2024-04-24T06:40:35Z #046 御嶽教大山祇教社

#046 御嶽教大山祇教社

震災の年から追い続けた通称、大山祇神社。旧サイトでも度々取り上げ、それがキッカケとなり沢山の人に知って頂くに至りましたが2021年、遂に完全崩落。約10年間に及んだ経過観察も終え、新たな聞き取り証言やそれらの整合性を確実にするために再調査。可能な限りの歴史を掘り下げ、より正確な史実をレポートします。

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

千葉県│大山祇神社

調査:2011年07月 / 2012年05月
再訪:2012年01月 / 2012年05月 / 2013年04月 / 2015年05月
公開:2011年12月30日(再調査後2015年05月に再掲載)
名称:正式名称→神道教派 御嶽滑山大山祇教会(御嶽教大山祇教社)
状態:2021年に崩落確認

旧サイトで複数回に分けて公開していたレポート内容を2022年現在の調査内容に統合して再エントリーしました。また古くなった情報などは精査して削除しております。


登山口に残る神社の廃墟

人里離れた今は殆ど人が入ることのなくなった登山道入口、その少し手前にもう直ぐ歴史に幕を降ろそうとしている倒壊寸前の廃神社があります。最初のレポート公開時となる2011年当時、この廃神社の情報はざっと調べる限りネット上に1件のみ。

房総の日々 - 太平洋を望む滑山へ

スゴログもたまたまこの方のブログで興味を持ち、幾ばくかの事前調査を済ませてからの半年後(2011年07月)に現地へ赴きました。天津神明宮脇の側道(林道天津線)を北上すること10分程、道路側からは確認できませんがGPS上では地図の場所にその廃神社はあります。

廃田跡に駐車して登山道へ向かいます、


スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

この登山道入口は東側に聳える滑山(ぬかりやま)へ登る為のものですが1990年代には余り使用されなくなっています、滑山ピークへは幾つかの、ルートがありますが帰路を考慮するとここからのスタートは最良の選択とはいえないことも要因の一つ。

※ ヌメヤマやヌメリヤマ・ナメリヤマとの表記も見ますが正しくはヌカリヤマ

注意点
滑山樣大山祇教会開祖之碑(石碑)付近からのルートもあります

滑山は外観こそモッサリとしていますが痩せ尾根なので一度ピークに出るとほぼ一本道、明瞭なルートで意外と歩き易いことでも知られています。

注意点
滑山への一般的なアプローチは天津神明宮から諾冉神社へ向かい、一度ピークにでるとあとはやせ細った尾根を歩くのが一般的なルート。

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

鬱蒼と茂る樹木に見え隠れする廃神社、ネットで見掛けた写真その間々に残っていました。これは雰囲気があります、周囲に家屋が全くなくて田畑も既に廃田が殆ど。人の気配を全く感じることはありませんが自然と人工物の見事な共演美に心が奪われます。

しかし足元はヤマビルだらけなので放心して油断すると直ぐに吸血されます。


スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

手水石(ちょうずいし)。

明治30年に奉納、蛇紋岩でつくられている。

(正面)
奉納

(右側)
維時明治卅年八月吉日

注意点
卅=さんじゅうと読む

天津小湊の歴史 - 天津小湊町史編さん委員会



スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

手水鉢ではなく埋没した井戸、自然に埋まったわけではなく意図的に土砂などで埋めたそう。廃神社になった後に信者の方々が安全対策として行ったと聞き取り、時期は不明。


スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

2011年07月の来訪時の廃神社、ネット上で発見した写真は震災前でしたが幾度の余震にも負けずに建ち続けていました。

さて、この廃神社。通称「大山祇神社」で知られています、神社の名称としては極々一般的な「大山祇」ではありますが事前調査の過程でなかなか数奇に運命を辿った神社であることが判りました。

注意点
オオヤマツミ=大山積(大山津見)神=和多志大神、山の神とされており山岳信仰の強い地域の山間部での神社の名称に多いようです。

オオヤマツミ - ウィキペディア

大山祇神社 - ウィキペディア

後程この大山積の解釈と広義で枝分かれした疑問点も明るみになります、流し読みでも構いませんので二つのウィキペディアの内容を記憶に留めておいて下さい。


複雑な合祀

廃墟美から興味を引いたこの神社、調べ始めると複雑な経緯でこの地に在ったことが判りました。まずは簡単な時系列を。

建設年不明 神道教派 御嶽滑山大山祇教会として開社

1894年 大山祇大神と御嶽大神を合祀し、御嶽滑山巴教会所と改称
1940年 御嶽教滑山大山祇教会と改称
1957年 教主逝去
1958年 火災により崩落
1959年 現在の場所に移転

※ 1980年代に後継人がいないことで廃社同然に

注意点
1940年代から大山祇神社と呼称されるようになりました

来訪時から換算すれば100年以上この地に神社が存在していたことに、それだけ歴史があれば行政資料にも何か裏付け資料が残っているだろうと思い鴨川市の教育委員会生涯学習課文化振興室へ調査協力の打診をすると快諾して頂けました。

送付して頂いた資料のコピーと鴨川市郷土資料館でのヒアリングで事前調査した内容と照らし合せて整合性を高めていきます。

スゴログとして解き明かしたいのは

① 開社時期とその後の歴史
② 主要地(据地及神道理念)が異なる御祭神を合祀の理由
③ 参拝客の痕跡
④ 数々の残留物
⑤ 現在の管理状態

の5点、これらを推測も交えて説明していきたいと思います。

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

正面入口から直ぐ右側と正面奥それぞれに祭壇があります、これは合祀されたそれぞれの宗派の祭壇で右側が地元の山岳信仰となる滑山大明神(信仰対象は滑山)、つまり大山積神です。この祭壇だけではどちらがどの神様を祀っているか判りませんでしたが答えは正面祭壇の中にありました。

左側の押し入れは寝具と祭事用具が無造作に収められていた。


スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

こちらが御嶽教の祭壇、この祭壇に御嶽教と書かれた祭事用具が幾つか並んでいました。崩落が進み、近年では大山祇の祭壇が崩れ祭事用具も合祀という言葉同様に正面の祭壇に祀られました。



一般的な書籍、入手できる範囲での文献でこの大山祇大神の名称が記されたのが1894年。「大山祇大神と御嶽大神を合祀し、御嶽滑山巴教会所と改称」との記述です。

この二つの宗派、何故合祀へと至ったのでしょうか。

この地には更に古くから天津神明宮が房州伊勢の宮として1184年には存在しています、場所は以下地図を参照。


距離にして2キロ弱、この天津神明宮との関係性もなかなか難しい。天津神明宮には七柱の神様が祀られていますがその中に大山祇大神も含まれます。

しかし天津神明宮の大山祇大神と今回の大山祇神社の大山祇大神は名は同じにしてそのご神体は別、大山祇神社の大山祇大神は地元の山岳信仰である滑山=滑山大明神なのです。

更に1958年の廃社後に天津神明宮の関係者がこの大山祇神社より大山祇の祭事具である太鼓を持ち出したとの情報も。それが事実なら何故そのような事をしたのか、それらも含めて①~⑤の疑問点と共にご説明しましょう。

① 開社時期とその後の歴史

行政からの提供資料と複数の文献から考察すると、

1200年代 地霊や地神の鎮座の為の山岳信仰を開始
1700年代 滑山を滑山大明神として山岳信仰の信仰対象を明確化
1700年代 滑山大明神と大山祇神を併祀
1800年代 大山祇神社を開社
1868年… 神仏分離の影響により滑山大明神と大山祇神を別祀
1872年… 滑山教会所を設置
1880年代 藤井家土地分配、天津神明宮が大山祇神社付近を取得
1889年… 滑山教会所廃止
1894年… 金高家が滑山教会所跡に御嶽教滑山巴教会所を設置
1905年… 初代教主の金高重五郎が逝去
1905年… 二代目教主に金高たき
1908年… 山祗社(大山積神)が天津神明宮へ合祀(※1
1940年… 御嶽教滑山大山祇教会と改称
1957年… 二代目教主の金高たきが逝去
1957年… 三代目教主に金高照次
1958年… 御嶽教滑山大山祇教会が一部火災の為取り壊し(※2
1959年… 現在の場所に移転
1970年… 房州滑山御嶽教・滑山様大山祇教會開祖之碑を建立
1980年代 三代目教主の金高照次が逝去
1980年~ 後継人が居ない為に廃墟化

※1) この時点で「神社」としての機能は終焉し教会として存続
※2) 現在でも旧社殿跡は確認出来、房州滑山御嶽教・滑山様大山祇教會開祖之碑が残る

この地域の山岳信仰としては1200年代から神道に付随する文化があったことが判ります、しかし滑山を信仰対象とした具体的な宗教形態は恐らく1700年代に入った頃。

この時期に滑山大明神として滑山の何処か、もしくは麓に社が置かれたことでしょう。しかし地元には天津神明宮があり、主神七柱には同じ山の神である大山祇神がいた。同じ山の神として併祀し、等しく信仰したものと思われます。

地域の聞き取りをする限りでは大きな祭事は昔から天津神明宮で行い、地域振興として祈りを捧げたのは滑山であったと。つまり地元では天津神明宮の神様は「七柱=天津神明宮」単一として認識しており、古来からの宗派に囚われない自然信仰(山岳信仰)としては滑山大明神(滑山)であったのだと考えられます。

であるならば開社時期は年表の通り、詳細は不明なものの1800年代の「大山祇神社を開社」が相当するのでしょう。それでは神道由来の山岳信仰から態々大山積神を別祀した理由とはなんだったのでしょうか。

江戸時代後期よりこの地は藤井家が山岳地帯を含めた大地主として広大な土地を所有しており、農耕を主として産業を発展させてきた歴史があります。この藤井家、山を切り開くにあたり地鎮の為に大山積神を迎えます。

滑山大明神の怒りをかわないように同じ山の神を産業発展の為の説得者として大山積神にお願いしたような関係ですね。

注意点
この藤井家も本家と分家で宗派分裂しているのでその経緯もやはり複雑です、後程詳しく説明します。

もう少し掘り下げましょう。

この地を広く開拓していた藤井家、古くから山岳信仰として滑山をご神体とする滑山大明神を信仰対象としていました。先ほど説明した通り、この地には大山祇神を擁する天津神明宮がありましたがその大山祇神をも併祀していました。

この頃は社というより神道でよく使われる祠のような小規模なものだったと記録にあります、仮身として滑山から出土した石を石碑として祀っていたとの記載も資料にありますがその石碑が確認された事実は残念な事に近代史にはありませんでした。

1868年、神仏分離令によって藤井家本家は引き続き大山祇神を信仰。分家は袂を分かち教派神道(滑山大明神)の「滑山教会所」を新設します。

神仏分離令 - ウィキペディア

しかし分家側の滑山教会所は1889年、21年間の布教に終止符を打ちます。主に加持祈祷を行ってきましたが小規模な滑山大明神と大手である大山祇神の宗派競争には勝てなかったよう。

加持祈祷 - ウィキペディア

この時点で本家の大山祇神は既存の祠などを使用していた為に大規模な社殿はありませんでしたが分家の滑山教会所は新設時に人が居住できるほどの建造物を用意していました。

場所はここです。


この地を訪れたことがある方はピンと来る筈、そうです。滑山様大山祇教會開祖之碑の石碑が建てられた場所です、元々はこの場所が社だったのです。

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

注意点
この石碑の更に奥が旧社殿(滑山教会所)でした、近くには蓮池だった窪地も。この石碑については2000年に天津小湊町より発行された「天津小湊の石造物」にも記載があります、この石碑の裏側には滑山教会所の沿革が記されていますが略歴なのがとても残念です。

(正面)
滑山 御嶽教 房州
滑山様大山祇教會開祖之碑

(裏面上段)
房州滑山様沿革
一、
房州滑山一円ノ地主デアッタ藤井家ハ代々大山祇社ヲ守護の神トシテ祀リ居リ分家ハ別ニ神道教派ニ依ル神道本局直轄ナル滑山教會ヲ加持祈祷ヲ施シ居リタルモ明治二十二年之ヲ廃シ小湊内浦ニ転任ス其後滑山周辺ニ変事起リ大衆之ニ不安ヲ生ズルニ至レリ
ニ、
明治二十七年金高重五郎ハ右教會所跡ニ御嶽教滑山巴教會所ヲ設ケ大山祇大神ノ神霊ヲ請ケ御嶽教大神ト合祀シテ専念大衆ノ安全ト幸福ヲ祈願シ神道教派ニ依ル加持祈祷等ヲ執行セリ其效ハ顕著ニシテ多クノ信徒ハ之ヲ尊敬スルニ至レリ
一般大衆ハ俗ニ之ヲ房州ノ滑山様ト称シ信服シテ居ル所デアル

三、
(裏面下段)

世話人
富川 実
金高利一
富川慶太郎

発起人
竹内武雄
武田英三郎
石坂善三郎

同意芳名
清水鉄五郎
木戸喜代一
松本知意子
池谷辰蔵
金高早苗
小宇佐瑛子
吉野金造
富川吉蔵
松本正一郎

小宇佐邦良
長谷川貞雄
松本喜一
松岡勇作
岩波まさ子
岩波三治
金高おり

基礎
浦辺浅治郎

石工
北浦辰吉
小畠奏石書

建碑発起昭和二十三年八月六日

注意点
この名簿の中で基礎を担当された浦辺浅治郎さんのみネット上に情報がありました、ご存命でも大分高齢だと思われますので取材は控えております。

廃社後から5年後の1894年、空き家となったこの社に一人の人物が越してきました。その人物がこの地で初の御嶽教布教者であり、初代「御嶽教滑山巴教会所」の教主だった金高重五郎です。

話を進める前に「① 開社時期とその後の歴史」の「開社時期」についてまとめましょう。

・大山祇神社を開社した1800年代(詳細不明)
・分家が新設した滑山教会所の1868年
・御嶽教滑山巴教会所を開社した1894年

この何れかになるだろうと思わます、スゴログとしては開社との言葉が見てとれる「大山祇神社」の1800年代を詳細不明ながら歴史のスタート地点としたいと考えます。

鴨川市郷土資料館でのヒアリングによれば当初、滑山大明神のご神体は山中の石だったとか。それを仮身として祠に祀ったのが1800年代のどこかだと。

※ 土着の山岳信仰故にその歴史は古く、情報の正確性に欠けるのはご容赦頂けると幸いです。

それではその後の歴史を少しづつ辿りましょう。

これまで分家に焦点を当て続けましたが本家はその間どうしていたのでしょうか、神仏分離令によって分家は新たに滑山教会所を設けましたが本家は従来の大山祇神を信仰し続けたと記録にあります。

時間を少し戻して1880年代、藤井家は本家と分家で宗派分裂しましたが本家は変わらず広大な土地を有していました。そんな中で天津神明宮から境外飛地として幾つかの土地の取得に関する打診が送られます、藤井家はこれを快諾。

これにより後の大山祇神社(現在の廃神社の土地)を含む滑山東側の土地を天津神明宮が取得しました、天津神明宮が何故その土地を選んだかは定かではありませんが同じ大山祇神が同地区に別々に存在している宗教的矛盾を解決すべく、大山祇神の一本化を狙った土地取得だったと考えられています。

本家の大山祇神信仰は藤井家の手を離れ、天津神明宮の直轄下に置かれたことで分家の1889年の教会廃止と共に古来から土着の山岳信仰とさた起源をもつ「大山祇神社」は一度歴史から消えてしまいます。

ここでやっと時間が戻ります。1894年、金高重五郎の登場です。


この地に新たな宗派、御嶽教。

次の疑問点であった「② 主要地(据地及神道理念)が異なる御祭神を合祀の理由」を紐解いていきましょう。

本家信仰の大山祇神は天津神明宮へ帰属
分家信仰の滑山大明神は消滅

元々は藤井家が大山祇神と滑山大明神をイコールの関係性としていた土着信仰が国の政策によって分離し、そして消滅したという流れです。

注意点
藤井家が大山祇神を併祀したのはこの地域の移民者に伊予国(愛媛県)の者がおり、大山祇神社の総本山が伊予国だったこともあって同じ山の神である大山祇神を迎えたのではないかとの考察もあります。

それから5年間、この地での宗教活動は天津神明宮が一元化に成功していましたが長野県から新たに御嶽教という新宗派と共に金高重五郎がやってきました。

当時、御嶽教は新しい宗派で少なくとも房総半島では殆ど知られていませんでした。教団設立は1882年、この地で藤井家分家が滑山教会所を廃する1889年のほんの数年前です。

御嶽教 - ウィキペディア

何故この地に新たな布教を行ったのか、それは定かではありません。しかし金高重五郎は熱心な御嶽教信者ではありましたがこの地域における土着の信仰自体には敬意を払っていたようです。

空き家となった滑山教会所に居を構えた金高一家、当初は控えめに自分たちだけで祈りを捧げる程度だったようですが元々加持祈祷で地元の信頼をある程度得ていた場所です。古来の滑山大明神を再度迎え入れると共に御嶽教の布教も同時に行うようになります。

1894年、金高家が滑山教会所跡に御嶽教滑山巴教会所を開派。金高家がこの地での活動を円滑に行う為に分派した大山祇神をも天津神明宮から神具や祭事具と共に仮身として迎えたことも良策でした。

藤井家によって分離した土着信仰が金高家もよって再度合祀され、御嶽教の下で再興されました。それから16年後、初代御嶽教滑山巴教会の教主であった金高重五郎は逝去。二代目に「金高たき」が着任します。

二代目となった金高たきは父親より更に御嶽教信者であったようで大山祇神を排斥する行動に出ます、1908年に折角父親が合祀した大山祇神を天津神明宮へ再度返してしまいました。

1940年、詳細は判りませんが突如協会の名称を「御嶽教滑山大山祇教会」と改めます。自ら排斥した大山祇神の名を取り入れた真意はどのようなものだったのか、しかし鴨川の山村から布教を始めた金高家でしたが御嶽教の信者は関東一円に広まっていました。

勿論、これは長野県の総本社の努力もありますが。

1957年、二代目の金高たきが逝去。三代目の金高照次が教主となります。翌年失火によって御嶽教滑山大山祇教会は取り壊しに、祖父の伝手を頼って天津神明宮の飛地であった現在の廃神社の場所へ移転します。

1959年、現在の場所に御嶽教滑山大山祇教会が再建築されました。約10年後の1970年、旧・御嶽教滑山大山祇教会だった場所に「滑山様大山祇教會開祖之碑」を設置。時を同じくして三代目の金高照次は30キロ離れた丸山町(現在の南房総市)に新たに居を構えます。

1980年代半ばまで自宅と教会を行き来する生活が続きましたが80年代の内に亡くなってしまいます、四代目の継承は残念ながら家族の辞退によって叶わず管理放棄されて現在に至ります。

信仰対象とその扱いに関してこれだけ目まぐるしく変化し、しかも当時の政治方針に左右された稀有な例ともいえる御嶽教滑山大山祇教会。三代目逝去の時点での主神は御嶽教三柱(御嶽大神)であったことは確かですが滑山大明神と大山祇神の扱いはどうであったのか、今となっては知る由もありません。


残留物から推測できるもの

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

④ 数々の残留物

この写真は正面入口脇の別室です、一見生活感があるように思われますが来客用に用意されたものです。勿論教主自らが宿泊することもあった筈ですが。

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

倒壊寸前に思われた2012年、最初の来訪から1年余りで大分崩落が進んでいました。驚く事にここから9年間、この建造物は建ち続けました。

注意点
写真に写っている賽銭箱、三代目の金高照次が亡くなってからは天津小湊の古紙回収業者が買ってに賽銭回収を行っていたとの聞き取り情報が。何とも罰当たりですが管理する者もいなく、その行為は10年間ほど継続したそうです。2018年頃、賽銭箱この
場所から突如として消えてしまいました。

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

奉納額、狛犬の台座などと同様「奉献」を書かれています。

初来訪時はなかったので崩落と共に天井から落下してしまったものと思われます、内容は初代金高重五郎が晩年に旧教会の回収工事をした際の寄付名簿と思われます。

しかし気になるのは「明治三十五年一月」と「上総国長生郡一松村…講社…」、特にこの「上総国長生郡一松村」が気になります。旧高旧領取調帳で確認すると現在の長生村周辺なのですがこの地域、九十九里に面した海沿いです。

そして「講社」は神仏の団体を指す、たしかこの長生郡一松村には千葉県でも有名な神社があった筈。



ご存知の方もいらっしゃると思いますが有名な玉前神社です、しかし関連性が判りません。遠く離れた地域、主神は玉依毘売(タマヨリヒメ)。蛇の神様ですが土着としては海を信仰する地域柄です。

と、ここで一つ思い出します。大山祇神は別名「和多志大神」、伊予国風土記によれば海上守護神だという。「和多」は古語で海を表す言葉でもあります、つまり大山祇神は山の神であると共に海の神様でもあったのです。

これは玉前神社というより上総国長生郡一松村の土着信仰と何か関連性があるかもしれません、玉前神社をはじめ旧上総国長生郡一松村に相当する地域の宗教法人に幾つか聞き取り調査を行いましたが御嶽教との接点は残念ながら発見できませんでした。

注意点
奉納額に関してなにか情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら是非問い合わせフォームより情報をお寄せ下さい

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

銭鳥居額(鳥居形銭額)、奉納絵馬の一種で亜種として「銭額絵馬」が分類され、その更に細分化された中に「銭鳥居額(鳥居形銭額)」があるとされています。

現在全国には多様な形態の銭額絵馬が確認されていてその殆どが江戸後期から明治時代に奉納された物ですが中にはとても古い物も、因みに房総半島には幾つかこのような銭額絵馬が奉納されている神社があります。

奉納当時に通用しなくなった古銭(この写真では一文銭)などを用いて祭事や奉納物として全国で製作されます、その意味は時代や製作者の意図で変化するようです。

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

2011年当時、スゴログの他にもこの大山祇神社に興味が湧いた方がいらっしゃったようで。そのレポートブログの中でこの写真に釘付けに、この写真の天狗面です。房総半島に置いて上総神楽は有名ですが天狗の面は使用しません、天狗は諸説あれど山の神としての一面も持ち合わせていますから由来が御嶽教ではないことは確か。

大山祇神、滑山大明神どちらとも縁がありそうです。滑山大明神の祭壇に飾られている所を考慮すると滑山由来の祭事具だと考察できます、天狗面の種類は豊富で時代ごとにトレンドがあったようですがこの写真だけから読み取れる情報は余りに少なく、どのような経緯で置かれていたかは判りませんでした。

※「④ 数々の残留物」について、スゴログでは奉納額の謎を今後も宿題として落ち続け追加レポートで明るみにしたいと考えています。


倒壊までの空白の30年

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

③ 参拝客の痕跡

2011年07月の内部はまだまだ参拝を許す状態でした、取材当時のヒアリングでは

・かつて祭礼の日には露店が数軒並び多くの参拝者で賑わっていた。
・現在でも約3km離れた市街地からほぼ毎日80歳過ぎのおばあさんが徒歩で参拝
・現在藤井家は滑山周辺には住んでいない
・現在でも定期的に参拝者が訪れている

など。それを裏付けるように参拝者に出くわした方もいた、当時調査で協力頂いたKさんは撮影にいった際に神奈川県からきたという一家とお話する機会を得たのでした。

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

「こちらの教主様に命を救ってもらった両親の遺言で毎年正月と9月に参拝に訪れている」
「両親からはこの神社は霊験あらたかなので大切に敬いなさいと言われている」
「かつて社殿には太鼓があったが、廃れてからしばらくして麓の神社の人たちが持って行ってしまった」

この「かつて社殿には太鼓があったが、廃れてからしばらくして麓の神社の人たちが持って行ってしまった」という証言はなかなか興味を引きます、麓の神社とは勿論「天津神明宮」のこと。

この件に関して天津神明宮に聞いてみると

・太鼓の持ち去りについては現在わかる人間がいない為不明である
・あの土地は当神社の境外飛地であり、長い間不法占拠されていた
・そもそも大山祇神社は神社ではない

とのこと、確かに大山祇神社の土地は1880年代に藤井家より天津神明宮へ売却されていた。がその当時、現在のような不動産登記と所有権の確認や書類でも売買契約がされていたのかが気になります。

法務局へ赴き、登記簿を取得して確認します。これは最後の疑問点であった「⑤ 現在の管理状態」の確認でもあります。

まずは正確な敷地を確認する為に公図を取得します、するとこの廃神社の住所が「鴨川市天津字滑山2648-4」であることが判りました。

注意点
グーグルマップや宗教法人名簿には「天津2648番地」と簡略化された住所しか記載がありません、実際は細かく筆分かれしています。

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

天津神明宮の言い分ではこの土地と天津神明宮の現在の土地所有者が同じでなければなりません、それでは登記簿ではどうでしょうか。

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

土地登記ではCさんという方の名義でその後の相続も同じ一家のC家の家族が引き継がれています。少なくとも1976年からはC家の名義ですがこの時点で教主一家の金高姓とは全く別の人物です、C家は今でも天津に家屋を構える現住の方ですが金高家とは関係が全くありません。

これは一体どういうことでしょうか。藤井家からなんらかの形で(経緯は不明ですが)C家に土地が移譲されたのは確かでしょう、そしてどの段階で金高家はこの土地に建造物を建てのでしょうか。

火災によって現在の住所(鴨川市天津字滑山2648-4)へ引っ越したのが1959年です、ということはC家がこの土地を移譲される以前より藤井家との間で賃貸の契約がされていたのでしょうか。

注意点
こちらに関しては現在更に古い記録を確認中です

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

こちらは件の天津神明宮の登記簿です、権利者は「岡野哲郎」とあります。この人物は当代(66代目)の天津神明宮の宮司さんでどうやら土地はこの岡野家が代々所有してきたようです。

よって廃神社の土地所有者と天津神明宮の土地所有者の名前が一致しないことが判ります、つまり過程はどうあれ廃神社の土地は天津神明宮のものではありませんでした。

予想① 藤井家→岡野家→C家
予想② 藤井家→C家

どちらにしてもこの間に金高姓の所有履歴は発見できません、どうやら勘違いや誤解もしくはまだ明るみになっていない土地の動きが過去にあったのかもしれません。



次に「そもそも大山祇神社は神社ではない」との証言、これに関しては金高家が代々に渡り加持祈祷を行っていたからであると考えられます。祭祀施設として登録しなくても神社を名乗ることは可能ですが設備に関してもこれがなければ神社ではないといった決まりもありません。

鴨川市内宗教法人名簿

鴨川市の宗教法人名簿を確認すると「神道系 / 御嶽教 / 御嶽教大山祇教社 / 鴨川市 / 天津2648番地 / 金高照次」と三代目の教主の名前と共に御嶽教大山祇教社が記載されてます。

実は金高氏はこの地で御嶽教の教会を開いてから一度も「神社」を名乗ったことはありません、それではどうして大山祇神社という名称が独り歩きしたのか。

実はあるのです、大山祇神社と呼ばれるに至った要因ともいえる存在が。

場所はここです。


スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

鬱蒼と生い茂る藪の中に頭を出す鳥居、これを見つけるのは容易ではありません。グーグルマップ上では「稲荷社」と書かれている場所、なぜ稲荷社と書かれているかといえば狐の狛犬が置かれているからです。


滑山の麓は元々開拓地であり、農業を中心としていました。稲荷は正式名称を宇迦之御魂神(倉稲魂命 / ウカノミタマ)といい、農耕を司る神様です。

注意点
狐は神様の遣い(神狐)です。

滑山大明神と共にこの地の開拓民が農作物の豊作を祈願してこの稲荷社を設けました、この稲荷社は御嶽教の教会よりずっと昔からあったので鳥居=神社という認識と場所が目と鼻の先だった移転先の御嶽教の教会を同一視してしまい、結果

「御嶽教大山祇教社を簡略して大山祇神社と呼称した」

という流れになります。スゴログが来訪した当時は笹薮が酷く、掻き分けての石仏調査には至りませんでしたがネット上に写真がありました。

稲荷社の狛犬(狐)

残念ながら木造社殿は既に崩落しており、その残骸を残すばかりとなっています。が、机上調査した中の書籍「房総山岳志」の記述によればここより更に登れば滑山様(滑山大明神)の奥社が残っているというではありませんか。

大きく迂回してピークに出ると確かにありました、一時は大山祇神と併祀されたこの地の山岳信仰の神様「滑山大明神」の奥社です。

注意点
登記を取得するとこの鳥居周辺も廃神社と同様、C家の土地でした。

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

こちらも社殿はバラバラに崩落しています、ですが自然発生した山岳信仰である滑山大明神はここで静かに下界を見守っていることでしょう。

後の御嶽教設立の際にも金高家はこの滑山大明神の地場信仰を尊重していたようで併祀と別祀を経ても最後まで教会内に祀られていました。

教会の崩落と共に元のこの場所へ帰られたことでしょう。

注意点
低山とはいえ、入り組んだ山中です。ゴルジュもあり、場所によっては滑落する可能性もあるので詳細な場所は各々自己責任でご確認下さい。



廃神社の周囲には鳥居や石祠の他にも御嶽教大山祇教社とは関連性のない残留物があります、こちらも少しだけご紹介しましょう。

先ほどの稲荷社の少し北側、斜面と斜面の間の隙間に別の石祠もあります。

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

こちらの石祠の詳細は全く判らず、刻印などもありません。かなり古いと思われますがまずこの場所に訪れる方はいないでしょう。

ただ幾つかの書籍にこの地に関する石仏と祠の記述が見受けられます、それら複数の記載がどれを指しているか不明ですが他にも知られず残る信仰対象があるかもしれません 。

石祠について

天津小湊町発行の「天津小湊の石造物」によれば台座右側に刻まれた文言は以下の通り。

×××××
大正十四年■月建立

注意点
「×」は風化の為に判別不能箇所、「■」は七月と思われる。またこの他にもう一つ石祠がありましたが現在の所在は不明、「天津小湊の石造物」には昭和十四年九月十五日/秋田サヨと刻まれているとある。


少し移動して谷底へ、涸れ沢のゴルジュを少し奥まで歩くと異様な光景が。

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

特徴的な鼻の先端部分を見ればイノシシの頭蓋骨だということが判ります、しかし何故倒木の根に突き刺しているのか。それも複数体あります、周囲には他にも他の部位の骨や頭蓋骨も転がっています。

驚いたのは猿の頭蓋骨です、特殊な儀式の類でなければ獣害猟の痕跡とも見てとれますが猿に関しては理解に苦しみます。


対岸には割れた陶器が、ここまで奥部にきて人工物があるのはやや違和感を感じます。

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

陶器は古い物だったので御嶽教大山祇教社との関連性も考えられます。



スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

こちらの建造物、非常に疑問点の多い小屋でした。最初、航空写真で気になりまして現地で探索。比較的簡単に発見できましたが六畳一間ほどの間取りに関わらず内部は生活感が溢れる作り、裏手にはトイレもありました。

人が住むには余りに小さく、かと言って農業の作業小屋という趣でもありません。更に。

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

70年代の航空写真にはこの小屋がありません、田畑の一部です。

と、いうことは。少なくとも70年代後半から廃墟化する1990年代の間に建造されたことになりますが用途が判りません、周囲の田畑は2010年代までは小規模ながら運用されていましたが現在は全て廃田です。しかしこの小屋の周囲は確認できる航空写真では1990年代には廃墟化しています、それは10年間ほどしか使われなかったことを意味しますが…。


注意点
こちらの建造物に関して何かご存知の方がいらっしゃいましたら問い合わせフォームよりご連絡下さい。

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

最後に、こちらは廃神社の田畑を挟んで北側の家屋後。周囲では当時御嶽教大山祇教社とこの家屋の二軒のみでした、1980年代には取り壊されており、更地化後はご覧の通りの状態です。




スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

1990年代、現代化された社会と発展を遂げた天津の街。天津神明宮の存在も相まって御嶽教は基より土着の地域密着型山岳信仰だった滑山大明神も廃れてしまいました、金高家は居を丸山町に構えていたこともあってか三代目が亡くなってからは一家がこの地を管理することもなく廃墟化。

古くから滑山を信仰していた世代も調査当時(2011年)で80歳代以降と高齢で若い世代でこの山岳信仰を守ろうという者は現れませんでした、神具や祭具は2010年辺りから徐々に持ち去られてしまい、最後は賽銭箱までなくなってしまいました。



山岳信仰からはじまった滑山をご神体とした滑山大明神、更なる発展を夢見て山の神である大山祇神を迎え入れた藤井家。

神仏分離令によって本家と分家に分かれての宗派競争、新たな御嶽教の登場と衰退。これらがこの地であった宗教変動の歴史でした。

廃墟後の通名であった大山祇神社は別に存在しており、三柱の神々が入り乱れた御嶽教滑山大山祇教会は2021年、倒壊してその長い歴史に幕を閉じました。


崩落までのプロセス

2011年、初来訪時には辛うじて倒壊を免れていた大山祇神社。崩落する2021年までに震災の余震や連続台風、戦後房総半島においては最大級の被害となった大型台風など様々な自然災害がありました。

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

2011年02月、震災前の状態です。放置されてから20年以上、崩落が近づいていました。

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

2011年07月、初来訪。余震にも負けず、震災前と然程変化はありません。

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

2012年05月、左側壁面が崩落。屋根も半分ほどが抜け落ちました。

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

2013年04月、前面の傾斜は酷い状態でしたが辛うじて折れた柱が支えていました。この年まで参拝客がいたことを確認しています。

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

2017年05月、毎年1回は確認にきていましたが大きな変化はありませんでした。しかし2017年にとうとう前面の柱が落ちました、それと共に裏手も崩落。

狛犬について

天津小湊町発行の「天津小湊の石造物」によれば昭和10年02月に寄贈されたもの台座にそれぞれ刻まれた文言は以下の通り。

(右側の像)
台石正面/奉納
台石右側/長生郡一ツ松村 大坪新田 講社一同
台石裏側/××石井初三 昭和十年 二月吉日×之

(左側の像)
台石正面/納
台石左側/信者中

注意点
「×」は風化の為に判別不能箇所

天津小湊の石造物 - 早川正司

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

2021年03月、2019年の台風被害にも耐え抜いた大山祇神社でしたがついに完全崩落。経過観察10年目にしてその終焉を目にしました。

注意点
驚くことに2020年に内部を清掃された方がいらっしゃいました、崩落の危険性もあった中神経を尖らせて掃除したそうです。



スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

2015年当時の内部、ここから5年以上建ち続けました。

以上で大山祇神社のレポートは終わりです、スゴログとしてもこれだけ長期間に渡って調査した物件はありません。調査過程で鴨川教育委員会の人事も変わりましたが引継ぎして頂きまして円滑にこれだけのレポートが残せたのは沢山の協力者のおかげです。

ご協力、ご助言頂いた方々に改めて感謝致します。


この地にはもう一柱の神がいる

ここからは補足レポートになりますが今回、主要調査の対象であった御嶽教大山祗教社の他に大山祇神、滑山大明神、宇迦之御魂神、詳細不明の石祠と多くの神が存在したことが判りました。

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

それぞれの位置関係はこのような感じです、多少の誤差はご容赦下さい。次に明治初期に描かれた同地の地図をご覧下さい。

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

この赤丸で囲った部分、鳥居の地図記号が描かれています。そうです、これまで調査してきた以外にもどうやら神社か祠が存在していることを示唆しているのです。

これまでの調査結果の位置関係と透過させて場所を確認してみます。

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

多少のズレは生じますが現地に赴けば検討はつきそうです。日を改めてもう何度目か判らない程に来訪した滑山へ再び。

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

休耕田を超えて山林に近づくと目立つ杭が目に入ります。

「木更津支社送電保守G / 天津線1号に至る」

と記載されています。

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

東京電力の敷設する鉄塔マップを確認すると「天津線1号」はこの鉄塔です、作業道入口の目印となる杭から東側ほぼ直線という位置にあります。

塔マップZERO

どうやら東電の送電線鉄塔へ至る作業道のようです、昭和初期頃までは平地と山林の境目に沿って登山道(旧生活道路)が通っていましたが1980年代までには廃道化して道筋は消失。

変わって東京電力の鉄塔整備に必要な作業道を新たに開拓し、現在でも東電関係者用に簡易整備された薄い道筋が残っています。

明治時代の地図に描かれた鳥居の場所はそれよりやや北西に位置しているので作業道上には存在しないと推測、道を逸れて藪の中を調査します。


スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

神社は基本的に正面と参道を直線的に結ぶので地図上の直線状に出ればヒントが得られる筈です、斜面を少し登ると古く連続した人工的な配置の石を発見。よく見ればこれは石段が崩落した跡でした、ということは。残っているのならば目線を上げたその場所に何があると思われます。

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

いらっしゃいました、頭上の斜面に祠が小さく見えます。近づいてみましょう。

スゴログ 御嶽教大山祇教社 廃墟

流造りの石祠がありました。

初見で判る程に新しい物に見えます、明治時代初期にあったものは既になく、新しく設置されたのでしょう。

机上調査で

・近代工法の人工石台座
・取手が金属製は特殊

であることが判明、確かにこのような戸棚の取手は見たことがありません。台座工法に関して以下のサイトの物と同様と思われます。

神社に祠を新設する石工事

2000年以降と思われるこの石祠、情報が全くありません。「天津小湊の石造物」のリストにも名はなく、法人関係の所在リストにも該当地の住所記載が見当たりません。

少なくともこの地で一番新しい(状態の)祠であり、同時に明治時代初期である1870年頃の地図にも描かれているとなると管理者や所以などは容易に判りそうなもの、なのですが。

行政にも確認しましたが残念ながら把握していないそう、今後この石祠についての情報が入り次第追記したいと考えています。

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参考・協力

鴨川市市役所
鴨川市役所天津小湊支所
鴨川市教育委員会生涯学習課文化振興室
鴨川市郷土資料館
鴨川市図書館
房日新聞
天津神明宮
藤平牧場
妙法生寺
高生寺
清澄寺
八幡神社
玉前神社
鴨川警察署天津駐在所
安房土木事務所鴨川出張所
千葉県南部林業事務所
房総山岳志/内田栄一(崙書房出版)
ふるさと資料天津小湊の歴史(上・下巻)/天津小湊町史編さん委員会
ふるさと資料天津小湊の石造物/早川正司(天津小湊町)



レポートの場所



注意点

該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。

スゴログの装備とその使用方法など
https://www.sugolog.jp/p/blog-page.html




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