峠越えの宿場町としても栄え、近代史では周辺集落の随一の規模をほこった保月集落。都市部から離れた山村として行政機能の代理業務を行い、多岐に渡る産業も維持し続けた特異な集落でもありました。現在でも元住民による保存活動や冬季を除く期間村民の存在など変動し続ける生きた廃村、この保月集落の詳細な調査内容をご紹介します。
滋賀県│保月集落
調査:2010年06月
再訪:2010年10月 / 2011年05月
公開:2011年01月17日
名称:正式名称→保月集落
状態:離村した住民による保護活動が継続中
調査:2010年06月
再訪:2010年10月 / 2011年05月
公開:2011年01月17日
名称:正式名称→保月集落
状態:離村した住民による保護活動が継続中
旧サイトで公開していたレポート内容を2019年現在の調査内容及び詳細な精査を行った上で再エントリーしました。また古くなった情報などは精査時に削除しております。
旧脇ヶ畑村地区の中心的集落
霊仙の廃村群を語る上でこの保月集落を外すことはできません、というのもこの集落は旧脇ヶ畑村地区の三集落どころか多賀町の集落群随一の家屋密集率を誇った大規模な山岳地域コミュニティだからです。集落の形成時期は隣村となる杉集落より新しいものの、その人口は鈴鹿山系霊仙の山間部集落としては最大の600人を超えていたとの記録が残されているほど。
行政記録の町歴には近代史しか残されていない為、地域最大規模を誇った頃の正確な人口や家屋数は把握できませんでした。推測では家屋数は150軒ほどだったのではないかと言われており、しかし行政運営に関してはより都市部に近い落合集落が地域代行集落としての役割を担っていたので脇ヶ畑村地区の極々限られた行政運用代行の地がこの保月集落だったようです。
また現在は廃村という扱いながら男鬼集落や後谷集落と同様に冬季限定無人化集落として降雪時期を除けば一部の元村民や行政事業の関係者が高い頻度で作業などをされています。
保月集落の近代史と人口推移
1976年に無人化に伴い廃村と成りましたがその後リターンされた方が幾ばくか居られ、2005年に再度廃村に指定されました。冒頭、この地域では最大規模を誇る600超の人口を数えたと記載(多賀町史内の記録では近代史301人がピーク)しましたが公式記録として残されているものでは
1878年 - 65軒 301人
1922年 - 58軒 273人
1936年 - 46軒 181人
1965年 - 28軒 99人
1970年 - 16軒 32人
1975年 - 16軒 34人
1976年 - 無人化(廃村指定 / 旧脇ヶ畑村全離村完了)
1980年 - 12軒 19人
1985年 - 06軒 12人
2005年 - 無人化(廃村指定)
1922年 - 58軒 273人
1936年 - 46軒 181人
1965年 - 28軒 99人
1970年 - 16軒 32人
1975年 - 16軒 34人
1976年 - 無人化(廃村指定 / 旧脇ヶ畑村全離村完了)
1980年 - 12軒 19人
1985年 - 06軒 12人
2005年 - 無人化(廃村指定)
注意点
多賀町史による廃村時期は1976年、これは旧脇ヶ畑村全離村完了にと伴う公式記録です。ではなぜその後も村民人口の推移が確認されているのかというと木曽団地をはじめ都市部へ分散移転後もこの地域の住所に納税実態があったから、これは全国の廃村でも確認されている例で廃村認定された後も居住実態がないながら登録住所からの納税があると人口推移にカウントされてしまう大らかな時代背景が何よりの原因かもしれません。
また1980年代後半~1990年代前半に掛けて新たに家屋を建築する元住民の方が複数確認されており、冬季を除く期間限定ながら数戸の通い住民が居られるようです。
また1980年代後半~1990年代前半に掛けて新たに家屋を建築する元住民の方が複数確認されており、冬季を除く期間限定ながら数戸の通い住民が居られるようです。
と不思議な経緯を辿っています。家屋の密集率と人口増加の要因は幾つか考えられますが
① 山越えルートが複数重なる
② 峠越えの宿場町として機能
③ 杉集落以上の農作運用が可能な潤沢な農耕地
② 峠越えの宿場町として機能
③ 杉集落以上の農作運用が可能な潤沢な農耕地
などが挙げられています、残念ながら河川が付近にないので水田運用はなく、畑では大根やサツマイモなどを中心とした根菜を栽培していたそうです。稀に売りに出されることもあったようですが基本的には住民の糧として農地運用は行われていました。
一時は宿場町として賑わっていたので旅館(100人以上を収容可能)や旅人を対象とした商店(通常の雑貨やに加え酒屋や質屋も)なども点在、旅に必須となる草履や草鞋などを冬季産業としていたとの記録も。この峠越えの旅人の多くは都市部に位置する多賀大社への参拝客とされています、五僧集落には宿泊施設がなかったので大規模集落であったこの保月集落が必然的にその役をになったのでしょう。
注意点
近代化に進む以前の農作物は産業として出荷対象でした、また製炭や養蚕なども盛んに行われていたようです。それらも明治から大正時代に変わる頃には閉業する者が多かったそう、戦後復興では特に山村産業で表立ったものもなく、燃料革命後は行政主導による集落再編成事業が行われ一斉離村へ向います。
※ 行政主導による集落再編成事業に関しては杉集落を参照して下さい
※ 行政主導による集落再編成事業に関しては杉集落を参照して下さい
1967年の航空写真、既にピークを過ぎていますが保月集落の規模がどれだけ大きかったかがわかります。
南側の集落から北側や東側には広く開墾した畑や林業で切り出した跡地が見て取れます、これらにアクセスするルートも無数に存在しましたが現在ではその殆どが自然に還ってしまいました。
写真│脇ヶ畑中学校の教職員住宅(外観)
旧脇ヶ畑村地区の行政運用に関しては脇ヶ畑村役場、小中学校(町立脇ヶ畑小学校・町立中学校脇ヶ畑分校)、脇ヶ畑村郵便局、駐在所、組合代行窓口などが存在。
豪雪地帯なので冬季は遠方の集落や都市部とは隔離されるため、産業道路や電気などのインフラ整備が長らく待たれていました。杉集落と時を同じくして1950年には大型車両が通行できる道路が開通、電気も杉集落と同時期に工事が行われたので同年となる1950年に村へ人工的な光が灯りました。
注意点
新聞などは一日一便の郵便局職員が配達していたとの聞取り情報あり
保存も解体も計画的に管理されている
2000年代に入って集落内の崩落危険家屋などの解体事業が本格化、当時半壊していたものは全て取り壊されました。来訪した2010年時では崩落が進んだ家屋が幾つも目にとまり、近い将来再び解体作業が行われるのではないかと予想されます。残さ管理されている家屋や神社などはとても丁寧に保存されており、また改修もされているので集落全体でみれば手の行き届いた廃村感の薄い状況とも言えるでしょう。
写真│脇ヶ畑中学校の教職員住宅(内部)
崩落が進む現存廃屋
比較的状態の良い家屋の玄関口から中を覗くとこのような状態でした、外観では辛うじてその姿を残している家屋たちですが内部はじわじわと崩落が進んでいます。この地域の殆どは元々藁葺屋根でした、豪雪地帯でもあったので管理が滞ると屋根は基礎部分が露呈して内部に雪や雨風が容赦なく吹き込むことに。
写真│多賀町立博物館「多賀のむかしの写真展」(撮影:井原耕造)
この写真からも保月集落の冬季がどれだけ過酷がわかります。
写真│脇ヶ畑中学校の教職員住宅(内部)
裏口に回りました、こちらから見ても内部は酷い状態です。今回は行政関係者の同行がいないので内部に入ることはできませんが許可を頂いたとしてもとても入ろうとは思えません、内部にはまだ脇ヶ畑中学校の教員資料が残されているとの噂も。
多賀町の公式統計記録では3戸の居住実態
こちら(左側に立派な家屋)は既述の通い住民の現住家屋、この日はいらっしゃらなかったようですが庭も綺麗に手入れされておりました。こちは新しい新設家屋ではありませんがこのように保月集落内では廃村とは思えないほど人の気配があります、来訪時も遠くでチェーンソーの稼動音や畑仕事で来ていると思われる軽トラックや何台かの乗用車を確認。
とても40年以上前に廃村になったとは思えません。
因みにこの集落出身者で組織された「保月会」という同郷の集いが存在しており、お盆の時期には村内の中心に位置する照西寺で親睦会が行われています。
照西寺と集落形成の関連性
先程の照西寺、こちらは現役のお寺で創建は1748年。この寺が建てられるまでの経緯を辿ると幾つかの宗派が確認でき、それらの宗派の出生地を調べると美濃、伊勢、近江などの地域が判明。つまりは集落形成のかなりの起源まで予想が可能となるわけです、このように複数の宗派をもった人々が集まってできた山村でしたが浄土真宗本願寺派受け入れた形で落ち着いたのでしょうか、集落形成時以降はこの照西寺が集落の墓地管理を行っていたので宗派間の問題はなかったと思われます。
犬上郡多賀町保月 出船山照西寺
http://archive.is/xdfKV
http://archive.is/xdfKV
注意点
照西寺に関しては参考資料として取り寄せた「脇ヶ畑史話」と現地での聞取り調査、他の地域宗教資料を元に集落との関係性を記載しています、一部「脇ヶ畑史話」とは異なる内容となりますが参考までと了承願います。
場所はここ、集落の丁度中心部となります。
毎年開催されている「関ヶ原踏破隊」の休憩場所として開放されている様子がわかるサイトがありました。
「保月」集落と関ヶ原踏破隊
http://archive.ph/dp6sZ
http://archive.ph/dp6sZ
関ヶ原踏破隊については上記リンク内の内容を是非ご覧下さい。
この照西寺の道路を挟んでの向いには脇ヶ畑村役場がありました、脇ヶ畑村役場には脇ヶ畑村役場郵便局や診療所が併設されていました。
この主要施設に関してはの資料は非常に少なく、写真などは皆無状態ですが下記のサイト内に一枚だけ解体される以前の村役場の姿が掲載されています。
「廃村と過疎の風景(2)」滋賀県多賀町旧脇ヶ畑村
http://archive.is/zH1bc
http://archive.is/zH1bc
場所はここです、照西寺同様に村内の中心地に存在していました。
注意点
脇ヶ畑村役場は2000年に解体されました
最後にこの山村の主要施設であった小中学校の存在について語りたいと思います、大きな集落だったので往時には実に沢山の学童がいました。その学び舎であった二つの校舎、町立脇ヶ畑小学校と町立中学校脇ヶ畑分校です。
写真は町立脇ヶ畑小学校の跡地に立てられた記念石碑、この記念石碑が設置されている場所は
なのですが先程の記念碑の写真を良く覚えておいて下さい、後方に見えるのは校舎と連結されていた便所棟(トイレ)。
この写真の左側、雑草に埋もれてわかり辛いですが先の写真の便所棟です。また、学校の敷地は中央の校庭を挟んで小中学校共用運用されていたのでした。
写真│町立脇ヶ畑小学校(e-konの道をゆくサイト運営者撮影)
1993年~1995年頃には解体されてしまったと聞く脇ヶ畑小学校の姿を確認できる非常に貴重な一枚です、車道開通の翌年となる1951年に小学校、中学校の校舎が共に新築されているので造りは全く同じ。
町立脇ヶ畑小学校 変遷
1883年 - 晩成学校設立
1889年 - 簡易科保月小学校へ名称変更
1892年 - 脇ヶ畑尋常小学校へ名称変更
1906年 - 杉集落に脇ヶ畑尋常小学校分教場を設置
1912年 - 杉集落の脇ヶ畑尋常小学校分教場を閉鎖
1926年 - 脇ヶ畑尋常高等小学校へ名称変更
1941年 - 脇ヶ畑国民学校へ名称変更
1947年 - 脇ヶ畑小学校へ名称変更
1951年 - 新校舎新築
1969年 - 休校の後に閉校
上記の変遷については多賀町史及び脇ヶ畑史話に基づいて記載しています
1883年 - 晩成学校設立
1889年 - 簡易科保月小学校へ名称変更
1892年 - 脇ヶ畑尋常小学校へ名称変更
1906年 - 杉集落に脇ヶ畑尋常小学校分教場を設置
1912年 - 杉集落の脇ヶ畑尋常小学校分教場を閉鎖
1926年 - 脇ヶ畑尋常高等小学校へ名称変更
1941年 - 脇ヶ畑国民学校へ名称変更
1947年 - 脇ヶ畑小学校へ名称変更
1951年 - 新校舎新築
1969年 - 休校の後に閉校
上記の変遷については多賀町史及び脇ヶ畑史話に基づいて記載しています
町立脇ヶ畑中学校 変遷
1947年 - 脇ヶ畑村立中学校創立
1978年 - 犬上東中学校脇ヶ畑分校へ名称変更
1951年 - 新校舎新築
1955年 - 多賀町立中学校脇ヶ畑分校へ名称変更
1969年 - 閉校
上記の変遷については多賀町史及び脇ヶ畑史話に基づいて記載しています
1947年 - 脇ヶ畑村立中学校創立
1978年 - 犬上東中学校脇ヶ畑分校へ名称変更
1951年 - 新校舎新築
1955年 - 多賀町立中学校脇ヶ畑分校へ名称変更
1969年 - 閉校
上記の変遷については多賀町史及び脇ヶ畑史話に基づいて記載しています
皮肉なことにインフラが整いだしてから急速に離村が進んだこの集落、戦後復興と激動する近代化により利便性を求めた人々は不便な山村を離れていきます。
村の担い手となる次世代の若者達は子供と共に都市部へ移動し、学童の場もみるみる衰退。行政業務の都市部集中化も伴ってこの地域における保月集落の重要性は目に見えて低下していったことでしょう。
峠越えの宿場町として、また隔離された冬季には地場産業の維持に努め、山深い集落としては異質の発展を遂げたこの保月集落。廃村に至る研究事例としてもその異質さ故か大学や書籍などに取り上げられることもしばしば、そして現在は元住民や新たに価値を見出した若い世代によって再び活気が戻ろうとしていることも特筆すべき点です。
既に終焉を迎えた周辺地域の廃村との分水嶺とはなんだったのか、それがわかるのはこの保月集落が更に注目されるもう少し先になるのでしょう。
保月集落の参考資料として
今回この保月集落のレポートをエントリーするにあたり、下記の「参考・協力」リストに記載していない実に多くの現地聞取り協力者、京都大学の関係者、そして資料を提供して頂いた沢山の方々に対し深く感謝申し上げます。また京都大学のレポートアーカイブ「京都大学学術情報リポジトリKURENAI」から以下の資料を参考にさせて頂きました、お時間のあるか方は是非このレポートと共にお読み頂けたらと思います。
題名:集落の消滅過程: 多賀町保月集落の事例から
著者:藤尾潔
醗酵:2015/01/24
出版:京都大学大学院工学研究科・医学研究科 安寧の都市ユニット
誌名:安寧の都市 --医学・工学からのアプローチ
著者:藤尾潔
醗酵:2015/01/24
出版:京都大学大学院工学研究科・医学研究科 安寧の都市ユニット
誌名:安寧の都市 --医学・工学からのアプローチ
注意点
別編集としてほぼ同内容の(https://bit.ly/2RIfVE9)もあります

参考・協力
彦根市役所
多賀町役場
多賀町教育委員会
多賀町立図書館
多賀町史編纂委員会
多賀町公民館
多賀町史
脇ヶ畑史話
脇が畑小史
湖国と文化1991年発行第56号
京都大学大学院工学研究科
角川日本地名大辞典25滋賀県
財団法人滋賀県文化体育振興事業団
彦根市役所
多賀町役場
多賀町教育委員会
多賀町立図書館
多賀町史編纂委員会
多賀町公民館
多賀町史
脇ヶ畑史話
脇が畑小史
湖国と文化1991年発行第56号
京都大学大学院工学研究科
角川日本地名大辞典25滋賀県
財団法人滋賀県文化体育振興事業団
レポートの場所
注意点
該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。
注意点
該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。
スゴログの装備とその使用方法など
https://www.sugolog.jp/p/blog-page.html
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