#004 追原集落

スゴログ 追原集落

千葉県│追原集落

調査:2009年12月

千葉県の房総半島中央に位置する養老温泉、その温泉地から以外と近く参拝客も多い清澄寺を通る清澄養老ライン上に黄和田畑と言う地域が在る。旧名称は黄和田畑字、養老川の支流七里川が眼前を流れていて自然豊かな素晴らしいロケーション。

その七里川を挟んで1960年代後半まで小さな集落が存在していた、それが今回ご紹介する追原集落だ。存在は随分前から知っていて丁度その頃にこの地域の自然を壊しかねないダム建設計画が挙がり、その話題を知って現地まで訪れたのが最初となる。それから10数年が経過し、今度はその廃集落に残る「大楓」なる大木を山岳会経由で知る事となった。

その大木は大層綺麗で、集落のシンボルとして人々に愛されたのだと言う。房総半島にもそんな素敵なエピソードと共に残る大木があるならば是非とも記憶に留めたい、そう思い久し振りに彼の地へ赴いた。



スゴログ 追原集落

追原と書いて「おっぱら」と読む、房総半島には幾つか難読地名が存在するがこの追原集落も同じく珍しい読み方をする地名だ、由来は幾つかあるのだが確定的な情報は得られなかったので興味がある方は各々調べて欲しい。

冒頭の通り、1950年代までは存在していた千葉県では珍しい廃村になる。記録では1955年頃までは確実に居住していたとあるがどの住宅も古くて木造だった為に現在では殆どが崩壊してしまっていた。一部小屋の様な残骸もあるがこれは後の林業で使われた新しい物で集落とは関係がない。

当時対岸の黄和田畑字地区には幾つかの家屋と神社が在った、この追原集落はその個々の家屋とも家系的に繋がりがあって人々の往来は少ないまでも頻繁に行われていたようだ。基本的には北側と南側の吊橋が往来に利用されていた往来路だったが1950年代の時点では北側の吊橋は崩落、村へ行くには補修新設された南側ルートのみであった。

しかしこの橋も現代においては崩落の危険がある古い物、2011年にはついに対岸へ渡る事が禁止され、一部の行政関係者と対岸での農業開墾者、そして林業関係者が使用するだけとなる。

※ レポート当時は渡橋可能な状態でした
※ 現在の廃集落に向かうには渡河するしか方法がありません



スゴログ 追原集落

橋を渡ると左に折れ、地元の方が開墾した小さな農業地が姿を現す。この場所へ重機は入れないので手作業で山を切り開き、斜面に農地を作ったのだと言う。戦後の植林時には随分と大勢の人が往来した様だが今と成っては先程書き記したとおり、限られた人だけが通る野道の風体だ。

集落が現役当時はこれとは別の道があり、こちらも往来があったが集落までは遠回りだった事もあり、整備は基本的に行われていない。なので行程の殆どは踏み跡を追う様に進むしかないのが若干不安かもしれない、途中の植林地帯は特に道が判別し辛い現状といえるだろう。

スゴログ 追原集落

植林地帯に残る作業小屋、これは集落とは無関係な植林時代の遺物だ。

スゴログ 追原集落

植林地帯を抜けると地図には描かれていない小さな流れを発見できる、集落が現役当時は付近に田畑を作っていたと記録にあって人工的な農業用水路を構築していたとも話を聞く。しかしそのどれもが自然に還っているのでこの流れが自然の物なのか人工的な物なのかは判別出来なかった。

スゴログ 追原集落

ゆっくりと歩いて20分位だろうか、ヤマビルやマムシの重なる歓迎を受けながら目的地だった追原集落へ到着した。集落中央には恐らくとランドマークだった件の大楓が、これが噂に聞いた「追原の大楓」だろう。

比較的近代的な石垣の上に鎮座する大木は存分とその姿に威厳が満ちていた、雰囲気と相まって非常に素晴らしい景観だ。

斜面に作られた集落故か、棚田の様に家々の跡や階段、水路跡などが見て取れた。集落の端の方には無縁仏と辛うじて古い文字が読み取れる墓地が、周囲には朽ちたドラム缶や茶碗の欠片、くすんだ一升瓶などが散見出来た。

目を閉じればそこには日本の原風景が浮かぶ、時代に取り残されたこの大楓は生き証人として今後もこの地を守り続けるのだろう。



さて、それではもう少しこの追原集落を知ってもらう事にしようか。

この追原集落、正確には折口原と言う場所に位置していて集落から少々離れた渓谷には七里川水系の阿武隈川が流れている。集落自体の歴史は古く、江戸時代の中期には数件軒を連ねる様に家が建てられていたと文献に残されていた。

山中集落は田園などの水田農業が難しい為に主な産業は製炭(小規模ですが農作は行われていた)、そして木材の販売だった。明治維新後に国から周辺の田園造成許可と技術提供を受け、斜面に小さな田んぼを作ったのがこの集落での農業の始まりだ。山中には現在では使用されなくなった作業道が幾つも在るがハッキリと道筋が残るのは3本程、その1本は東京電力の定期検査用として使われ、山歩きの方には残りの集落よりの廃道が有名だ。踏み痕もシッカリしていて今でも人の往来は少ないながらも在るのだろう、近年に成って行政の手も入っている。

時代は流れて1950年代、戦後復興もひと段落した時代で山間部での農業は自給自足も間々成らない状態で続けられていた。しかし自然減少した後に残っていた3家屋の住民も次第に近代化された世相を慮ってか1959年、とうとう最初の転居者を輩出します。

以降1967年までに全ての住民が七里川対岸、もしくは親戚筋を頼って別の地域に越して行きました。と、言ってもキッカケはこの七里川を跨いでいた吊橋が増水で崩落した事が原因。この橋の崩落によって買物やその他の物資のやり取りに支障が出始めた事で転居を決意された様です。

※ 北側の吊橋の崩落理由となります

そして1975年、千葉県はこの場所を含む黄和田畑地域に巨大な744トン級のダム建設を計画します。行政広報から一般の周辺地域に住む住民に伝えられたのは1982年、そこからゆっくりと計画は進行して1990年代に成る頃には本格的に地域住民による建設反対の活動が開始されます。

夷隅郡市自然を守る会 - 会報
http://archive.is/NlqWa

1998年、この年から活発化した反対活動は幾つかのNPO団体が団結して行政と対峙する様相に。工事の本格着工を目前に周辺の住民もダム建設に伴うメリットとデメリットに右往左往しました。

追原を歩く会 - 追原ダムの本格着工休止に思う
http://archive.li/Zb2rJ

住民の反対活動が実を結び、県事業評価監視委員会では「今後2年間、本格的な事業着手に入ることを当分中止するよう求める意見で一致」と成りました。1997年に結成された「追原を歩く会」が中心と成り、地元住民の心情を行政に訴えた事が大きく状況を変えました。

小櫃川源流域の自然を守り育む連絡会 - 追原ダム建設中止へ
http://archive.li/x8IDK

そしてとうとう行政の計画を覆し、ダム建設は中止へと大きく傾きます。

追原を歩く会 - 追原ダム計画は中止になりました
http://archive.li/dIHhR

2001年01月25日、県は追原ダムの中止を発表。これにより追原集落を飲み込む程の巨大なダム建設は中止・廃案と成りました。

数奇な運命を辿った廃集落「追原」、恐らくですが殆どの主要歴史の経緯は辿れた筈です。2018年現在でも廃橋の補修は行われておらず、渡橋は禁止されています。

集落自体へ面倒かもしれませんがもう少し北上した入渓地から川を渡り、最短ルートで登山ルートを歩かれる方が良いでしょう。

【参考・協力】

君津市総務課
夷隅郡市自然を守る会
小櫃川源流域の自然を守り育む連絡会
追原を歩く会



【 レポートの場所 】



【 注意点 】

該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。

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