長年放置された山奥の廃橋、崩落したその姿は余りのインパクトで見る者を驚かせていましたが歴史を掘り下げると世情と行政、そして民間企業の杜撰な開発計画が。そして崩落後人が入らなくなった開発地を目指して入山、その形跡を辿ります。小さな造成痕から現在の姿を調査しました。
静岡県│赤沢八幡野連絡橋
調査:2011年05月
再訪:2012年07月
公開:2012年07月14日
更新:2024年03月10日に追記情報 / 最後尾参照
名称:正式名称→渡辺橋(赤沢八幡野連絡橋) / 通称→未完成ループ橋
状態:長期間放置
旧サイトで複数回に分けて公開していたレポート内容を2022年現在の調査内容に統合して再エントリーしました。また古くなった情報などは精査して削除しております。
別荘地に残る巨大な廃橋
2000年代に入ってから伊豆に未完成の廃橋があるとネット上で話題になりました、中でもB級スポットハンターとして名声のあった荒川聡子氏が取り上げたことでも知られる存在となった件の廃橋。
赤沢八幡野の別荘地帯に今も残る赤沢八幡野連絡橋です。
注意点
荒川聡子氏のウェブサイト「動物園・B級スポット大好き! 〜ARAKAWA'S HOMEPAGE〜」で公開された当時(07年04月01日公開)は「伊東市浮山の廃ループ橋」として紹介されていました、氏の活動の場は複数の二輪雑誌やワンダーJAPANなど幅広いものでした。
荒川聡子 - ウィキペディア
場所は住宅街と別荘地を抜ける裏道ですが意外と交通量は多く、地元の方々にはよく知られた遺構でした。
まだこの廃橋があまり知られていない当時のネット上では諸説語られており、
・建設途中で放棄された
・地震で一部が崩れその間々放棄された
・渋滞緩和の為に製作されたが計画が変更されて放棄された
などなどどもれがその理由でおかしくないものばかり。どちらにせよこれだけ大規模な建造物が長い間放置されているには理由がある筈、今回のスゴログはその歴史を紐解いていきたいと思います。
現地に到着して最初に目にする生々しい崩落現場、伊東市では1993年に現地での状況調査で崩落を確認したと記録にありますが実際の崩落はもう少し以前のようだ。
実際に廃橋を歩くと敷設段階で弱い岩盤の、しかも斜面に建設したことと強度設定が実際の環境に適していなかったなど複数の要因で不規則な湾曲状態。歪みは酷く、歩くと重心が左右バラバラに感じられる。
また揺れが非常に大きく、人が走るとグラグラと振動します。
崩落地点から俯瞰するとその歪み具合がよく判ります。
上部の接続部分、現在と大きな違いはない施工方法です。海外に比べ国内の長い橋梁には多めにこの継ぎ目が設定されており、これは耐震性と実際の揺れを逃がす役目も担っています。高速道路なども類似する工法で一般道でも橋梁部分にはよく見られます。
主柱や鉄骨部分は錆が進行しているものの見た目はまだ使用に耐えそう、ただ根本的な強度が足りていないので補修などによる再利用は見込めません。再度この地域を開発するには同じく再び新たな迂回橋が必要になることでしょう。
崩落と共に落下した分電盤、そして主柱に掲示された業者告知ボード。どちらにも池田建設と書かれています、住所検索(東京都港区赤坂4丁目9-24)すると現在は「ホテルモントレ赤坂」が表示されます。
ホテルモントレ赤坂
このホテルは2007年04月03日開業とウェブサイトにあります、それ以前の当該地での歴史を掘り起こせなかったのですが池田建設自体はまだ存在しています。
断定はできませんが
こちらの沿革に
「1971年11月 港区赤坂に本社ビルを新築、移転」
とあります。主柱に掲示された住所とほぼ一致すること、工事時期が丁度その後になることなどから間違いないと思われます。
取材の為にご連絡しましたが回答は残念ながら頂けませんでした。
こちらは水中ポンプ室、トンネル工事などでもよく見られますが山中での工事は湧水、地中含有水、工事排水など様々な水対策が行われています。
この排水システムが故障、停止すると工事の工期に重大な欠損時間が発生するために管理は重要です。
現状は何もありませんが工事が行われていた当時は操作盤のほかにポンプモーターやタンク、排水に関する設備が設置されていました。
未完成ではく開通した後に廃橋となった
崩落の先端から本来接続されていた山間部を望みます。右下に落下している部分が本来こちら側と接続されていおり、立てかかっている方が山中へのびる道路と繋がっていました。つまりこちら側から崩落したことになります、直線部分で一番安定しているように思えるこの箇所での崩落。
実はこの橋を構築する上で一番長い直線部分の丁度半分で折れています、一番強度を要する直下の主柱は他の主柱と同じ太さなので必然的にこの場所が崩落したのだと理解できます。
それでは接続部分から主柱を支える主桁上部から下部へ降ります、この接続部分(伸縮装置)の強度不足で崩落したので何かしらの爪痕が確認できるかと考えたからです。
橋の構造については以下を参考にどうぞ。
橋の基礎知識 - 草野作工株式会社
ペツル(PETZL)
橋脚部分はまだシッカリしていますが左右の鉄板が捻じ切れたように歪んでいます、基礎部分が振動で少しづつズレて歪み、支承が破損。伸縮幅が限界を超えて接続部分から崩落したようです。
接続側の検証は一旦終え、山中へのびる道路が気になります。
恐ろしいほどの斜度、登攀器具を使用して最上部まで登りましたが山中側とは接しておらず、雑木に視界を遮られてどのようになっているか確認はできませんでした。
ロープ回収を前提とする登攀では50メートルが必須になります、ノーロープでは不可能でした。
ブランド: BEAL(ベアール)
注意点
類似の行為をする奇特な方はいないと思いますがロープとグリグリなどのアッセンダー&ディッセンダーは必要になります
運用当時はこのようなイメージで橋と道路が接続していたのでしょう、渡り切った場所から間もなく回り込むように左へ旋回していきます。
さて、この大崩落して一躍有名になったこの廃橋。ネット上をザワつかせた2000年代には「未完成ループ橋」として紹介されることが殆どでした。それというのもこの道路を走ったことがあるという証言がなかなかえられなかったからです、現地の方でも工事関係者以外でこの橋を走ったことがあるのは極少数と思われ近年のSNSでの証言までは未完成とされていたようです。
赤沢八幡野連絡橋
この名称、ネット上の初出は2011年6月に公開したスゴログのレポートでした。これは地元伊東市の基礎工事業者からのヒアリングで判明したものでこの廃橋が設置された更に奥地へ至る開発予定地への工事車両専用道路として敷設されました、その後一時期一般通行も行われましたが間もなく閉鎖されます。
1962年の航空写真には中央に平地が見てとれますがこの場所がループ橋の場所です、その北側には棚田がありますが開発予定は元々は農地で山間部の限られた平地を利用した古い畑や田んぼが小規模散見しています。
本来この農地へのルートは西側から回り込む作業道と東側から回り込む獣道の2本でした。
1969年の航空写真で判ることは西側農地は辛うじて管理されていますが北側の多くの農地が休耕しているということ、つまりは土地が遊びだしたのです。
日本は高度成長期真っ只中ということもあり、原野商法での投資目的土地売買も盛んでしたがこの地は別荘地として名を馳せ始めていたので地元不動産業者が山間部の平地を購入し始めました。
目的は別荘地開発の為の予定地確保、西側の赤沢地区では既に別荘地開発が開始されていており、その地域を拡張しようと考えたのでした。
1976年の航空写真、既にループ橋が完成しています。
注意点
ウェブ上には1976年に完成などとデタラメを記載しているサイトやレポートが多く見られますが竣工は1974年(着工1972~完成1974)です。この橋を架ける為に作業道が1972年に完成しているので連絡道としては1972年の完成、橋梁としては1974年の完成となります。
1972年に県内の不動産業者がこの地域の開発権を取得、A区画・B区画・C区画・D区画と4つのエリアに分割した同時開発が開始。それぞれのインフラ整備の為に整地工事が始まります、しかし元々のアクセスルート主だって西側の赤沢地区別荘地を通過するものだったので既に居住している住民や別荘購入者が反対運動を起こします。
工事当初できたばかりの小奇麗な別荘地を大型工事車両が何台も通過、騒音と共に土砂を道路に巻き散らかす様子をみていち早く行動にでたのでしょう。
開発の為のアクセスルートを確保するための対策として設置された迂回路、それがこのループ橋「赤沢八幡野連絡橋」なのです。
① 当初の開発予定区画(A区画)
開発区画の把握の為、最初に整備が開始された場所。
② 当初の開発予定区画(B区画)
開発が容易な場所に計画された区画、道路の整備は比較的初期にされました。しかし斜面の傾斜が大きかった所為で土地整備は最終的に一番おそくなりました。
③ 当初の開発予定区画(C区画)
赤沢別荘地の通行路、崩落したループ橋共に一番遠い場所に位置する開発区画。しかし区画整備は当初より進められ、拡大写真で確認すると一番最初に工事関係者用のプレハブ2棟設置された場所。
④ 計画見直しによって新に加わった区画(D区画)
この開発エリアで一番広い平地、元々は緩やかな棚田だった場所。南側からのアクセスも容易だったが河川の水が流れ込む開発には手を焼いた場所でもあります。元々農地に利用されていただけあって水の取り入れがよい事が開発には痛手となったようです。
⑤ 工事関係のプレハブなどが設置される予定だった場所
この場所は工事関係者用のプレハブが数棟建設予定だった、また別荘地が完成した後は不動産業者の管理棟を建設する予定だった様だが結局どれも設置される事は無かった。
注意点
小型のプレハブは設置されたそうです
別荘地開発
国内で山間部の開発が目立つようになった1970年代、リゾートやゴルフ場建設で伊豆半島も開発の波にのり、半島のあちらこちらで開発がはじまります。そしてこの八幡野山中の別荘地開発も1972年に企画立案され1973年に開始することになりました。
時をほぼ同じくして1974年、山間部の土地開発に関する法律が改正されました。森林法改正の際に山間部における開発事業の法律を新たに設置、それが「林地開発許可制度」です。大規模土地開発事業が活発に成るにつれて法改正や細かな条約文などの見直しが国に求められるように成ってきた時期、実はこれがこの「八幡野別荘地開発」に影を落としはじめ、その後の開発中止のトリガーになるのは既に開発工事がはじまってからの話。
開発許可制度 - ウィキペディア
林地開発許可制度 - ウィキペディア
直ぐ近くの赤沢別荘地を成功モデルとして隣接する山間部の開発に着手した県内の不動産会社だったが工事車両の通行を赤沢別荘地の住人に反対される、そこで八幡野の私道から山間部へ抜ける仮説橋を立案。これが件の「赤沢八幡野連絡橋」です。しかしこの立案時期が記述の法改正の前だった事や事業拡大の為の資金不足、工期の短縮から当時の橋梁整備手順を踏んで居なかったのではいかと地元建築業者(現存する伊東市の建築会社)の一部は指摘しています。
この指摘が事実ならば違法な建築基準不足の橋を設置したことになります、この指摘は当時からあったものの随分と後に周知するに至ります、勿論当時この橋の建設に関わった建設業者も知る所ではない。開発が中止され、1993年前後と予想される崩落当時においても薄広な情報だったようです。結果、その崩落当時に所有していた不動産業者がこの場所を放置していたのもこのような理由があった為で行政に知られる訳にはいかなかったのでしょう。
1978年、事業拡大に失敗した参入業者が立て続けに倒産。不動産業者も負債を抱えて抱き込み倒産したことで事業としての別荘地開発は中断します、この時期からしばらくこのループ橋からB区画までが放置されており一般車両が通行できたようです。
実際はD区画まで行けたそうですが通行記録などが残っていない為、詳細は不明です。1980年代に申し訳程度の通行止め措置が取られ、その後は既にご存知の通りの崩落を迎えます。
この橋はいつ崩落したのか
この廃橋が有名になったのは現状のインパクト、その見た目です。この崩落は一体いつあったのでしょうか。
調査当時の噂では伊豆半島沖地震で倒壊したと聞き及びましたが既に航空写真で確認できるように1976年時で現存していました。
この地域の主な災害地震は
・1974年 - 伊豆半島沖地震
・1976年 - 河津地震
・1978年 - 伊豆大島近海地震
とこの迂回路となるループ橋が現役当時と重複します、つまり地震は直接の原因でもないし時期も合わないことになります。
1989年の航空写真においてもまだ現在しているので伊東市が確認した1993年までの4年間のどこかで自壊したのだと思われますがその詳細は判明していません。
赤沢地区の住民が1993年のいつ頃だったか、夜間にとても大きな崩落音が聞こえたと証言していることから崩落後まもなく行政の現地調査が入ったのだと思われます。

崩落に関係しているとされた後の1978年の航空写真、しっかりとその姿を確認できる。
注意点
ロールオーバーで画像を切り替えて下さい(PC閲覧時のみ)
すっかり自然に飲み込まれてしまったループ橋から先の開発予定地、簡易敷設された砂利道ももう確認できない。
最近の状況を確認ドローン映像がYOUTUBEにあったのでリンクします。
崩落した廃橋の先はどうなっているのか

注意点
ロールオーバーで画像を切り替えて下さい(PC閲覧時のみ)
国土地理院の地図で確認すると開発予定地に延びるアクセスルートが描かれている、勿論既に自然に還ってしまっているのは承知ですが実際に歩いて見てみたいという好奇心に勝てずにGPS片手に入山。
予想通りの状態ではありましたが所々に人の介入を感じさせる痕跡を発見できたのでご紹介したいと思います。
東側ルート(旧農地までの獣道)は1980年代に埋没している、現在でも旧道入口は残っているが史跡・源頼朝の馬蹄石の裏手から細く伸びる枝道はすぐに雑木林に飲み込まれてしまう。もう一つの枝道は埋没後の砂防ダム造成時に完全に消失、山中のピークに出てやっと獣道が顔出す様相。
なので今回は西側の赤沢別荘地北部からアプローチ、まずはC区画とA区画の確認をと思ったが既に開発予定地の形跡はなくただの山中の風景。
GPSを頼りに道路だったと思われる場所まできた、辛うじて掘削痕が見て取れ掘割のような細い道筋が確認できる。
左右には古い石垣も、これは農地時代のもだろう。
コールマン
道と思われる場所は樹齢年齢の低い植物ばかりで左右は比較的大きな樹木、これは人工的な道路設備の形跡です。
分岐点、石垣を崩した形跡も。
手前と奥で段差がありますが撮影場所辺りから道が二手に分かれています。と言うことは斜面下側がD区画だった場所だろうか、確かに平地が広がってはいるが自然の森のようにみえてしまう。
周囲と比べてD区画は樹木が薄いか細い木が多いと思い込んでいたが自然の力は絶大で既に平地だったと想像できない。
道なりにあるくとGPSは赤沢別荘へと方角をさした、この辺りは開発予定地ではなく赤沢別荘からの工事車両搬入路として使用された道路跡。
工事反対運動発祥の地で後のループ橋設置の元凶のような存在です。
奥に石垣が見えますが周辺は道の姿はなく、完全に山中で迷子といった様相です。写真でみるよりはるかに暗く、そろそろ帰路を確保しなければなりません。
その前に確実な造成跡を発見したいところですが。
B区画まで南下してきました、ここから東に移動すればループ橋の崩落地(レポート前半の対岸側)へ出ることになりますが完全に道筋が消えており、斜面もかなりあるのでこれ以上は断念。どうやら度重なる土砂崩れなどで地形が国土地理院と一致しない様子、元々ここからループ橋へは等高線が集中している谷間を歩くことになるので危険と判断。
引き返そうと思った時でした、進行方向(南に向いて)左側斜面に人工物を発見。当初排水パイプかと思いましたが電線でした、それも極太の集合線です。明らかに大きな電力を通す為のもの、方向的にはプレハブ建設予定地(ループ橋付近)からA区画に延びています。
好奇心に駆られもう少し斜面を下ろうと思って間もなく。
鳥肌が立つほどの人口造成痕、トラックが通行できる掘割を発見。
なるほど、この状態の工事道路をトラックが走行したらさぞタイヤには泥が付着したことだろう。その泥をまき散らしながら閑静な別荘地を走行されたら住民の反対運動も納得がいきます。
この反対運動、あくまで現地住民のてによって主導され行政は介入していない。工事の許可を出した伊東市がその工事内容にクレームを入れる道理はないので仕方ないといえばそうだが住民や別荘地関係者はさぞ迷惑しただろうと想像に難しくない。
残念ながらこの掘割の先端から落ち込んでおり、やはりこの先への踏破は諦めざるを得なかった。
最後の最後で排水チューブなど整備の残骸はあちこちに散見できたが可能であれば崩落場所の対岸からループ橋を眺めていたかったのが何よりの心残りです。
帰路の途中、新しい伐採痕を発見。C区画付近の道筋はまだはっきりと確認できるので人の出入りがあるのでしょう。
2024年03月 追記更新
当サイトをご覧頂いた方から大変貴重な情報提供がありました、スゴログでも情報元を確認し信憑性も高いことから追記したいと思います。
2024年02月にツイッターのDM経由でこの廃橋に関して新しい情報が齎されました、2007年に荒川聡子氏が世に公開してから17年目の新情報です。
その驚くべき内容は「橋の銘板が発見され、そこにはこの橋の名称が刻まれている」という情報でした。スゴログが調査した限りではありますが建設予定時に別荘開拓予定計画書に記載されている名称は「赤沢八幡野連絡橋」で間違いありません(当時のヒアリング時に確認)。しかし今回の新情報で明るみになった橋の名称は「渡辺橋」、全く違う名前です。
注意点
この橋の銘板の写真を探しています、撮影された方がいらっしゃいましたら是非ご一報ください。当方に提供された写真がやや遠方からの撮影の為、提供者を探しています。
↓ ↓ ↓
公開後数分で銘板を撮影した写真を読者様からご提供頂きました、有難うございました。
この渡辺橋の真相を探るべく、まずは中部地方整備局へ問い合わせましたが国道では無い為に詳細は判らず。次に県の道路整備課に問い合わせるとこちらも県道ではないので判らないとの返答、つまりこの別荘開拓地へ向かう道路は私道なのです。
国道の場合、橋の名称設定方法には慣例があり
・橋を架ける場所の地域名から
・地域のランドマークを参考に
などが挙げられます。また地域住民からの名称を募る場合もあるのだとか、そしてこの調査過程で判明した事は開発の企画段階と竣工時では仮称や本名称のように名称が変わる場合があること、そして運用後においても何らかの事情で橋の名称が変えられる場合が暫し存在するということでした。
で、あるならば。
当初の段階では「赤沢八幡野連絡橋」であったが運用開始後は「渡辺橋」として銘板が設置されたとすればどうでしょうか。
だとすればこの渡辺橋の「渡辺」はどこからきたのかが疑問です。付近の地名に渡辺とつく地名はありません、また渡辺に由来するランドマークも存在しません。記述の慣例に属さない私道の名称となるとその由来を探るのは容易ではありません。
今回の新情報から運用時の名称が明るみになりましたがその由来を今後は調査することになりそうです、この件に関して何か情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら是非スゴログへご一報願います。
情報提供者 中谷寿敏 様

参考・協力
伊東市
東伊豆町図書館
伊東市立伊東図書館
城ヶ崎文化資料館
赤沢別荘地区
八幡野地区
八幡宮来宮神社
赤沢稲荷神社
赤沢温泉ホテル
赤沢迎賓館
静岡新聞
伊豆新聞
レポートの場所
注意点
該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。
注意点
該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。
スゴログの装備とその使用方法など
https://www.sugolog.jp/p/blog-page.html
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