土地管理者とのブリッジ対応など心より感謝申し上げます。
レポートの場所
注意点
該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。
注意点
該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。
スゴログの装備とその使用方法など
https://www.sugolog.jp/p/blog-page.html
https://www.sugolog.jp/p/blog-page.html
エントリー関連広告
島田 裕巳