2024-04-23T07:50:34Z #019 鹿沼市立石裂小学校

#019 鹿沼市立石裂小学校

山岳信仰で栄えた山深い石裂集落、その僻地における唯一の教育施設であった石裂小学校を周囲の歴史と共にご紹介します。現在では登山口と神社を残すばかりの限界集落、調査を進める過程で実に多くのエピソードを提供して頂けたこの地域と現在の過疎化問題、そして住民の今をレポートしました。

スゴログ 石裂小学校 廃校
栃木県│鹿沼市立石裂小学校

調査:2010年06月
再訪:2014年06月
公開:2010年08月19日
名称:正式名称→鹿沼市立石裂小学校
状態:長期間放置

今回ご紹介する鹿沼市立石裂小学校、事前調査の2009年当時は殆ど知られていない山奥にヒッソリと残る廃校でした。とても小さな建造物で大した見所もなく、情報も皆無に等しかったので放棄後約50年という年月を耐えて()いたのでしょう。

注意点
2018年現在内部は崩落が進んでいます

現在に到っては沢山の方が知るこの廃校、今一度その歴史や当時の運用形態などを詳細に掘り起こしてみたいと思います。

注意点
上方の写真は2010年に撮影したものです(レポート内では一部再訪した2014年の写真も掲載しています)、当時は行政に取材撮影許可を申請できましたが2012年に立入禁止になりました。奥の赤い屋根の建造物(後程詳細記載)も2013年に崩落、廃校内部も非常に危険な状態となっています。

立入禁止になった2012年以降は周囲にトラロープが設置されています。


栃木県に残る過疎集落の一つ、石裂には長い歴史が

まずはこの廃校が残る地域を簡単に説明したいと思います。

栃木県の山深い過疎集落「石裂(おざく)」地区、今では登山客と加蘇山神社の参拝客位しか来る方はいないでしょう。集落は高齢化に伴う過疎化が進んでおり、若い方達の殆どは仕事が無い為に都市部へ引っ越してしまっています。

古くから山岳信仰が栄えており、日光開山で有名な勝道上人が神仏混淆の修験場として石裂山を開山したとされています。確かにこの石裂山は開山当時でいえば大変危険な難所が幾つも控えていて修行の場としては最適だったのかもしれません、現在は登山道として整備されていて初心者にも優しい山となりました。

そんな事から登山者には以外と有名な様です、土着の山岳信仰で山岳集落唯一の観光資源として今でも地元住民と共に愛されています。

開山後の集落形成はこの様な経緯がありますが人口増加に関しては付近に鉱山が幾つか在った事も関係しています、山岳信仰から発展した集落に鉱山開発で集められた鉱山夫とその家族達。そして僻地での児童教育の場は必要に駆られて作られたのでした、それでは幾つかの歴史的エピソードを交えてこの廃校を見ていきましょう。




スゴログ 石裂小学校 廃校

1964年に廃校となってから暫くは「鹿沼市石裂寄栗地区集会施設」として転用されていました、しかしそれも1980年代に入る頃には同敷地内の新しい建物()に場所を移します。

注意点
ここではこの集落の為の僻地診療が定期的に行われており、臨時診療所としても機能している様です。

因みにですが創立は驚きの1873年です、日本は明治6年ですから江戸時代の様相を色濃く残した世相と言えます。当時は民家を借り受けて仮校舎として運用し、1902年に現在の校舎を新設して本格運用が為されました。

その後何回かの増改築はされましたが基本的には現在残る校舎は2018年現在で116年の歴史を有している事になります、これはとても凄い事なのですが行政側に確認したところ「保存や修復の予定はない」との回答を頂きました。とても残念ですが朽ちるのが先か、解体が先かといったところでしょう。

スゴログ 石裂小学校 廃校

この学校の校舎を新設する為に石裂山より切り出された木材が使用されたとの記録もあります、地元に根付いた山岳信仰を原点とした児童教育の場だったのでしょう。

窓などは新設当時のものでは無い様ですがとても古い物が嵌め込まれていました、恐らくは昭和初期のガラスだと思われます。

何故その様な事が解ったかというと2000年頃まではこの学校の卒業生が定期的に同窓会を行っており、地域の方と親交(元々はこの地域に住んでいたので)が有った様です。当時の事を色々と聞いていた方が集落内に少なくなり、今ではその詳細を知る事はできません。

スゴログでもこの「同窓会」のメンバーを四方八方手を尽くして探したのですが発見できず、どうやら同窓会の運営者はかなりの高齢だった様です。廃校間際の方達ならばご存命の筈ですが…20年程遅かった様ですね…。

スゴログ 石裂小学校 廃校

校舎の本棚に所蔵されていたのは1950年代~1960年代の物だと思っていたのですが意外にも1970年代の本も有りました、集会所として運用されていた時期にも子供向けの書籍が寄贈されてたのかもしれません。

注意点
殆どの書籍は1950年代のものでした

都市部に開校していた鹿沼市立久我小学校からの寄贈本もあったそうですがスタンプなどが押印されている本は見付からず、今後内部へ入る為の許可が得られたらもう少し現地調査に力を入れたいと考えています。

スゴログ 石裂小学校 廃校

約一世紀に渡る教育現場の残照

年代に関する話題が続いたのでこの廃校の歴史をもう少し詳しく説明しましょう、行政から提供された資料と一般公開されている地域文化資料に目を通すと中々面白い経緯が見て取れました。

1873年 - 創立(当時は民家を仮校舎として運営)
1892年 - 久我尋常小学校石裂分校として運営
1894年 - 久我尋常高等小学校石裂分校と改名
1900年 - 石裂小学校として独立運営
1902年 - 校舎を新築
1912年 - 校舎の増築
1926年 - 校舎の増築
1941年 - 加蘇村石裂国民学校に改名
1947年 - 加蘇村立石裂小学校に改名
1954年 - 鹿沼市立石裂小学校に改名
1964年 - 鹿沼市立久我小学校と統合し廃校

注意点
開校当時には正式な学校名称が存在しなかった様です

実に約90年間に及ぶ、長い歴史を刻んだ校舎でした。一言では表現できない、地域(山岳信仰としての集落)と国の問題(産業)、そして戦争、過疎化と多くの問題を抱えた児童教育の場だったのは間違いないでしょう。

と、山深い小さな集落としては語る事が多いこの廃校。実はもう一つ調査中に気になった点がありました、それは統廃合された小学校の沿革を見ていた時です。

統合先の鹿沼市立久我小学校の歴史を辿ると一時期ですが中学校と併設運用されていた事が判明しました、その中学校の名称を「鹿沼市立加蘇中学校石裂分校」と言います。

そう、石裂分校なのです。

この石裂集落での学校運用は「石裂小学校」のみです、これは行政記録でも明らかですが「加蘇村立加蘇中学校」の分校が「鹿沼市立加蘇中学校石裂分校」として石裂集落に在ったとこの中学校の沿革にあります。

しかも分校は1950年10月21日に校舎新設と資料に記載されています、そして7年間のみの運用後に元の加蘇村立加蘇中学校(後の鹿沼市立加蘇中学校)に再統合()されています。

注意点
1957年03月31日に石裂分校廃止

しかしこの石裂小学校に中学校の校舎は一度たりとも存在した事はありません、これは一体どういう事なのでしょうか。

スゴログ 石裂小学校 廃校

過疎化による児童減少

答えは資料の「1950年10月21日に校舎新設」という文言でした、そうなのです。校舎を建設したのではなくて「分校を新設」したという事なのです。

つまりは1950年から1957年の7年間、この学校は「小中学校」として小学校と中学校が併設されていたのです。という事は、1~2世代はこの小さな校舎で9年間過ごした事になります。この学校の沿革を正確に記すならば、

1950年 - 加蘇村立石裂小学校と鹿沼市立加蘇中学校石裂分校を併設
1954年 - 鹿沼市立石裂小学校と鹿沼市立加蘇中学校石裂分校を併設
1957年 - 鹿沼市立加蘇中学校石裂分校を廃止

という3行が追加されるべきなのでしょう。

戦後復興が進み、鉱山は当に閉山していた為に児童数は減少していた筈です。その中で「小学校を終えた中学生達の教育現場を設けなければならなかった」という時代背景もあったと思われます、残った児童ですが1964年3月31日以降はバスで鹿沼市の学校へ通う事になりました。

余談ですがこの小学校の校庭(運動場)は現在バス(上久我線)の転回場として使用されています、バスの運行資料にも記載されているので行政の認可が為された正式な転回場です。今でもバスの転回場として使用できるのは廃校後のバス通学による児童とのふれあいが残した証なのかもしれませんね。

スゴログ 石裂小学校 廃校

この鹿沼市立石裂小学校は長い歴史の中で時代に翻弄された、そんな僻地教育の現場だった事でしょう。山岳集落の悩みはやはり自立産業と児童教育だと思います。

観光資源として成立していなかった石裂山が登山ブームで本格的に脚光を浴びるのは高度成長期を迎える1970年になってから、この小学校の廃止までには間に合わなかったのは残念ですが現状を考慮するならば継続的な運用はやはり難しかったと言えます。

集会場としても10年程でその役目を負え、今は自然に還るのを待つばかりと成りました。これで廃校の調査報告は終了ですがもう一点だけ付け加えて周囲(集落)の歴史に移りましょう。

スゴログ 石裂小学校 廃校

2009年の初来訪、そして初撮影した2010年当時は廃校脇に小さな建造物が辛うじて残っていました。

別件で立ち寄った2014年、ふとその建造物が倒壊している事に気が付きました。内部への撮影許可を取っていなかったのでせめて外周だけでも変化を感じようと観察したのが幸運でした、帰宅後にこの建造物が何であったかを調べたので追加報告()させて頂きます。

注意点
公開当時のエントリーに追加で記載した内容です

この小さな建造物は教員棟でした、今でいう職員室が無かった為に1950年辺りに増設された様です。しかし長い歴史の中で生徒と一緒に上手く共存していた先生達の為に教員専用棟を増設する必要があったのでしょうか。

しかしその答えは既にレポート内にあったのです。

スゴログ 石裂小学校 廃校

そうです、1950年と言えばこの小学校に「鹿沼市立加蘇中学校石裂分校」が併設された年です。これは新たに派遣されてきた中学校教員用の別棟だったのでした、より専門性の高い内容を教える中学校教員は勿論専攻です、基本5教科としてもその分の人数が新たにこの地へ来た事でしょう。

基本的な内容はこの集落に1962年から住んでいる方の聞き取り情報です、廃止が1964年(中学校は1957年)なので学校に関する情報としてはギリギリご存知だった事は幸運でした。

またこの方には集落の歴史についても色々と聞く事ができたのでこれからご紹介する集落に関するレポートにも大いに貢献して頂きました、ここからはこの廃校を擁する石裂集落とその周辺について少々語りたいと思います。



スゴログ 石裂小学校 廃校

山中の集落には山岳信仰も当然存在

石裂集落は非常に山深い場所にあります、家屋が点在していますがその殆どが廃屋かまたは現在使用されていない状態となっています。

過疎が進み、住民の殆どが高齢者です。

記録では江戸時代には既に存在しており、集落の人々は山岳信仰をもってその結束を高めていたとあります。後述する加蘇山神社開社とは切っても切れない完成を持った信仰深い集落と言えます。関連する賀蘇山神社と同時期に建立されたとの資料表記もありますが正確な記録が残っていない為に集落形成に関する詳細な内容は現在でも不明です。

近年に関しては地元住民の方の

・1930年代~1940年代に成って急に人が増えた様だ
・神社付近だけで13軒の家が連なっていた
・長谷山弘宣寺(廃校よりやや鹿沼よりの寺)より下(の集落)は別の管理者が居た
・1950年代後半に一度人が減り、1980年代に入ってまたが減ってしまった

と教えて頂きました、他の住民の方にも複数お話を聞く事ができたので簡単に纏めます。

廃校の説明でも書きましたが産業の中心が都市に集中し、地場産業であった鉱山も閉山した事で住人の流失が起こった事は想像に容易いでしょう。事実、聞き取り調査の中で「息子達は鹿沼市にて働いている」と同様の内容を話した方が複数いらっしゃいました。

子供が減り、学校も廃校。僻地が故に神社(加蘇山神社)の社務所にも常駐が居なくなって代わりに管理しているのは高齢者ばかり。

そんな状況からか一時期泥棒被害が多発して集落全体が大変な苦労をした様です、川沿い奥の蔵に埋蔵してあった荷物(神社の関連物)も移動したり住民全体で対策にあたったそうです。

スゴログ 石裂小学校 廃校

石裂集落の終点地手前、ここを左折すると登山道入口へ向かいます。右折すると川沿い住宅が残っていますがその先は細い林道に。

写真の赤い屋根のお宅は大変見事なお屋敷です、この集落には廃屋も沢山在りますが最近の建造物見て取れるので過疎化してるのか判別し辛い地域ですね。

右折後の林道幾ばくか進むと美味しいと評判のお蕎麦屋さん「石裂山神水そば うえ田」が右手に見えます、このT字路から凡そ3キロ程でしょうか。

石裂山神水そば うえ田
https://bit.ly/2QK10eR



注意点
運転に不慣れな方はお蕎麦屋さんより先の通行はオススメできません

スゴログ 石裂小学校 廃校

中を覗くと手入れをされた小さな昔ながらの日本家屋庭園が、初来訪の2009年当時には住人が居ましたが現在は無人(管理されています)になりました。この大きな屋敷の住人はなんと加蘇山神社開社の神主さんのご自宅だったのですが参拝客が減少した事で社務所管理を鹿沼市に移転、鹿沼市内の神社の神主として現在はその神社の近くに住んでいるとの事でした。

この道沿いを少し戻るとこの豪邸と双璧を成したであろう大きな屋敷の廃墟がありました、またこの廃墟が面白い歴史を有していたので後程取り上げたいと思います。

スゴログ 石裂小学校 廃校

石裂集落のランドマーク、加蘇山神社

この集落を語る上で見逃せないのが写真の加蘇山神社です、地元では大変親しまれている神社ですが建立年代が判別出来ない程古いのです( 諸説あり)。

と言っても兵火で記録が焼失してしまい、詳細が不明なのが主な原因。現在解っている記録によれば「陽成天皇の元慶二年九月一六日下野国加蘇山神に従五位下を賜う」と記されていて、878年にはそれなりの神社としての認知度があった事が解ります。

注意点
一説によるとその数百年以上前から神社が在ったのではないかとの事



加蘇山神社全国神社名鑑由緒(ウェブサイトより一部抜粋)

再三の兵火によって記録が焼失したため創立年代不詳。光仁天皇の時代に勝道上人の開山によるものといわれている。また三代実録によれば陽成天皇の元慶二年九月一六日下野国加蘇山神に従五位下を賜うとあり、五穀豊穣を祈念し、農業の祖神を祭る神社として由緒の正しさがしのばれる。境内は周囲二里余、樹齢千年余の檜・杉等五本(神代木という)があり、森厳な神域にふさわしい。なお永承年中源頼義奥州征討の時鎧太刀等奉納。天文年間皆川山城主が神馬・太刀を奉納祈願。江戸時代は日光御入山の際、一品親王宮の御直持として守護せられた。旧県社。

栃木県神社誌由緒(ウェブサイトより一部抜粋)

創立年号は、詳細にはわからないが第四九代光仁天皇の御代に、勝道上人が開山したといわれ、磐裂命、根裂命、武甕槌命の火の神の御分身の三柱を奉り、五穀豊穣を祈念して、農業の祖神を祭ってある神社という。境内は周囲二里余りあって、老樹が繁茂して、古檜、古杉及び桂木など千有余年を経過したものが多く天然記念指定になっている。なお、昔から武勇の神様としても崇拝され、永承年中に、源頼義奥州征伐の折り、鎧太刀などを奉納し戦勝を祈念したといういい伝えもある。



社名:加蘇山神社(かそやまじんじゃ)
祭神:磐裂命 根裂命 武甕槌男命
鎮座:栃木県鹿沼市上久我3440

スゴログ 石裂小学校 廃校

住民の方々には大変お世話になり、物のついでと川を挟んだ対岸の大きな屋敷廃墟について聞いてみました。

「川の向うのあの廃屋、随分と大きいですが」
「ああ、アレね」

「お寺か何かの跡ですか?蔵も在るようですが」
「ああ、あの家は湯沢さんの家だよ」

湯沢さん?誰ですか。


同じ家名で政教分離

この大きな屋敷、2階建ての木造建築が2棟と更に蔵が2棟。見えるだけでも300坪以上の敷地で門構えもとても立派です、その持ち主は「湯沢さん」だと言う。何故名前を伏せずに実名で記載出来るのか、それはこの湯沢さんが「公」の人だからなのでした。

この屋敷の所有者の名前は「湯沢三千男」、元内務大臣だった人。

湯沢三千男 - ウィキペディア
http://archive.is/qAYm2

東條内閣で二期目の内務大臣に就任、戦中から戦後の政治家として手腕を振いましたがが1963年に亡くなっています。ご家族は既に鹿沼を経由して別の場所へ引っ越されている様でこの土地は長い事放置されているそう、政治家として都市部に出向した時点で家族も引っ越しているので空家と成ったのは1950年代だとお聞きしました。つまり廃墟歴は眼前の廃校「鹿沼市立石裂小学校」より長い事に成りますね。

注意点
湯沢家は先に紹介した加蘇山神社との関係もあったそうですが説明が複雑なんで割愛させて下さい

帰宅後の机上調査で更に驚く発見がありました、この湯沢家ですが石裂地区では「神職湯沢氏五家」と呼ばれていまして加蘇山神社の神主さんも同じ「湯沢家」でした。成程、どうりでT字路のお宅も湯沢三千男氏の生家も立派な筈です。

スゴログ 石裂小学校 廃校

正面口に周るとこの通り、大変立派な正門が今でも残っていました。

湯沢三千男の生家なので少なくとも1888年には建っていた事に成ります、明治時代で言えば中期ですがデザインが明らかに江戸時代後期の流れを汲んでいるのがお解かり頂けるでしょう。湯沢家自体はこの地に数世代居住していたので初期の建築年代は江戸時代かもしれないのです、少なく見積もっても100年以上の歴史があるのですから驚きです。

スゴログ 石裂小学校 廃校

2棟在る内の新しい建造物の方が先に倒壊していました、明治時代に数回増築改築を繰り返していた記録も在るのでどちらが強度的に問題が在ったかは判断できません。しかしより古い木造建築物が現在も尚残っている事はその建築技術が如何に素晴らしいかが判断できるかと思います。

住民の方に少々覗いても大丈夫かお聞きしました、手前の草むらには伐採した木材などを置く場所としているそうで問題ないとの事でした。流石に許可無く内部に入る事は躊躇われたので外から撮影できる範囲で少々お邪魔しました、ただ建造物自体も倒壊の危険性があるので早々に立ち去るのですが。

スゴログ 石裂小学校 廃校

近づいてみると思ったより倒壊が近い事を感じさせます、風が吹けばあちらこちらよりミシミシと軋む音がするので時間の問題なのでしょう。

現在どの様に管理されていて今後どの様な経緯を辿るのか、住民の方もご存知ありませんでした。


スゴログ 石裂小学校 廃校

外からなのでハッキリと判断できませんが恐らく、この内部に侵入したと思われる形跡がありました。明らかに目新しいゴミや残留物、そして意図的に破壊してであろう形跡。

こんな山奥の倒壊の恐れのある廃屋に臆せず入れる事には驚きですがその危険性には気付いていないのかもしれません、住民の方も「泥棒の仕業かねぇ」とおっしゃっていましたが過疎地や廃村地域におけるこの様な所業は既に大きな問題になりつつあります()。

注意点
複数の廃村が実際に類似案件によって行政主導の下に解体されています

この調査の後にスゴログのメンバーは「上久我林道(石裂山神水そば うえ田より先の林道)」の調査に向かいました、更に林道から延びる枝道を含めて大変な目に合う話はまた別の機会に。

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参考・協力

鹿沼市役所
鹿沼市観光物産協会
鹿沼市立粟野歴史民俗資料館
加蘇山神社社務所
石裂集落の住民(2世帯)



レポートの場所 ※ GoogleMap登録済



注意点

該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。

スゴログの装備とその使用方法など
https://www.sugolog.jp/p/blog-page.html



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