2010年の来訪時に発見出来なかった謎の石碑、2014年の情報提供からいたずらに経過した空白の4年間。再訪となる2018年、果たして上暮地の石碑は発見できるのか。8年越しのレポートが今回、完結します。
山梨県│上暮地の石碑
調査:2010年07月
再訪:2018年09月 / 2019年10月
公開:2011年10月28日
名称:正式名称→なし
状態:林業整備の一環で作業道は定期的に清掃されています
富士山の麓、吉田市上暮地に在るされる謎の石碑。
この石碑について知ったのは2010年07月、初出は恐らく当事の某巨大掲示板のオカルト板だと思う。何かのまとめサイトでたまたまこのレスが抽出されていて以下の様に記載されていたのだけれど妙に気になってこの部分だけを保存していたのです。
109 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします [sage] 2010/07/04(日) 16:18:12.92 ID:8guheFHS0
35.513749,138.810925
地元の者だが、この道の先(指してある所)には
どう見ても日本語じゃない正体不明の石碑がある。
ガキのころ一度行ったことがあるが、もう不気味超えて怪奇だよ
熊とかハチとか地元民の目がこわくなければ見に行ってみるもよろし。
このレスがまとめサイトで出回り始めた頃、同時期に「本当は怖い山梨県」「孤立した集落」など富士山の麓周辺に関する都市伝説が何故か流行っており、それならばその全てを解き明かそうとスゴログのメンバーで現地へ向かう事にしたのです。
【2010年の初来訪~2018年までの流れ】
結局当初想定していた場所より更に奥へ進んでみたものの石碑は発見出来ず、それからいたずらに4年の歳月が過ぎたある日。なんと旧サイト(行ってみたら凄かった。)の問い合わせフォームに地元(上暮地)と思われる方から実名入りでこの石碑についての有力情報が齎される。
「上暮地の石碑での記事を見たのですが、初めの大きいダムの少し先に石碑があるのに…滝まで行ってしまったのですね」
すっかりと忘却の彼方に状態だった上暮地の石碑、これだけの情報を掴んだのだからリベンジは必須だったのです…が。
その後も機会に恵まれずに更に4年の月日が経過して、気付けば最初の来訪から8年と言う長い空白の期間を空けて尚その石碑に出会う事叶わず。どうにか確認だけでもしなくては、そう決心して思い腰を上げて探してきたのが今回の追加レポートと言うワケなのです。
まずは2010年に公開したレポート、そして続けて本年の追加レポートを。果たして新しい発見が有ったのか、謎の石碑とは一体何だったのかを是非ともご覧下さい。
造成林に残る作業道と砂防ダム
まずは位置関係を軽くお浚いしよう、有名な都市伝説なのでご存知の方も居るだろうがお付き合い願いたい。
件(初出のレス)の指し示す場所はここ、本当に山深い。この航空写真は1975年に撮影されたものでまだ砂防ダムが存在していない、後述する数見川砂防ダムは1988年に完成したのでこの写真に残る薄っすらと見える道筋も実は旧作業道だ。
山梨県が公開している県営林道情報にはこの道が記載されていないのでどうやら林道でもなさそう、事実この道は1キロ程でその姿を消してしまう。正確には全く整備が施されていない山道が残るだけだ、特定猟具使用禁止区域ではないので猟期には人の出入も有るのだろうが一般的に開放された場所ではない事は確か。
と、なればこの道が「何の為に存在していたのか」と言う事が石碑と密接に関わってくると思われる。
大きな転換期となったのは1980年代に入ってから。
ダム建設の為に仮設アスファルトが敷かれ、工事車両が頻繁に行き来する時期が数年間在ったのだけれど1988年のダム完成以降は廃道の様な荒廃した姿を今に残すばかりだった。
等高線を見ると谷間に川が流れ、その川に沿う形で廃道(※)が描かれている。この場所に砂防ダムを建設したと言う事はそれ以前に上流からの土砂災害が頻発していた事を示している、と成るとこの場所に石碑を建てる意味とは一体どんなものが予想されれるだろう。
注意点
※ 2013年に地図が改正されてこの砂防ダムへの廃道が正確に記される様に成りました、国土地理院の地図や紙媒体の地図では砂防ダム付近の道の描き方が随分と違う事に気が付く筈です。
また、もし石碑を建てたとして頻発する土砂災害に絶え抜いたのだろうか。たまたま立地的な条件や偶然が重なって災害から難を逃れたのだろうか、いやダムの建設後に建てられた新しい石碑と言う可能性も捨てきれない。
冒頭の抽出レスには「ガキのころ一度行ったことがあるが」とある、しかしレス主が現在お幾つでいつ頃の話なのかなど、この石碑を発見するにはまだまだ精査検証しなければ成らない事が山積している。
更に古い航空写真、撮影時期は1951年だ。
現代と違い、山中に棚田状の畑が残る事から随分と山深い場所まで人が住んでいた事が解る。この時既に石碑が在ったとするならば、下流に見える田畑は何を指し示す(※)のか。
注意点
※ 砂防ダムが必要な程土砂災害が発生しているならば下流方面に田畑をつくる道理がない
現在では休耕田と言うより廃田と化しているこのエリア、1951年当事は現役で運用されていたのが写真から解るのだけれど扇状に広がった下流平地部分における土砂災害とは一体「どれだけの規模」で「どの位の頻度」だったのか。当然の事ながら恒常的に田畑を続けたいと思うのなら災害とは無縁の地を開墾するだろう、長い年月変わらず運用できたこの下流域の田畑は意外と重要なヒントなのかもしれない。
この時点で自然災害が言う程大規模ではなかったとすれば1988年に建設した砂防ダムの意味(※)も解らなくなる、ダム建設と周囲の農業形態や石碑の有無がこの場所の歴史を紐解くのに避けては通れない謎の様な気がしてきました。
興味は尽きません。
注意点
※ ダム建設後は下流平地部分での田畑運用は減少しています
中央に見える人工物が数見川の流れを隔てる数見川砂防ダムだ、ここに至るまでに源流は5本存在しているが降雨時だとしても氾濫する様な川でない事は現地調査で判断出来た。
そして気象状況に因る流れの変化が地形的にも少ない事が先程見て頂いた航空写真からも解るだろう、そう…「地形的変化が殆ど無い事」が何とも気がかりなのです。
現農耕地と旧農耕地を隔てるゲートの向こう側
下流側に広がる幾ばくかの田畑、そして住宅区域に害獣(鹿、猪、熊など)が降りて来ない様に無施錠ではあるがゲートが。因みにこのゲートは一般開放されており、自由に行き来可能だけれど扉は必ず閉める事が条件だ。
イカリ消毒
ストリートビューもこのゲート手前までだった、来訪される方で車やバイクをこの付近に停める方がいらっしゃるが実はその間々ゲートを越えて進入しても問題はない。だが非常にマディなので留意して頂ければ、この様な場所でスタックして助けを呼ぶのは非常に困難なので心して運転してほしい。
ゲートを過ぎて直ぐに2010年に設置された滝案内の看板が目に留まる、2010年という事は今年設置されたばかりなのか(初回来訪当事)。
この看板には「一・二・三崖滝保存会」と設置団体名が記載されているけれどウェブ上にはその情報はなく、行政もその実態を把握していなかった。
どうやらこの先に「一崖滝」「二崖滝」「三崖滝」(※)と三つの滝が存在するらしく、ダム建設で整備した道路から延びる旧作業道を簡易的に「二崖滝」まで整備した様だ。実際この後に歩く事になるのだけれど簡易整備とは言っても急斜面なので登山靴でないと中々歩くのが辛い状況だった。
そして更に「三崖滝」から先は岩ガレを進む事に、だけれど恐らく100年以上昔は繋がっていたと思われる霜山への登山道と程なくして合流する。そこからはピークを歩くので辛くは無いが風景は単調で面白くはない、ただ登山道とこの旧作業道が繋がっていた事は何かしら石碑と関係があるかもしれないと思える状況要素だ。
注意点
※ いちがい、にがい、さんがいと読む。
流石にこれ以上は進めないので車をこの地点でデポ、ここからは徒歩でのアプローチとした。
それでは少し状況を踏まえた考察をしていくとしよう。
この地域に限らず山間部の集落は山岳信仰(巨木や単一の樹木、川や石など)である事が多い、その中で日本固有の神道として道祖神は古来から存在している。
道祖神 - ウィキペディア
ウィキペディア内の説明には道祖神とは路傍の神様とある、「集落の境や村の中心、村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神様」ともある。山岳信仰としてこの様な道祖神を石としたり石像として加工したり国内の原始宗教として息の長い文化として現代にも息づいている、そしてこの地域は日本一の標高を頂に持つ富士山の山麓。
山岳信仰として付近の集落が道祖神を村単位で崇めていた事は容易に想像出来る。
一応付近の伝承や地域限定の宗教観(※)なども調べた結果、確かに幾つか資料が出ては来たのだけれど直接この場所と関連するものは無かった。
注意点
※ 眉唾系の古史四書で有名な「竹内文書」や「宮下文書」、また富士吉田市に残る「徐福伝説」などは除外した。
立地的な検証をするならばこの場所、上暮地の西側最短と言えなくもない。田畑を含んだ集落の占有面積で言えば確かに山と集落の境界なのだろう。
なのであれば石碑を発見したとしても、それはきっと道祖神的な意味を持つ一般的な石造物で冒頭の抽出レスの様な「どう見ても日本語じゃない正体不明の石碑がある」と言う表現にはならない筈だ。
そもそも「どう見ても日本語じゃない」とは如何様にして判断したのだろう。
日本は世界的に見ても象形文字と記号文字を並列使用している珍しい文化を持った民族として知られている、象形文字に親しんでいるので石碑に使用されそうな漢字書体(旧字や異体字)なら読めなくとも中国由来の漢字書体だとは判別出来る筈だ。
難読書体も石碑には多いが現在数百と確認されている国内で流通した旧字書体(地域限定の変形異体書体は別)などを含め、現代教育を受けた成人が「日本語ではない」と判別する書体は恐らくだが皆無だろうと思う。
まさかこんな日本の山奥でヘレニズム期のヒエログリフやデモティックが書かれた碑文が存在するとも考えられない、石碑が発見出来たとしてその場で判読不能ならば民俗学に強い大学関係者などにお伺いを立てれば何とかなるだろう。
さて、考察はこの辺にして現地の状況把握に少し注意を払おうか。
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冗談なではなく、この一帯は本当に熊の目撃例が多い。市街地から近いとは言え、先程の写真にあった害獣阻止柵が在る位には住民が気を張っていると解る。
熊の活発な活動時間と言える早朝の来訪だったので特に周囲を注視して進むとしよう。
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直接関係するかは解らないのですがこの一帯の吉田市はさすが富士山の麓と言える地名が付けられています、今回の「上暮地」に隣接する「下暮地」や「倉見」は全て日照時間と富士山からの位置関係を由来としているのが何とも面白いので少しだけご紹介しましょう。
この「暮地(※)」と言う言葉、富士山の標高が高い所為で早く陽が暮れてしまう地域の為に呼ばれ始めたと資料に残っています。また上暮地と下暮地の上下の判断は南北ではなくてどちらが富士山に近いかが重要視されています、つまりより富士山に近い暮地を「上暮地」、遠い方の暮地を「下暮地」とした様です。
「倉見」に関しては元々「暮見」と書かれていた様で富士山を背に朝はなかなか陽が当たらず、またその逆に日の入りまでは最後まで陽が当たる事で「暮れるまで陽が見れる地域」が転じて暮見となり、現在の「倉見」となったのだとか。
注意点
※ この「暮地」が県外の観光客などに「墓地」と誤読される事が多かった為、最寄り駅の名前を「暮地駅」から「寿駅」に変更したと言う有名な逸話も。
GPSで確認すると少しづつ標高を上げている様子、そう言えば先程から廃道の様相が強くなってきた。この間々自然に還って行くのかと感慨深く歩いていたのだが。
カーブを抜けると突然の人工物が目に入る、来訪した時期が良かったのか山側から流れ出でた土砂上に雑草が生えていて実に美しい。
これは既述した通り、この先に在ると思われるダムの建設に使用された作業道の名残。ガードレールも途切れ途切れではあるけれどまだシッカリとしていた。
更に歩くと突然砂防ダムが姿を現す、これが1988年に完成した「数見川砂防ダム」だ。規模はとても小さな物で精々流れの緩やかな川を隔てる程度ではあるけれどこの為だけにアスファルトとガードレールを整備した「納得出来る理由」が是非とも知りたいところ。
どう考えてもこの場所に砂防ダムは必要ないのだ。
現地へ到着してもどうしてもこのダムの必要性に疑問が残った、なので少々実地見分をしてみようと思う。
流れは殆どなく、淀んだ状態で川は滞留していた。
川幅こそそれなりあるものの、水深は浅くて両岸の状態を見るに水位が上がった形跡もない。つまりは気象状況に左右される程の流れが無い事を示していた。
中島(川中央に堆積した土砂)に生えた樹木もそこそこ生長しており、堰き止め時に上流側の水位が著しく変化するとも言えない。
つまり、もし石碑が近くに在るならばこの場所の災害に関する地鎮碑などではないと言える。災害ではなくて場所と関連性があるのか、それとも旧道としての参道(宗教的意味)利用されていたのかなども考慮して石碑を詳しく調べたいと思う。
もし本当にその石碑が在るのならばこの先、あと100mも歩けば見付かる筈だ。
石碑らしきものの形跡なし
それらしい雰囲気になってきた、道が少し斜面側に広がって平地面積が増えてきたのだ。もし石碑を建てるなら、この辺だ。
と、勇んで探すものの石碑は発見できない。
そうこうしている内に本格的な山道に突入してしまう、GPSで確認すると既に石碑が在るだろう想定地より進んでしまっていた。ゲート脇の看板の画像をデジカメで確認するとどうやらこの丸太橋の先に「一崖滝」が在る様だ。
注意点
※ 2014年にステンレス製の橋になりました
※ 同年より滝のアプローチルートの整備が開始されています
落水の音に導かれて無事「一崖滝」に到着、机上調査では2000年初頭までは「一階滝」と呼ばれており、「崖」と「階」のどちらが正しい表記なのかは判明しませんでした(※)。
少なくとも現在(2010年当事)は一崖滝と呼称。
注意点
※ 崖の場合は「がい」、階の場合は「かい」と発音した様です。
また滝は山岳信仰の信仰対象となる事が多いのでこの滝自体にその様な過去があるのか調べてみました、が残念事にその様な史実はありませんでした。
結局、この日「石碑」を見つける事は叶わず。
この先はレポート内でも書きましたが三崖滝を過ぎてガレ場を抜けるとピークに合流します、そのピークから霜山への登山ルートになるので現在でも人の往来は極々少ないですが有ります。
この登山ルートが参道だったという言い伝えも資料も今の所発見出来ておらず、下暮地からは三ッ峠山への登山道と混同したり上暮地の石碑と勘違いされる「達磨石」などもあります。しかし、その周辺地域の言い伝え(※)などとは関連性は無いと言えます。
注意点
※ 八十八大師・三十三観音など
実は切迫した課題もあります、この上暮地を擁する吉田市はどうやらこの一帯を観光地化したい考えの様なのです。ネット上にそれと解るPDFを発見したので参考までに。
これらの構想もあって滝へのアプローチルートが整備されているとも考えられます、自然資産は沢山在っても人を呼び込む目玉が無いのであれば結局は富士山の副産物でしかないわけで。しかしこの上暮地に不要なまでの人々の目が向けれれてしまえば大規模な整備が行われても不思議ではありません。
早急に追跡調査を行いたいと思います。
…と、ここまでが2010年に旧サイトで公開したレポート内容だ。4年後の情報、更に4年の月日が流れた2018年の再訪。
石碑は本当にあるのか、本編はここからです。
8年振りの来訪、大きく変化した地形
「上暮地の石碑での記事を見たのですが、初めの大きいダムの少し先に石碑があるのに…滝まで行ってしまったのですね」
この情報を得てから既に4年、最初の来訪から合計8年も経過しての再訪。害獣侵入防止ゲートからの先、大きな景観の変化はないものの
・植林地帯の伐採痕
・作業道路の整備(新しい砂利)
・廃墟の撤去
・木製の橋から鉄製の頑丈な橋に架け替え
などが見てとれました。これらの整備、行政予算に盛り込まれての改善策のようですがどうしてこの場所に予算が割り当てあれているのか、どのような根拠で植林と伐採を繰り返しているのかを吉田市に問い合わせ中です。
注意点
吉田市役所の職員からの回答は得られていますが詳細な資料をお願いしているので掲載までは幾ばくかお時間が掛かりそうです
数見川砂防ダム過ぎ、情報通りダムの少し先から調査開始。しかしどうも周囲の様子が以前と違う、どうやら大規模な土砂崩れが発生したようで左側斜面は大きく抉れてしまっています。
写真の場所は以前、藪に覆われて太い木々も鬱蒼としていたのですが現在は保安林の看板もろとも崩れ落ちています。
少し進んでみると状況は更に酷い、土は全て流されて岩肌露出しています。そしてこの岩場が非常に脆く、上部の調査は危険と判断。
可能な限り見える範囲でそれらしき痕跡を探します。
もし石碑があったのなら斜面、もしくは強く流れが及ばない川のへり部分に破片などが残されていないかも合わせて調査。
文字が描かれた破片なども2時間近く探しましたが発見できず。
旧作業道沿いの斜面も探しましたが手掛かりは得られませんでした、吉田市でも石碑の存在は把握しておらず、一、二、三崖滝保存会へのブリッジ対応をお願いしたところ「現在は活動してない」との回答でした。
注意点
台風被害の写真は更に翌年、2019年に再々訪した時のものです。
時間に余裕があったので砂防ダム手前の植林地も調査、こちらでも土砂崩れが発生していました。地元の方に聞き取り調査をすると2019年の連続台風で一帯の地盤が緩み土砂崩れが頻発したそうです。
進路図からも判る通り、とくに19号の被害が甚大だったようです。
何の為の石碑だったのか
現地では結局石碑を発見できず、ここからは富士吉田市教育委員会歴史文化課(ふじさんミュージアム)の課長補佐(学芸員)、Sさんから頂いた情報を基に推測してみたいと思います。
まず石碑があったとして、その意味は何なのか。
この場所は旧農耕地として使用された過去はあっても農村などがあったという記録はなく、また近代においても納税記録があるような居住実態はありません。
注意点
江戸時代に棚田があったことは確認されています
書籍などで江戸時代までは辿る事はできましたが、その中でも集落が形成されたとの記載は発見できませんでした。どうやらその時代には峠越えの山道として利用されていたようです。
数見川流域~源流に至る登山道、一、二、三崖滝を巡る為に通過する過酷な急登攀の道ですが峠越えの山道と判れば納得のロケーション。現在では林道西川新倉線、林道白滝線などがありますが上暮地から河口湖の北側へ抜ける為のショートカットだったのでしょう。
だとすれば。
石碑の正体は道祖神、峠の神とも称されますが砂防ダム付近ということは場所的に集落の村境におかれたと思われます。山と集落の狭間に置かれた道祖神、「どう見ても日本語じゃない正体不明の石碑がある」とのスレ主の言葉はどう解釈すれば良いかの問題は残りますが。
どちらにせよ、件の石碑が見つからない現状ではこれ以上の調査の進捗は見込めません。
最後に調査の舞台となった上暮地、この地名の由来をご紹介します。
この一帯は「暮地」と呼ばれ、南側が上暮地で北側が下暮地。普通に考えれば真逆な気もしますがそのヒントは「暮地」という字面自体にありました。
西側に日本最高峰の富士山という立地、つまり陽が傾くとより富士山に近い南側が先に暗くなるということで上暮地、本来なら逆の筈の北側が遅く暮れるので下暮地というわけです。
他にもこの暮地に関する歴史的エピソードが多々あり、非常に興味深い土地です。今後、新しい情報が判り次第追記したいと思います。
参考・協力
富士吉田市教育委員会歴史文化課
ふじさんミュージアム
富士吉田市立図書館
寿町自治会
富士吉田の昔話・伝説・民話/富士吉田市郷土館編集
上暮地について/甲斐国志・富士山北口を往く
富士吉田市歴史民俗博物館
山梨日日新聞
富士吉田警察署
ふじさんミュージアム
富士吉田市立図書館
寿町自治会
富士吉田の昔話・伝説・民話/富士吉田市郷土館編集
上暮地について/甲斐国志・富士山北口を往く
富士吉田市歴史民俗博物館
山梨日日新聞
富士吉田警察署
レポートの場所
注意点
該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。
注意点
該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。
スゴログの装備とその使用方法など
https://www.sugolog.jp/p/blog-page.html
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