#002 鹿島海軍航空隊基地

スゴログ 海軍鹿島航空隊基地

茨城県│鹿島海軍航空隊基地

調査:2009年12月

2010年最初のレポートは茨城県においてその歴史的価値が非常に大きいと言える軍需遺構「鹿島海軍航空隊基地」です。戦時下、軍国家としても利用価値の大きい大日本帝国海軍航空隊の1つとして建設された飛行場とその関連施設群。1920年から本格的に運用され、戦時中の国策を担う上でも重要な役割を果たした施設だった様です。

まずはグーグルマップで空撮写真をご覧頂きたい。



左下の建造物手前には「元鹿島海軍航空隊基地の跡」と刻まれた記念碑が建立されており、大きな防空壕の様なコンクリート製建設物は燃料庫として使用されて付近はその関連施設の痕跡も見て取れます。

現在は付近の農家の農業用工具などが保管されていて二次使用が行われている、広大な敷地を誇るこの物件だが航空写真でも解る通り南側は大規模なソーラーパネル(美浦村太陽光発電施設)が設置されてしまいその景観は以前と大きく異なる。

時期はハッキリしないが来訪当時の2009年は一面荒れ果てた背丈ほどの雑草に囲まれており、東側の駐車場なども存在していなかった。敷地内道路の整備は2012年辺りから開始され、現在は施設内移動の為に運用されている。

そうそう、意外と知られていないがこの場所が「水上機搭乗員養成基地」であった過去だろう。つまりあくまで”海軍所属”の航空基地としての重要性よりも海上戦に特化した人材を育成・運用する為に作られていたと言う事実だ。水上艦や潜水艇などの訓練もこの基地や付近の海域で行われていた記録が残っている。

しかし時は既に海上戦より空中戦をメインに展開され、軍需産業も船よりも飛行機を主要鉄産業として捉え始めていた事もあり、結局は海軍兵学校出身の飛行学生や各隊の志願者から優秀なパイロットを養成する機関として転換運営したそうだ。この方針決定は早急に行われ、開隊から1年も掛からなかった事で当時の軍部は随分と評価を上げた事だろう。

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整備工場跡。

と言ってもかなり小規模な工場だ。飛行機と言うより各パーツや小型海上艇などの整備・改良などを行っていたものと思われる、この工場までには以前移動用レールが延びていたが現在は撤去されている。

既に解隊されてしまった発電施設とこの整備工場は場合によって度々その役目を交換していた様でどちらにも発電施設の痕跡が残っており、どの工場にもその痕跡も見受けられた。これには幾つか予想出来る事があるが判断材料が少ないので明言は避けよう、ただ突発的な運用転換によって設置された各施設も試行錯誤しながら運用されたのだろう。

スゴログ 海軍鹿島航空隊基地

グーグルマップでとても写りの良い空撮写真を見る事が可能なので建造物一つ一つをフォーカス、この建造物と二つの貯水槽はこんな感じだ。

これより常用新聞社が出版した「等身大の予科練-戦時下の青春と、戦後」の販促用の紹介文を一部引用しながらレポートを進めよう。



霞ケ浦海軍航空隊の発端

わが国の海軍航空の始動は、日露戦争の経験を土台に始まった。1910年(明治43)年、航空技術研修のため有能な士官を欧米諸国に派遣し、1912年に海軍航空術研究委員会が正式に発足し、海軍航空術研究所が横須賀軍港追浜に建設された。

この建設と前後して、先に派遣されていた士官たちも研修を終えて帰国し、米国のカーチス飛行機と仏国のファルマアン飛行機の2機をもって、1912(大正元)年11月、追浜で飛行したのが、わが国海軍による飛行のはじめといわれる。

以後、海軍の体制づくりは着々に進められ、1916年4月、わが国最初の海軍航空隊が横須賀に開設され、海軍の航空技術教育が正式に開始されることになった。

時代は、陸・海から空の時代に入っていった。わが国も各国の航空軍備の発達に刺激され、飛行機の研究と局地的防御を行うために、水陸両用の飛行場を開設する必要が、1917年欧州から帰国した金子養三中佐によって提唱され、当時来日していたフランスのフォール大佐の助言によって、飛行場の開設が決定されたという。そして、水陸両用飛行の訓練用地として、当時の阿見村に白羽の矢がたった。

1919(大正8)年末、陸上機の練習場として阿見原に80万坪、水上機の練習場として阿見村霞ケ浦湖岸に約5万坪の土地買収が決定。湖岸の埋め立てをして1920年、霞ケ浦飛行場が開設された。

(『阿見町史』より)

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霞ケ浦飛行場、用地選定理由と買収経過

陸上自衛隊武器学校編『郷土史』は、霞ケ浦飛行場の選定理由と土地の買収について次のように記している。

「この地は、金子養三中佐が発見し勧奨した…のであるが、陸上機の練習場として好適なばかりでなく、水上機の練習のためには、霞ケ浦の湖面を利用することができるので、海軍における水陸両用の飛行場としては、全く申し分ないところであった。…霞ケ浦飛行場の開設は、大正9(1920)年3月に、通称阿見原85万坪を買収したが、大部分が原野で、土質は悪く畑地に開墾しても農作物の収益は思わしくないところに、住家もわずかしかなかったので買収はきわめて順調に運び、その後1年がかりで整地と霞ケ浦湖岸の埋め立てが完了して、大正10年4月に臨時海軍航空術講習部の看板が掲げられた。これが霞ケ浦航空隊の草創期であった」

しかし、買収は必ずしも「順調」とはいえなかったようだ。当時の『東京日日新聞』茨城版は「阿見飛行場の住民 500名立ち退きを嫌って騒ぐ/移民の喧噪が全敷地内に波及す/近く委員を挙げて当局陳情」の見出しで伝えている。

(『阿見町史』より)

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霞ケ浦飛行場の開場

1921(大正10)年7月22日、霞ケ浦飛行場の開場式が行われた。『霞空十年史』によると、その様子は次の通りだ。

「阿見町は勿論、近郷近在の老若男女、実に5万人が空の妙技を見んものと朝まだ早きからつめかけ、1年前の狐狸の棲家だった阿見原は人で埋まった。アヴロ陸上機3機編隊飛行、特殊飛行、オードリース少佐の落下傘降下に一同賛嘆措(お)くところを知らなかった」

こうして、阿見の地は、日本でも有数の海軍の街としての歩みを始めた。水陸両用の飛行場を備えた霞ケ浦航空隊は、おりからの航空機の世界的発達に伴い、世界一周ブームが起こり、離着陸場となった。

1924(大正13)年5月には、アメリカのスミス中尉の率いる水上機3機が飛来し、7月にはイギリスのマクレラン少佐の水陸両用機、10月にはアルゼンチンのザンニ中佐の水上機が飛来してきた。中でも有名なのは、1929(昭和4)年の飛行船ツェッペリン号の飛来である。

(『阿見町史』より)

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ツェッペリンとリンドバーグ

飛行船ツェッペリン号は、世界一周の途中、1929(昭和4)年8月29日午後6時すぎ、西陽に巨大な銀色を輝かせながら、霞ケ浦上空に姿をみせ、東京・横浜上空を表敬の飛来をした後、午後7時40分に霞ケ浦海軍航空隊の飛行場に着陸した。

この飛行船は、当時世界最大で、その訪問はわが国の国民によって熱狂的な歓迎を受けた。アメリカのロサンゼルスに向けて飛び立つまでの4日間に、飛行船をみるために約30万人の観衆が飛行場に集まったという。

1931(昭和6)年8月には、太平洋横断飛行・アメリカ大陸横断飛行で、“空の英雄”ともいわれたリンドバーグ夫妻が、アリューシャン列島づたいに飛来してきた。これらによって、霞ケ浦航空隊と飛行場は、世界的に注目を集めていった。

そして、この年には、わが国海軍航空隊17隊半のうちの4割強にあたる7隊半が、集中することになり、東洋一の航空隊の基地になった。

(『阿見町史』より)

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お隣へ移動。

内部も沢山の残留物が、雰囲気も良いが何故か余り興味を惹かれなかった。と言うより同行された現地NPOの職員さんが非常にこの土地の歴史に精通しており、軍事需要の他にもこの施設で行われた住民の避難訓練や祭事、尋常小学校に通う児童の思想誘導(軍事国家としての思想を幼少期より刷り込む為に行われていました)など色々とお話頂いた事で完全に意識がそちらへ向いてしまったのだ。

因みに開隊の翌年に建造されいる、内部の焼却炉も開隊の1938年の翌年と成る1939年製だ。



海軍の街に変化した阿見

昭和初期は戦争の時代だった。1931(昭和6)年の満州事変勃発、1933年の国際連盟脱退などを背景にわが国の海軍は、航空隊要員の大量養成を計画。すでに1930年6月に海軍少年航空兵の募集を開始、さらに航空隊の増設と既存航空隊の整備を急ぎ、1934年8月には友部に筑波海軍航空隊の前身である霞ケ浦航空隊友部分遣隊を設置した。

1937年7月、日中戦争が勃発。長期戦に備えるために、練習航空隊2隊以上による練習連合隊の制度を設け、1938年に第11連合航空隊を開設、その司令部を霞ケ浦海軍航空隊に置いた。また、同年に練習連合航空隊を統制する必要から練習連合航空総隊を結成、霞ケ浦海軍航空隊内に司令部を置いた。

阿見は、わが国の海軍航空要員養成の中心機関としての航空隊の設置により、海軍の街として大きく変化した。

1920(大正9)年の阿見村人口は 603戸、3892人だったが、1937年には1238戸、7964人と2倍強に増加した。1937年の現在人口は、本籍人口の 1.6倍、男子が女子の 1.7倍という数字からも、航空隊の設置が村の姿を大きく変えたことが分かる。

(『阿見町史』より)

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霞ケ浦海軍航空隊と土浦海軍航空隊

航空兵の大量養成に迫られた海軍は、1939(昭和14)年3月、飛行予科練習生の教育を、横須賀海軍航空隊から霞ケ浦海軍航空隊に移管し、同隊の中に海軍飛行予科練習部を設置した。

1940年11月15日、霞ケ浦海軍航空隊の水上班を母体にした土浦海軍航空隊と博多海軍航空隊(福岡県)を新設。これにより、阿見には霞ケ浦海軍航空隊と土浦海軍航空隊の2つの航空隊が置かれた。当時の新聞は、開隊式のもようを「海の荒鷲育ての親 海軍航空隊開隊式 けふ霞ケ浦湖岸で挙行」の見出しで次のように伝えた。

「わが国の荒鷲育成に全国唯一の霞ケ浦湖畔土浦海軍航空隊の竣工に伴ふ開隊式は、今10時15分から海軍大臣代理塩沢横須賀鎮守府長官以下関係多数列席の上挙行され、霞空の少年航空兵によって祝賀飛行が行われるだけで、催しもの等は一切なく、時局下にふさわしい簡素な開隊式である」

当時の阿見村には、両航空隊のほか、海軍第11連合航空隊司令部、海軍練習航空隊司令部、第11海軍航空廠、横須賀海軍経理部霞ケ浦支部、横須賀海軍施設部、海仁会霞ケ浦支所、海軍気象学校、海軍病院、中島飛行機製作所阿見出張所、隣の舟島村(現阿見町)には飛行艇格納庫が置かれた。

(『阿見町史』より)

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茨城県初の舗装道路

「阿見町史研究」創刊号に収められた湯原又右衛門文書に「回顧スレハ航空隊設立ナカリシ以前ハ、我が阿見ハ農業ヨリ外ニ業ナク、人家ハ阿見原ニアリト雖トモ、豚小屋式ノ家屋、原野ノ間ニ点々存在ス。交通不便、道路粗悪、荒川ヘ行クニモ跣足ナラズ行ク不能、誠ニ不便ノ土地ナリ」と記された阿見は、航空隊設置で大きく変わった。

「粗悪」であった道路も改良され、1921(大正10)年には、土浦自動車商会によるバスが阿見-木原線に開通し、1923年にはアサヒ自動車の阿見飛行場行きが開通した。常磐線も同年、土浦駅まで複線化した。1924年に水郷汽船が開通し、1926年には常南電車が土浦-阿見間に開通した。さらに、土浦駅から荒川沖に至るまでの、霞ケ浦航空隊水上班、同陸上班を通る、幅8間の通称海軍道路といわれた舗装道路ができた。この道路は、本県で初の舗装道路だったという。

このように航空隊の設置と交通網の整備などによって、大正末から昭和の初期にかけて、水上班の前には、土産物店、食堂、酒屋、肉屋、魚屋、薬屋、呉服店、染物、履物店等々の商店が次々とつくられ、1つの市街地を形成していった。

(『阿見町史』より)

農業人口を上回った軍関係

阿見村内で、1944(昭和19)年5月までに海軍用地として買収された土地は、田73.1町、畑211.2町、宅地 5.2町、山林 135.4町、原野16.5町、計441.5町にのぼった。このため、「本村中央部ハ軍ノ敷地トナリ、為メニ各部落ニ連絡スル町村道ハ殆ンド中断セラレ、連絡ニ統一ニ極メテ困難ヲ来シ、尚、国民学校児童ノ登校ハ亦極メテ不便ナリ」という状態になった。

1943年度阿見村立国民学校児童調によると、在籍児童1190人中の56%にあたる668人が軍関係の子弟で、1940年以降、児童数の増加で毎年学級増を必要とした。1944年2月の職業別戸数では、軍関係が43.7%で、2位の農業36.4%をかなり上回っていた。

軍関係施設が拡張の傾向にあった1942年以降、村では、海軍用地の買収による村税、付加税の収入減、村民利用の町村道の修理拡張、児童数増による国民学校の教室の増築などの問題に直面した。村役場では国税付加税の制限外課税の認可や、町村改築事業県費補助および海軍省助成金の交付増額により解決を図ろうとしたが、1945年4月、軍関係の強い要望のもとに町制を施行した。

(『茨城県史 市町村編Ⅲ』より)

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美浦村湖岸の航空隊

現在の東京医科歯科大学霞ケ浦分院・国立公害(環境)研究所の地(いずれも現美浦村大山)は、日中戦争・アジア太平洋戦争当時は海軍航空隊の基地であった。

1937(昭和12)年ごろ、大谷地区からの軍用道路と水道建設工事をはじめ、航空隊敷地になる水田・野原の埋め立て整地工事が行われた。

当初は、安中航空隊(仮称)と言われていたが、1938年5月11日霞ケ浦航空隊安中水上隊となり、同年12月15日、日中戦争たけなわの時、開隊された。最初は練習航空隊として水上機操縦訓練を主として行い、多くの飛行学生・飛行練習生を擁していた。

現在でも、霞ケ浦に面した病院の北側、東側には当時の水上機の滑走路跡が残存している。安中水上隊基地は、どんな風向きに対しても飛び立てる立地条件をもち、練習には好適地であったと伝えられている。

1945年5月5日に、練習航空隊の指定を解除され、鹿島北浦派遣隊となり、鹿島航空隊と呼ばれるようになった。鹿島航空隊の任務は、内地防備・鹿島灘対潜作戦・搭乗員教育などだった。

(『美浦村誌』より)

鹿嶋市と神之池海軍航空隊

茨城県は長い海岸線の鹿島灘に面し、首都東京に近接しているなど、首都圏の防衛にかかわる軍事的・地理的な自然条件が備わっていた。そのうえ、軍事施設の設置に十分な土地と広大な平地林が各地域に分布していた。これらの立地条件から太平洋戦争では軍用地として使用され、陸海軍の航空隊基地などの軍事施設が次々と増設されていった。

鹿島地域には、神之池海軍航空隊基地と鹿島地区防空監視隊が設置された。

1940(昭和15)年ころから43年にかけて、旧高松村(現鹿嶋市)の粟生・国末・泉川と旧息栖村(現神栖町)の居切の岡と浜の中間にまたがる約500㌶の広大な土地が、飛行場用地として買収された(現在の住友金属鹿島製鉄所)。基地の建設工事も急ピッチで進み、1800㍍と1400㍍の2本の大滑走路も完成した。

1944年4月、戦闘機の訓練基地として神之池海軍航空隊が正式に開隊され、多数の海軍の隊員が集結した。その中には、士官候補生、予備学生、予科練出身の搭乗員や整備員らがいて飛行訓練が開始された。

(『鹿島町史』第5巻より)

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少し時間を進めます、敗戦が色濃く感じられ始めた翌年の2月からの記載を転載。



太平洋戦争末期の筑波海軍航空隊(友部)

太平洋戦争もおしつまった1945(昭和20)年2月の特攻訓練は、わずか2カ月で修了する猛訓練ぶりだった。

訓練項目は、離着陸8回、編隊7回、計器飛行10回、航法訓練5回、特攻攻撃法10回、薄暮飛行6回、定着5回、最後に総合訓練が行われた。このうち特攻攻撃法と総合訓練に零戦が使用され、他は練習機が使われた。計器飛行、零戦操座は2月22日から1週間、北浦鹿島で訓練が行われた。3月から4月にかけて、筑波航空隊で特攻攻撃法や夜間訓練、総合訓練が行われた。

訓練を修了した若い飛行士は、特攻要員として九州や沖縄に配置されていった。

筑波航空隊でも3月28日、神風特別攻撃隊筑波隊が8名編隊で8隊、計64人で組織された。特攻隊員は各隊長が中尉で、小隊長、隊員は全員が少尉で、隊員のほとんどが20代の前半で学徒兵だった。

練習航空隊の筑波航空隊でも「ゼロ戦」か「紫電攻」が配備され、実戦さながらの訓練が行われ、特攻隊も組織された。4月20日には練習航空隊の指定を解かれ、作戦部隊に昇格し、特攻隊を編制する完全航空隊になった。

(『友部町史』より)

実戦部隊になった筑波航空隊(友部)

1945(昭和20)年4月20日、筑波海軍航空隊は作戦部隊に昇格し、特攻隊を編制する完全航空隊になったが、5月1日現在の使用可能機は、零戦12機、修理中18機、紫電改12機、修理中8機だけだった。5月末の報告では、零戦修理中6機、紫電改21機、修理中49機だった。

当時の司令は中野忠二郎大佐、飛行長は横山保少佐、遠藤三郎少佐、通信長北原正一少佐で、教官、飛行士、整備士、通信士、気象士、軍医など士官は274人。下士官、兵は、兵科 222人、飛行科 346人、整備科1456人、機関科192人、工作科 118人、看護科17人、主計科 132人、その他39人、合計2522人だった。学生ゼロ、臨時講習員9人だった。

筑波航空隊では5月、ゼロ戦、特攻隊員を送り出し、紫電改が整備されて首都防空の一翼を担うことになった。5月8、17日に警戒配備につき、24日B29を1機撃墜、25、26日B29が茨城上空を飛んだため紫電改8機が空中待避、28日P51の8機編隊が航空隊上空を飛行したため総員待避、警戒配備についた。30日も爆音がとどろき、飛行機を分散させ警戒体制をしいた。

(『友部町史』より)

スゴログ 海軍鹿島航空隊基地

海軍の航空隊基地として建設され、戦時下の状況変化によって水上機搭乗員養成基地と転換した「鹿島海軍航空隊基地」。近代土木遺構としてもその注目度は非常に高い、現代に残る数多の資料を読み解くと更にその重要性に気付かされる事だろう。

初回の来訪で基地全体の歴史に興味が出て来たので今回取材許可が下りなかったもう一つの重要建造物への取材申請を早速とした、そう…この基地の本丸とも言える「鹿島海軍航空隊指令室」だ。近年では珍しく強固に施錠された廃墟なので当時の姿を比較的綺麗な状態で残していると聞く、これは取材対象としても期待出来そうだ。

そう遠くない内に、この司令部の内部とその歴史をご紹介出来ると思います。

【参考・協力】

美浦村役場
常用新聞社
等身大の予科練-戦時下の青春と、戦後



【 レポートの場所 】





【 注意点 】

該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。

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