#005 遠沢新道

スゴログ 遠沢新道

千葉県│遠沢新道

調査:2010年04月

一時期、「保台清澄連絡道路」として廃道系サイトを賑わせた房総半島の古道があった。名を「遠沢新道」と言う。千葉県に住む登山好きや山菜を採る方には意外と知られていて1980年代に行政の調査も入っている、しかし正確な測量などが行われない間々放置されたこの古道は2008年にあるウェブサイトで取り上げられる事で注目される事と成った。

山さ行がねが - 保台清澄連絡道路
http://yamaiga.com/road/bodai/main.html

当時、このレポートが公開されるや否や県内の歴史好きや廃道を愛する方が沢山訪れたと聞く。そして私達スゴログも例に漏れず、更に周囲の地形などを調査しながら独自のレポートを纏める為に現地に向かった。



まず前提として幾つかの予備知識を記載するとしましょう、以下を踏まえて読み進めて頂けると幸いです。

保台古道保存会による説明ページが同会サイトに用意されているが記載分に誤解を生みそうな表現があるので注意して欲しい、参考までに。

保台古道保存会 - 保台古道とは
http://archive.is/PCrTl

この説明ページに出てくる船越 衛なる人物、シッカリとウィキペディアのページも用意されているので参照してほしい。

ウィキペディア - 船越 衛
http://archive.li/HZkg2

船越が晩年、この地を訪れた際に「遠沢新道」が開通したとあるが実はそうでは無い。この古道の開通が確認されたのは確かに1911年頃なのだろう、しかし。

この地域に詳しい地元の方のヒアリング、房総半島の古い登山記録などを漁ると行政も把握していない「この道の正体」が見えてきます。その正体とは江戸時代から続く生活道路、そして物資運搬に利用された産業道路でして。山岳地域においては至極一般的な林道、と言えると思う。

そう、何も特別な道路ではなくて住民に慣れ親しまれた普通の道路な訳だ。

それではこれらを踏まえ、レポート進めると致しましょうか。



スゴログ 遠沢新道

スタートは保台ダムの車両進入禁止柵より、この場所から徒歩でのアタック開始です。1980年代までは県内の登山者なども知る登山ルートとしても知られていましたが治水需要が高まった時代背景を反映させてかダム建設の計画が立ち上がります、それまでは随分と手前から山道を歩きましたが現在ではダムの管理敷地内の端からのスタート、と言う訳です。

1984年の航空写真(https://bit.ly/2Jhvyg6)にはまだ保台ダムも鴨川カントリークラブでさえ存在していない、ダムの建設は前年の1983年から開始されており、1995年辺りにやっと(https://bit.ly/2JvUbcg)ダムとしての姿が見て取れる様に成る。完成は2000年でその年の航空写真ではやっと貯水された状態に、こうして見ると急速な近代化を遂げた地域だと言う事がお解かり頂けるだろう。

更に言えば。

このダムが完成するまでの間は長らくと、解るだけでも江戸時代からは遠沢新道かもしくはそれに近い状態の古道が現在と同じ様に延びていた事が解るだろう。

スゴログ 遠沢新道

現在の古道入口付近、本来であれば既に中域程の場所に。数多くの倒木が重なりあっていたが部分的に伐採の痕跡が、探索時の2010年ではまだ「保台古道保存会」などは発足していなかったので地元の有志が切ったのだろう。

この先に更に凄まじい倒木が存在したが2018年現在は保存会の方々と地元消防団の手によって歩き易く整備されている。

保台古道保存会 - 活動報告
http://archive.li/H3VAC

※ 2014年の記録的な豪雪によってこのエリアは壊滅的な崩落が多数発生しました

スゴログ 遠沢新道

暫く歩くとつづら折れの川の流れと古道が漸く沿う様に、この細い川にも勿論名前があって古道名の由来とも成った「遠沢川」と言う。この付近にはダム側(南側)下流に至るまでに一本化するのだが待崎川に集約される、一番北側の川から数えて待崎川水系上待崎川、待崎川水系鳴子川、そして今回の主役と成る待崎川水系「遠沢川」と三本の川が横並びに地図上では見て取れるだろう。

それぞれの川には遠沢新道の様な川沿いに延びる野道が存在していて古くは製炭産業で使用されていた、その証拠に全ての川沿いに製炭様の釜や炭焼きのカス、選別から漏れた炭屑が落ちていた。

遠沢新道に限り、この様に綺麗に道が整備されていたのは単に「物資運搬」の利用目的があった事が一番の理由だ。またそれが主要とされる理由もあるのだがそれは後述するとしよう。

因みに写真の石垣、野面積みからするとかなり古い。道自体は江戸時代には在った様だが石垣は江戸後期、もしくは明治時代に入ってから簡易的に設置されたものと思われる。

スゴログ 遠沢新道

行政に確認を取ると市歴、町歴共にこの道路に関する詳細な資料は既に存在してはいない様でして。同地域の住民や清澄寺への聞取りでは馬車道として部分整備されていた等の証言も、それが事実とするならば簡易整備区間は馬車道として、未整備区間は背負子道として分別運搬されていたと予測出来る。しかもこれらを裏付ける様に平地が続く場所では道は大きく切り開かれ、高低差や複雑に入り込む箇所は人道としても少々辛い様な変則的な構成になっている。

また途中途中に枝道が残るのは先程も説明した製炭の為の作業道と思われる。

本格的な測量士が入ったのが1930年、地図に記載されたのが翌年の1931年、それまでは地元民が知るだけの古道としての役目が大部分を占めていたのでしょう。

スゴログ 遠沢新道

写真の様に崩落が激しく、ここが道だったか判別出来ない様な箇所が幾つも出て来た。それだけこの古道が風化しているのだと気付かされる。またふと斜面上部を見上げると炭焼きの窯が地中に残っている場所も、ライトで照らして中を覗き込むと黒く煤けているのでそれと解る。

そう、この遠沢新道は古くから物資運搬に利用されていたが「何を運搬していたか」は定かではない。勿論の事生活物資や食料であったろう事は予想に容易いが少ない地域産業として製炭を展開していたこの地においては、恐らくこの「炭」こそが主要な運搬物だったのではないだろうか。

スゴログ 遠沢新道

古い古いと連呼してはいるが実はこの様な近代的な忘れ物も発見出来る、実を言えば戦後の1960年代までは製炭産業は残っていて半世紀前までは頻繁とは言えないがそこそこ利用されてはいたのだ。そして廃道に至るまでの緩やかな時代に移り変わりまで、本来の利用方法ではなくても人の出入りはあったのだ。

スゴログ 遠沢新道

作業小屋と製炭釜の跡。

この石垣の上には簡易的な作業小屋が建てられていて、釜の熱を利用した何かしらの作業が行われていた様だ。この辺に関しては詳細は判明しなかったが教育委員会経由でこの地域の製炭産業を知る地元のSさんをご紹介頂いた時、そのお父様が製炭をしていたと言う事で面白い話を聞けたのでご紹介したい。



「この道路を利用して何度も父の製炭窯や作業小屋に通った、当時は幾つも窯が在って一人で複数の釜を管理していた」

「川の水はもっと高くて(水位が高くて)その為に作業小屋を作る人は増水を恐れて斜面に建設した、新しい人は既に水位が低く成っていたから川沿いに高台を作って小屋を建てた」

「ここ(資料として持参した昔の地図を指して)、ここで道が三又に分かれていた。それとこっち、こっちは寺に行く道だった」

この他にも馬車や木製の荷台車の話、当時の風景などを聞く事が出来たが気に成るのは記載した3点。やはりこの道は製炭の産業道路、生活道路して機能していた事が解る。

房総半島の製炭は1970年代で終焉を迎えている、野面積みの石垣の所為で時代の推測が難しいけれど製炭産業は1700年代後半には始まっており、より多くの貨物を運ぶ為に後年に成岸工事を行う際により強固な道として石垣を作ったと見るべきだろう。

そして水位、これは少々専門的な地質学の話に成るので割愛するが簡単に言えばこの水位の変化が江戸後期にこの区域と言うか房総半島全体で確認されている。よって石垣の積まれた高台は恐らく明治時代の作業小屋ではないかと推測出来る。

最後に道の分岐、これは推測の域を出ないのだが方向的に清澄寺が在る現在の清澄山、そして元清澄山の方向を指していた事から山中参道としても利用されていたのかもしれない。この辺は更に調査すれば関連資料が出て来るのでその内追記したいと思う。

スゴログ 遠沢新道

遠沢新道中腹、折り返し地点とも成る掘割に到着した。

ここから有名な連続隧道がスタートするのだがその辺の流れは廃道サイト「山さ行がねが」にてご覧頂ければと思う、スゴログでは更にこの古道の歴史を掘り下げていこう。

スゴログ 遠沢新道

先程の掘割から間もなく、この連続隧道区間に入るのだが一般的に素掘隧道と言えばこの様な形状をしているだろう。それは隧道を掘り進める過程で一番楽で一番早いからに他ならない。

しかし国内の坑道や一部の隧道には一風変わった形が在るのをご存知だろうか。

※ 写真は第7号隧道

スゴログ 遠沢新道

それがこの「頂設導坑式」と言う形状、トンネル掘削などの土木業界では「オーストリア式」と呼ばれるがその主たる施工例は日本だ。そして何故この頂設導坑式と呼ばれる五角形の形に掘削しているのか、それには「物資運搬については後述」と記した理由がこの形と密接に関係があるからだ。

それでは説明しよう。

まずこの道が馬車などを活用した「産業道路」として利用されていたのは既に書いた、そうなのだ。「馬」が通る、これこそがヒントとなる。

当然の事ながら馬の背丈は人間のそれより高い、そうなると人道より高く掘る必要があるのだが一般的な半円の隧道にすると高さに比例して横幅も大きくしなければ成らない。効率良く隧道を掘る為に採用されたのがこの頂設導坑式なのだ、この掘削方法は少々特殊で掘削効率が良い上に幅を広く取らなくとも崩落の危険性が低い事で坑道などにも採用されている信頼の形状でもある。

これでこの形状と何故この形状の隧道が縦に長く掘られているのかがお解かり頂けただろう、ただ疑問も残る。

「なぜ全ての隧道が頂設導坑式ではないのか」

これには幾つか仮設があり、全ての隧道が同時期に掘削着工したのでは無い事や他にも迂回路が在った事、後に人道として新たにバイパス工事が行われて現在の遠沢新道として落ち着いたなど聞く話も多い。確かに着工時期が違う事はそれぞれの隧道の掘削方法と完成度の違いで判断は出来る、確証をもってお伝え出来ないが数々の証言と状況証拠がこの仮設を裏付けている様に思える。

※ 現在低い隧道もありますがこれは風化の過程で埋没したものと思われます

スゴログ 遠沢新道

終盤の見所、片洞門。

この掘削方法も独特で掘削当時のトレンドだった、場所を選ぶ工法だが隧道に比べれば大幅な効率化が図れたので全国的にも採用された場所は意外と多かったそう。

スゴログ 遠沢新道

最後に1971年の航空写真を。

この写真からは数年後にダム建設やゴルフ場建設が行われるとは到底思えない山深いエリアだと解るだろう、現在のダム部分には農耕地と小規模の集落…と言うか数軒の家屋が在った。遠沢新道へ至ると更に小さな農耕地が棚田状に確認出来る、更に記録によれば極々小さな果樹園の様なものも在った様だ。

生活道路として、産業道路として。それぞれの役割を果たした遠沢新道、この付近で1937年になんと鉄道計画の為の立入測量が行われていた。地形の複雑さ故に計画は見送られたがもし鉄道が敷かれていたら現在は待ったく別の繁栄の可能性もあったのだ、当時の詳細は以下より。

天津/鴨川・亀山間鉄道敷設計画
https://bit.ly/2kPp3qk

この地に運搬手段として鉄道も検討されていたと言う事実、上記リンクのPDFを読み進めると目的は全く別だと理解出来るがたった一つの廃道がこれだけの歴史と可能性を秘めていた事に驚きを隠せない、更にまだ未調査の上待崎川、鳴子川の噂される作業道も残されている。

この保台ダム周辺の歴史には興味が尽きない、今後も来訪する事に成りそうだ。

【参考・協力】

鴨川市企画政策課
全国建設業協会
全日本建設技術協会
保台古道保存会
天津/鴨川・亀山間鉄道敷設計画



【 レポートの場所 】



【 注意点 】

該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。

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