地域産業を支えた小さな真珠養殖場、しかしその需要価値は日本全国に波及したと言っても過言ではない一時代を築き上げた場所でした。亀小島、亀甲島など多様な呼ばれ方で親しまれた小島はかつて宮古島と呼ばれ、その歴史を紐解くと驚くべきエピソードが。アクセス困難なこの亀野小島の歴史をご紹介します。
長崎県│亀野小島
調査:2011年08月
再訪:2011年09月
公開:2013年08月31日
名称:高島真珠養殖場俵ヶ浦分場
状態:アプローチルート荒廃
旧サイトで公開していたレポート内容を2023年現在の調査内容に統合して再エントリーしました。また古くなった情報などは精査して削除しております。
また掲載されている写真は崩落が進む以前の2011年時の物です、現在は渡島橋や残留物の崩壊が進んでいて同様の景観は望めません。
旧サイトでの公開当時、この亀野小島に関する来訪レポートは皆無。池島のムック出版企画で取材撮影に赴いた際に佐世保市役所の職員さんから教えて頂いた真珠養殖場の話、それを手掛かりに荒廃した廃道を進むと眼前に海が見えました。
明治に生まれ、大正を駆け抜いて、昭和に没した真珠王の物語。貧困から大富豪へ登り詰めた高島末五郎という人物の生涯エピソードと共に運営拠点のひとつだった真珠養殖場をご紹介します。
潰えた山道、通勤は小型船だった養殖場
今回来訪した亀野小島、役所で教えて頂いた場所と地図を照らし合せながら廃道を探したのですが非常に困難を極めました。と、いうのもスゴログが来訪した当時、まだこの亀野小島は今ほど一般認知されておらずウェブ上にレポートなどは皆無。職員さんから聞いた話だけを頼りに真珠養殖場だという小島を目指します。
初来訪時、まだこの先の俵ヶ浦小学校(1879-2017)を目印に道を教えて頂いた。ホタテの貝殻のような扇状丘陵の根本に位置する学校で裏手からは丘陵地に耕作した棚田への作業道が何本か海に向けて続いています。
亀野小島へのアクセスルートはこの作業道の一つを使って向かいます。
今回は一番左側、俵ヶ浦小学校の裏手に回り込む判り易いルートです。他にも学校から東側の神社の手前から丘陵地に下る作業道、花の森公園から海岸へ向かう作業など幾つかの候補はあります。白浜海岸から海岸沿いを歩く、非常に遠回りなルートもありますがこちらは一番おすすめできない行程です。
と、言ってもどれも廃道化しており、藪漕ぎは必須となります。因みに周囲に点在する丘陵帯の棚田は近代化と共に廃田になっていて真珠養殖時にも既に使われていなかった道が殆どです、故に養殖場に就労していた約50人もの従業員は小型船で亀野小島へ通勤していました。
高島真珠養殖場俵ヶ浦分場は1913年から運用開始されているのですが戦後は棚田管理がとまり、廃道化したので創業当初は山道を利用していたと思われます。
最盛期は1950年代後半、1970年代以降は安価な海外養殖が国内市場に参入して2000年に養殖停止。2002年廃業となるまで一時期は日本を代表する真珠業として名を馳せました、この辺りのエピソードは追って説明していきましょう。
車道から暫くは踏み跡のしっかりした道が続きます、旺盛時は農業に使用されていたので道幅もあります。
少しづつ踏み跡が浅くなり、作業道の判別が曖昧になってきました。GPSを頼りに方向を確認しながら進みます。
ルートによってはピークに出ることもあります、見違えて別の扇状丘陵に出てしまうと海を前にして崖だったり急斜面だったりと危険を伴います。棚田が管理されていた当時は各棚田に降りる為の枝道がありましたが現在では土砂埋没や天候による地形の変化なのでそもそも踏破できない状況もあるので注意が必要です。
丘陵を下る手前に祠がありました、海を見下ろせる位置にあったであろうこの祠の周囲には樹木が生い茂り、今では緑に囲まれています。
この一帯の扇状丘陵には類似する祠が複数確認されています、棚田があった頃の地鎮の類と思われます。
左側に廃屋の屋根が見えてきたらもう直ぐ海に出ます。
注意点
この廃屋は1960年代後半に新築されたものでこの民家の住人は元々隣の敷地に木造の家屋で生活していました、古い家は1970年代に1990年代に取り壊されて現在は新しい家屋の廃墟が残されています。家屋新築の際、亀野小島への道が少々変わりました。これは新しい家屋が旧来の道を塞ぐように検察された為、迂回路を新たに開拓したことが理由です。
渡島橋まで辿り着きました、来訪時はまだ踏板が残っていましたが2023年現在は所々崩落しており、橋を使用するのは不可能です。
干潮時だと橋を渡らずともその間々陸続きに成るので渡る事が可能なので徒歩での渡島をお勧めします。
注意点
渡島橋の総延長は180メートル
この渡島橋、よく見ると電柱を再利用して作られたものだった。電柱札が残されているので注視すると「野々川支」と電柱番号が記載されていた。
因みに野々川は
このような位置関係、直線距離でも20キロは離れている場所から運んできたことになる。
コンクリート製の支柱は海水によって浸食され、崩落寸前でした。
注意点
2014年頃までは自立していたようですが近年では多数の支柱が折れ、橋自体が崩落しています。
潮が満ちると徒歩での渡島はできなくなります。
ところでこの亀野小島、過去に幾度となく名称を変更しています。
亀野小島が歴史に登場するは1656年に発行された「明暦二年田方帳抜書」の中の相神浦大里村船越免(この地方の旧称)の章、「かめの小嶋」とひらがなで記載されています。
田方帳とは農耕整理区画の調査帳なので農耕に不向きな島(しかも面積の小さな小島)などは記載されない事が殆どです。
その中でこの島が記載された理由はとは何だったのでしょうか。
実はこの「かめの小嶋」には対岸の複合扇状丘が含まれており、干潮時半島とこの島が繋がる事から島としてではなく半島の一部として当時は認識されたようです。複合扇状丘は棚田としての機能を当時は有していたので必然的に複合扇状丘を含めた島(干潮時は半島の一部)を「かめの小嶋」と総称したのでしょう。
豊臣政権を発端とした国絵図「天保国絵図」では1800年代、「みやのこ嶋」と記載されていて1821年に発行された伊能大図彩色図(大日本沿海輿地全図)では「宮子島(測量日記内では宮ノ小島)」と記載されています。更に1884年発行の北松浦郡村誌に「亀甲島(かめのこうじま)」と改称されていて1910年発行の国内地図には「亀ノ小島」と改称、その度重なる改称については諸説在りますが現在でも判明していません。
この変遷から近代においては「カメノコジマ」という名称は「亀甲島←→カメノコウジマ」が発音的に「カメノコジマ」と転じたと思われ、コジマが小島として誤認された結果「亀野小島」に着陸したしたようです。
当初はかめの小嶋ですから元の鞘に収まったと考えてもよいですね。
設備の残留物の他に目立つのは焼き物のツボのようなもの、これがあちこちに散乱しています。これ、実は浮標として使用されています。つまりブイですね。
真珠の養殖は檜の丸太や竹などで組んだ木枠筏(もくわくいかだ)に丸籠を吊るします、これら一式を海面に浮かせる為に使われたのが先ほどの浮標、ブイというわけです。
世界の真珠ブランドとなった高島真珠
作業小屋、この建物は事業拡大時に建て替えられたもので最初の作業小屋は現在残るものより半分くらいの規模でした。
1913年に始まった高島真珠の歴史、1937年には年間1300キロもの真珠を生産して海外に輸出しました。戦前の真珠事業では東の御木本(ミキモトパール)、西の高島と称され国内外にその名を轟かせていました。
先行者だった御木本と共に国産真珠を世に知らしめた装飾企業としては非常に勢いのある会社だったようです。
この地域は既に焼き物や牡蠣の養殖で知られていましたが新たに真珠という特産物を生み出した高島真珠の歴史は2002年まで続くことになります。
最盛期の1950年代後半には50人以上を擁した高島真珠養殖場俵ヶ浦分場、日中の生活に困ることが無いように生活必需品も揃えられていました。渡島橋があるとはいえ、満潮時は島が分断されますから悪天候などの緊急時に備えて備蓄品はそれなりに用意されていたそうです。
東側の緑の屋根の作業小屋、こちらは先ほどの南側の作業小屋より古くからありました。
近年崩落してしまった北側の作業小屋、稼働時の晩年はこの場所で作業はされずに機材や設備などの倉庫として使われていました。
2011年当時で既に倒壊しような雰囲気でした。
養殖用ネット、丸籠から縦に設置する時代へと移行して養殖効率は格段に上がったとのこと。
国内外に名を馳せた高島真珠も海外からの安価な養殖真珠が一般流通し始めるとその相対価値が少しづつ下落、1996年から蔓延した養殖貝のウイルス感染症(アコヤガイの大量斃死現象)などが大打撃となって2001年には操業停止。翌年の2002年に倒産、一時代を築き上げた高島真珠は海外勢の大量生産の波に飲み込まれてしまいました。
亀野小島に静寂が戻って暫く、行政主導で観光地化が計画されたことが一度だけあります。島全体を「イルカパーク」としてアミューズメント施設として再興させる計画でした、しかし余りに特異な立地なことやアクセスルートに俵ヶ浦小学校(2017年に地域の二校と共に統合の為、廃校)がある為に児童の登下校の安全性が担保できないことなどで計画保留となります。
その後は景気悪化が進むなか協賛企業の辞退が続き、参加企業不足もあって計画は中止に。当分、この島の再開発は行われることはないでしょう。
佐世保市立俵浦小学校
1879年 山口小学校俵浦分校として創立
1887年 尋常山口小学校俵ヶ浦分校に改称
1889年 山口小学校から分離し尋常俵ヶ浦小学校と改称
1898年 統合により山口尋常高等小学校俵ヶ浦分教場と改称
1903年 山口尋常高等小学校から分離し俵ヶ浦尋常小学校と改称
1947年 学制改革に伴い俵浦小学校へ改称
1932年 現在地へ移転
1941年 国民学校令の施行により佐世保市俵ヶ浦国民学校と改称
1947年 学制改革により佐世保市立俵浦小学校と改称
2017年 佐世保市立船越小学校への統合により閉校
佐世保市立俵浦小学校 - ウィキペディア
波佐見町の偉人「高島末五郎」
佐世保近辺の基幹産業だった造船業、スゴログでは少し離れていますが過去に伊万里に在った造船所のレポートも。
#021 川南工業浦之崎造船所
机上調査によれば高島真珠というのは非常に有名で昭和天皇も視察に来たのだとか、西日本新聞のフォトライブラリーにも当時の写真が残されています。
注意点
1949年05月25日に高島真珠養殖場(俵ヶ浦分場ではない)を視察した記録があります
養殖場を経営していたのは後に波佐見町の偉人と称される高島末五郎、生家は貧しく父親を幼少期に亡くしており、他家の小間使いなどで生活を繋いだ苦労人です。
青年期には手先が器用だったこともあり、時計商となって修理や行商を行いました。
大村湾で取れるアコヤ貝から真珠が採取でき、海外に高価な宝飾品として珍重されるをことを知った高島末五郎は欧米や中国での販路を開拓、時計商の時に養われたビジネスセンスを生かして大村湾産の天然真珠の販売に着手します。
同時期、ミキモトパールで有名な御木本幸吉が養殖を開始。それを知った高島末五郎も1913年から養殖を試みるも養殖技術がまだ確立できていなかった為に半円真珠に留まる成果でした、そこで既に真珠王として君臨してた御木本幸吉の下を訪ねてアドバイスと共に「真珠づくりは国を豊かにする立派な仕事だ」との格言を得ます。
注意点
高島末五郎が1913年に開始した真珠養殖場、この漁場と加工場が現在の亀野小島です。
これがトリガーとなって半円真珠レベルから真円真珠へと技術革新を進め、1920年には真円真珠の養殖を開始。俵ヶ浦と鹿子前一帯のみの養殖場を拡張、鹿町、長浦、大塔、五島、伊万里と増強し続け1934年には長島真珠養殖場を引き継いでその漁場はますます拡大します。
1937年には格言を得た恩人の御木本幸吉ブランド、ミキモトパールを並ぶまで成長した高島真珠。1951年に亡くなるまでその成長は留まることを知らず、子が無かった為に兄が経営を引継ぎ間もなくしてビジネスピークを迎えます。
1880年 八島に生まれる
1902年 大村湾から九十九島海域でのアコヤ貝採取権を取得
1913年 亀野小島で小規模な養殖を開始
1920年 真円真珠養殖を開始
1934年 長島真珠養殖場を引き継ぐ
1937年 年間出荷量が1300kgに達し海外輸出を開始
1951年 没→同年に実兄が経営継承
2001年 操業停止
2002年 倒産
最盛期には北松の小佐々、西彼の亀岳、小佐々村の西川内、相浦町の棚方、佐世保市の大塔、大串村の長島、長浦村と養殖場を拡大増強。年間生産量は1650キロまでに達し、ミキモトパールを抜いて世界1位に登り詰めました。
因みに高島末五郎は1950年の長者番付は堂々の第1位、一般の平均年収が12万円のところ6530万円という巨額の役員報酬を得ていました。
1990年代、海外から安価な輸入真珠が国内を席捲したことで事業は大きく傾きます。続いて1996年から蔓延した養殖貝のウイルス感染症で養殖に使用していたアコヤ貝が大打撃を受け、以降は順次事業縮小へ。
2001年に実質的な事業は停止して2002年に倒産、本社のあった佐世保市の大塔一帯は現在太陽光発電のパネルが並べられていて一世を風靡した真珠企業の社屋は見る影もありません。
近代における亀野小島の変遷
航空写真で辿れる一番古い写真は1947年、真珠養殖は1913年から行われていたのでこの時は既に養殖事業が最盛期を迎えようかという時代。周囲の棚田はまだ管理されており、陸地側の家屋も旧家屋のみです。
高島末五郎が亡くなり、実兄が事業を引き継いだ後の亀野小島。写真からも判りますが養殖パレットが内湾に広く設置されています。
亀野小島内の設備投資が進み、建造物も合計5軒を数えます。海外需要が多くあった時代ですが国内では天然真珠の再評価が認知され始めました、高度成長期を控えて国民の物欲と判別眼が向上した時期でもあります。
現代、廃田化した棚田は木々に飲み込まれて作業道は廃道に。扇状丘陵帯は深い森に変貌して亀野小島に至るルートは消滅しました、再興を賭けたイルカパーク計画中止の一端だった小学校は廃校となり、訪れる者は殆どいない静かな地となりました。
佐世保市役所の職員さんから紹介され、軽い気持ちで挑んだ亀野小島。机上調査においても実に沢山の地域産業の歴史を見せてくれました、崩落が進む設備や施設でしたが形ある間に記録に残せたことを幸運に思います。
この地域は九十九島と呼ばれ、大小208の島々からなる諸島群。99ではないのかと疑問におもわれるでしょう、この「九十九」は「数え切れないほどの数」という意味があり、つまりは沢山の島があることの表現なのです。
亀野小島は島というより砂州によって陸地と繋がっているので浅瀬部分が大潮によって水没する風景より地続きの方が良く知られている風景です、故に来訪自体は極々簡易ではあるもののアプローチが荒廃しているので見学をお考えの方は留意されて下さい。
それでは今回のレポートは以上となります。
参考・協力
佐世保市役所
佐世保市広報2005年01月月号
佐世保市役所九十九連絡所
佐世保市立図書館
長崎短期大学図書館
長崎県立大学附属図書館
西日本新聞社
東海大学教養学部紀要 第49輯/鳥飼行博
九州大学工学研究院環境社会部門景観研究室
地域コミュニティの環境経済学─開発途上国の草の根民活論と持続可能な開発/鳥飼行博
日水誌/81巻5号/高品質アコヤガイ真珠の効率的養殖技術の開発と実用化
日本水産学会誌/アコヤガイ外套膜から分離した外面上皮細胞の移植による真珠形成
東京大学出版会/真珠の経済的研究
レポートの場所 ※ GoogleMap登録済
注意点
該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。
注意点
該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。
スゴログの装備とその使用方法など
https://www.sugolog.jp/p/blog-page.html
https://www.sugolog.jp/p/blog-page.html
エントリー関連広告
ミリオン出版
売り上げランキング: 817,529
ミリオン出版
売り上げランキング: 817,529































