2020-12-26T23:03:09Z #039 秩父鉱山 ①

#039 秩父鉱山 ①

峠を越える為に通過した金山志賀坂線(林道)、途中大きな現役鉱山が姿を現し、周囲には廃墟群が。この現役施設と廃墟が隣接する風景がとても奇妙に覚え、翌年には元鉱山夫(ニッチツ職員)を伴って施設取材。現場と貴重な当時の話から山深い鉱山の歴史が見えてきました。

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

埼玉県│秩父鉱山

調査:2010年05月
再訪:2010年07月 / 2011年05月 / 2011年09月 / 2012年07月 / 2016年05月
公開:2011年09月17日
名称:正式名称→株式会社ニッチツ資源開発本部秩父事業所 / 通称→ニッチツ
状態:長期放置区画が複数あるが全て管理物件

レポートの内容は初来訪時とその後の再訪現地調査、そして現在の状況を総括して再構築されています。写真に対するキャプションは所々当時の内容が反映されていますが現在の情報に更新した上で整合性を保持しています、また記録的な豪雪だった2014年の影響で各施設が崩落しその後解体されている箇所に関してその都度注釈を挿入しております。



平成26年豪雪 - ウィキペディア
https://archive.is/8mDgU

秩父鉱山一帯(中津川小倉沢地区)では2014年の豪雪で一時的に陸の孤島と化し、周囲の都市部と暫く隔離された期間がありました。この豪雪により、幾つもの旧建築物が雪の重さに耐えられずに崩落。道路沿い、または稼働施設に隣接する崩落した建造物は解体撤去されてしまいました。

現在では稼働が中止された山間部の元関連施設や廃墟群エリアにおいては崩落した間々の建造物も見て取れます、また自然崩落した旧建築物もありましたがやはり解体撤去されております。


注意点
注意点秩父鉱山は現役施設であり、一般の見学申し込みなどは受け付けておりません。メディア経由での取材も近年は少なくなり、また関係者同伴でないと入れない立入禁止区域が多数となっております。

これには幾つか理由があります、まだ写真撮影などが黙認されていた10年以上前(2005年辺りとの情報あり)、関連施設内に無許可で立入したばかりか甚大な負傷で救急連絡。企業責任を問われる事態に瀕した事件がありました、その後ニッチツ内の廃墟群を含む関連施設は立入禁止に。

取材当時も出版の為に許可を得、更に関係者である元鉱山職員を伴っての撮影とヒアリングとなりました。その為、取材範囲が制限されており、有名ではあるものの撮影ができなかった施設も複数あります。


400年以上の歴史を持つ秩父鉱山

現在ではニッチツと呼称されることが多い秩父鉱山、その鉱山資源は潤沢で1600年頃に採掘が開始されてから現在に至るまで鉱物採掘は継続して続けれれています。地図上に幾つか抗口が記載される事もありますが企業側で秘匿されている破棄された抗口が実は沢山存在します。自然埋没したものやコンクリートで人工閉鎖したもの、山奥に忘れられたものなどその形態は様々です。

一部の鉱山フリークの方が反埋没抗口をディギングして坑道へ侵入したり簡易閉鎖された半世紀前の抗口から鉱山軌道を探索したり、実はその手のレポートはウェブ上に散見できる状態です。私達スゴログも古い坑道地図などを関係者からお借りして現在の地図と照らし合わせたり実際に坑道入口まで案内されもしましたがどれもが非常に危険な状態でした。

長い採掘期間を誇るこの秩父鉱山、関係者によれば企業側も把握していない坑道(鉱山軌道に関しては把握しているそうです)も在るのだとか。つまり管理されていない箇所も存在するのです、取材当初特に注意を受けたのが崩落の危険性がある古い建造物(2010年当時)と坑道に関してでした。

林道(金山志賀坂線)から程近い場所にも一般には知られていない抗口があり、長い地下道が残っています。中には地下水で水没したり2011年の地震によって埋没したものも、北側の山中には更に大きな施設跡や坑道も残されていますが来訪は困難です。

この様に現役施設が隣接するとはいえ、その長い歴史から放置(アクセスが遮断されていて管理できない)されている過去の遺産も多数抱える秩父鉱山。その中から撮影を許された極々限らた現状(2010年取材)ではありますが歴史を交えながらご紹介しようと思います。

秩父鉱山 - ウィキペディア
https://archive.vn/QVLBC

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟


秩父鉱山へ向かう県道210号線、山深いこの道は新緑の時期に走ると非常に美しい自然を見せてくれます。古くから鉱山開発がされてきた地ではありますが鉱山主要道として今も尚多くの車両が行きかいます、また両神山の登山口が複数存在するので登山者にも利用されています。

注意点
2020年現在、2018年から冬期閉鎖解除予定だったこの県道ですが落石や山鳥トンネルのモルタル剥離などにより一部通行止めとなっています。詳細は秩父農林振興センターにて、リンクのPDFは現在通行止めとなっている区間の位置図になります。

金山志賀坂線位置図
https://archive.is/4PQwM

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟


最近ではこの秩父鉱山周辺ややや標高を稼いだ住宅区画を小倉沢集落と呼称されている方がネット上に見受けられます、写真の通り鉱山付近は「小倉沢区」ではありますが小倉沢集落というものは存在しません。

記述の通り、1600年代から鉱山の採掘で人の往来はありましたが集落の形成はありません。近代史に至っても記録に残っている住宅区画は秩父鉱山の関係者、またはその家族が占めています。つまり、一帯は企業用地ですので集落ではないわけです。

鉱山繁栄のランドマークでもあった秩父鉱山簡易郵便局

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

鉱山関係者ばかりか登山者や観光客にも愛された秩父鉱山簡易郵便局、テレビや雑誌、近年ではネットでも多く取り上げられた事によって脚光浴びた時期がありました。ここから投函する為だけに郵便物を持参したり、簡易手続きを行う為にやってくる者もいたそうです。元々は鉱山関係者やその家族の為に設置された「簡易郵便局」、本来の役目は文字通り郵便局の業務内容でした。

しかし近代化に伴ってこの地から離れていく人々は年々増加、鉱山関係者も市街地からの通勤が多くなっていきます。社宅に居住する関係者は皆無となり、保育園や小中学校、医療施設なども閉鎖される中、最後まで残った公共施設が実はこの秩父鉱山簡易郵便局なのです。

ですが冒頭でもお伝えした平成26年(2014年)の豪雪によってこの地が孤立化、それがトリガーとなり益々長期間滞在の社員は少なくなります。この雪の為、一時ですが郵便局は一時閉鎖しますが実はそれ以前に終焉は既に迫っていたのでしょう。

2014年02月17日 一時閉鎖
2014年03月11日 再開
2014年07月15日 一時閉鎖
2014年09月24日 再開

この年は豪雪被害から継続的に閉鎖と再会を繰り前します、2015年は無事運営できましたが翌年。

2016年08月26日 一時閉鎖
2016年10月17日 再開

と再び閉鎖期間が発生します。そして2018年、その時は訪れました。

2018年06月05日 一時閉鎖

この一時閉鎖は今までとは大きく異なりました、入口はもとより窓には板張りがされ電線は切断、内部の什器も撤去されてしまったのです。実質的な閉鎖、今後この郵便局が復活することは現実的ではありません。

旺盛時、二千数百の人間が利用した郵便局も自然災害をトリガーとして時代の流れに飲み込まれた形となりました。




閉鎖された郵便局ですが、お隣は現役のニッチツ労働組合事務所です。労働組合関連の書類送付にも随分利用されたことでしょう、現在でも交通安全推進事業所や資源開発本部などが併設されているようです。

またこの郵便局は関東僻地郵便局としても知られていて現役当時は配達関係者泣かせの支局としても周知されていたとか、確かに集荷だけでも随分と時間がかかる場所です。

何かと話題が尽きない秩父鉱山簡易郵便局ですが幾つか面白いエピソードが在るので記載しておきましょうか、現存のサイトから引用しているので引用先として該当ページのリンクも併載しておきます。

鉱物産地情報 - 秩父鉱山簡易郵便局の消印
https://bit.ly/3k6LSlv

※ アーカイブ化すると文字化けするので短縮URLを記載

秩父鉱山の沿革

秩父鉱山そのものの歴史は古く、明和2年から4年にかけて平賀源内が入山し桃の窪旧坑(金坑)を手始めにあちこち採鉱したことからも分かります。

明治44年に英国資本家・ベーツ出資により英国人技師達が探鉱したが鉱床を発見できず、その後、柳瀬貞三の経営となり、本坑、雁掛澤、ワナバ澤などで短期間に金、銀、鉛、亜鉛鉱を発見し、金山として隆盛を見るに至った。1914年に第一次大戦勃発に伴い、鉄の価格が高騰し、金より鉄に転じて全山挙げて探鉱に取り組み、道心(神?)窪、金香坂などの大鉱床を発見し、皆野駅までの間に空中索道を建設するなど、前途洋々と思われた。

しかし、欧州大戦の終結に伴い、鉄価が暴落し鉱業界の不振により休山に追い込まれた。昭和7年、またまた金山として復興し、産出鉱石を日立鉱山に売鉱し、重要鉱山に指定された。

秩父鉱山簡易郵便局の局員のお話では、鉱山の最盛期には3000名の人々がいたが2002年には、100名ほどになってしまったそうです。

秩父鉱山簡易郵便局の沿革

この局は当初「秩父鉱山郵便局」として開局したようです。開局の時期は調査中ですが鉱山の沿革からみて、昭和10年前後だろうと考えています。

開局:大正時代
変更:1986年に簡易郵便局へ移行

秩父鉱山簡易郵便局の局長は個人名にはなっているが、実質は「ニッチツ」が主体で運営しているようで、局員の人も「ニッチツ」の名前が入った作業服姿です。世の中全体の景気が思わしくない昨今、閉局にならなければ良いがと、案じています。

今回、秩父鉱山の目玉である”車骨鉱”、”ブーランジェ鉱”そして”毛鉱”を採集するついでに立ち寄りました。押印だけであれば、「郵頼」という方法があります。これは、押印してもらうものと押印位置などをメモ書きしたものを宛名を書いた返信封筒と一緒に同封し、郵便局へ送って、押印をお願いする方法です。これですと、遠隔地でも比較的簡単に消印を入手できます。

参考文献:斎藤直基知編 大日本鉱山史 日本産業調査会(1940年発刊)


鉱山夫宿舎としても利用された商店

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟


ニッチツ唯一の商店として紹介される事も多いこの建造物、場所は鉱山一帯の中央程です。鉱山施設と住宅区画の間にあるので商店として良い立地と言えますね。


実は謎多き建造物でして当初の建造目的がハッキリしていません、迎賓館や娯楽の場として利用されたと記すレポートも見られますがそれは後にご紹介する赤岩文化会館と混同しているのでしょう。間取り的にも裏手に残された機器などを検証しても違うようです、手前に残る共同浴場(鉱員用共同浴場)と同じ時期に建設されているのですが幾つかの提供された情報を纏めると

・共同浴場(鉱員用共同浴場)と共に売店の設置が計画されていた
・実際に建設、完成
・鉱山夫宿舎が当時足りていなかったので一時的に寮として使用した

この様な経緯のようです、ただこれらを証明する記載が提供資料や関連書籍に無い為に正しいかどうかは断言できませんが。

商店の名称は彦久保商店(2003年までは管理されていたそうです)、その名の通り店主は彦久保清さんが担っていました。

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

旺盛時の彦久保商店、一番の売れ筋はやはりお酒だったそう。写真にも実に多くの日本酒、焼酎、ウイスキーが並んでいます。

スゴログでの取材で彦久保清さんが語ってくれた中で一番驚いた事実、それは秩父鉱山での商店の数は三店舗だったという発言です。

そう、彦久保商店の他にも商店は存在していたのです。元々この彦久保商店はこの場所ではなく、大黒本坑からやや北側の住宅区画手前に在ったのだとか。当時、商品管理は企業側からの希望も多く、鉱山夫に適合したラインナップの選定や土砂崩れや天候次第では下山して秩父市内から人力(登山)で商品を納入した話など貴重な体験談を聞くことができました。

注意点
他の商店についての話もお聞きしました。取材時のメモに「原島商店」とあるのですがもう一店舗の名称を書き忘れてしまい、また記憶からも失念しておりまして記載できません。

このような営業努力も全ては鉱山夫とその家族を守る為、この山岳区域全体をカバーするのがたった三店舗というのも不安ではありますが都会と変わらない生活スタイルを維持する為にどれだけの努力があったことか。厳冬期や自然災害のお話を聞くと想像を絶する苦労があったに違いありません。

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

店舗内部は完全に商店としての作りで設計されています、とても住居として間取りではないので暫定的な使用方法で寮としていたのでしょう。

どの位の期間「寮」として使われたかは分かりませんが住居時の名称は「秀峰寮」、簡易的な壁なども設置されていたそうですが船で言えばB等寝台の様な感じだったのかもしれません。

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

決して狭くはないない店内ですが鉱山全体の規模からすると提供商品数は常に品薄といってもよい状態だったようです、現代の商品供給値でいえば数倍の商品が並んでいてもおかしくはありません。

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

気候や自然災害に悩まされた秩父鉱山、勿論人災による火災なども少なくなかったようです。遠く離れた市街地から救急車や消防車を要請しても時間帯によっては1時間掛かる時代、この企業敷地内には自らそれらを解決できる医療施設や消防組織が整備されていました。

この第一消防機具置場には手押しの消防用タンク車やホースなどが置かれていた他、直ぐ裏手には火の見櫓も設置されています。工場や住宅区画双方を俯瞰できる櫓の高さを確保し、古くは鐘で、近代は無線スピーカーで災害の知らせを一早く周知する事に貢献した施設です。

周囲には消防に関する建造物が幾つか見受けられます。

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

現役時代の第一消防機具置場、地形がやや異なるが遠方の山々などはほぼ変わりない様子。


鉱山関係者の児童教育問題

秩父鉱山 ニッチツ 小倉沢小中学校


ニッチツを語る上でとても重要なことがあります、それは鉱山夫(鉱員)の家族の中でも取り分け義務教育を必要とする年齢層の教育現場の実態です。これは戦後戦後で名を馳せた全国の鉱山や銅山の採掘地、その関係者の居住区で問題となった子供たちの教育の場の確保という点。

この地においても鉱山夫と出荷規模が増加すると共に、その家族やこの地で生まれた子供含めてその問題は大きく圧し掛かります。秩父鉱山(学校設立は)は企業としてこの児童教育現場の諸問題を解決すべく、1935年に私設学園(私立秩父学園)を創立します。

それが後の

大滝村立小倉沢小学校
大滝村立小倉沢中学校

です、よく「小倉沢小中学校」と略されて表記されますが合同校ではありません。行政としてはしっかりと別々の学校として管理されていました(設立年も違います、詳細は後述参照)。

公式廃校記録にもそれぞれの校名が記載されており、1985年の統合後の移設先も

大滝村立小倉沢小学校→秩父市立大滝小学校へ統合
大滝村立小倉沢中学校→秩父市立大滝中学校へ統合

と記載されています。

ただ悲しい事に近年、この統合先の小中学校も廃校(学区統廃合)となってしまっています。

大滝小学校閉校記念式典(2014年) - 秩父市
https://archive.vn/BcW8c

大滝中学校閉校記念式典(2015年) - 秩父市
https://archive.vn/PDX1b

更にこれらの小中学校の沿革を遡る事も可能です、またウェブ上に近代における周辺学区の統廃合問題のレポートがPDFで残されているので気になる方は是非一読下さい。

埼玉県秩父市大滝地区における学校統合と校区への諦観との関係
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg/70/2/70_233/_pdf/-char/en
https://archive.vn/6LK4g(アーカイブ)

秩父鉱山 ニッチツ 小倉沢小中学校

注意点
小倉沢小学校の卒業生である方2名のヒアリングに基づいてレポートを構成していますが一部整合性が取れない、またはソース元を特定できない内容も含まれています。予めご了承下さい。

工場側からは手前敷地内を経由して校庭から、居住区からはこの川を渡る橋を通過して正門側へ、それぞれ登校する為の経路が用意されていました。学校設立当初は橋が無かったとの事ですが極々初期には北側の山経由のルートもあったのだとか。

秩父鉱山 ニッチツ 小倉沢小中学校

正門です。

1935年設立としては随分とモダンに思われるこの建造物、実は1952年に火災で全焼しています。この火災の原因に関しては、学校関係者の失火とも工場の飛び火とも噂されていますが当時の新聞記事などを発見することはできませんでした。

注意点
児童の教育の場はこの学校へ集約されており、一刻も早い再建が望まれました。民間事業から行政に教育機関の管理が移行してした為、行政主導で再建が行われ、同年の11月には新しい校舎が完成しました。

規模をやや大きくして急造された校舎、この正門や校舎のデザインはその際に刷新されており、当時そのデザイン性が話題になった程でした。

離職した元秩父鉱山で働いていた方のお話をご紹介しましょう(取材時は現職の方でした)。

2000年代前半までは建前上は立入禁止となっていたものの、卒業生や元在校生(中途離校生)などを含めて来訪者には見学許可を個別に出していたのだそう。倉庫として使用するにも建造物の痛みが激しく、現実的には放置されていた校舎。それでも所縁のある方には当時を偲んでもらうおうと職員同伴で見学は頻繁に行われていました、しかし。

いつの頃からか無断で侵入する輩が続出、企業責任が問われる事故を懸念して2010年頃には完全に侵入禁止としたそうです。しかしそれでも減らない無断来訪者、それまでは注意などで済ませていたようですが現在は通報した上で警察に引き渡すそうです。

スゴログの様な歴史検証団体やメディアの取材であっても以前の様に簡単には許可が出せない状況になりました、因みに2018年に一度「再取材」のお願いの旨ご連絡しましたが残念なことに叶いませんでした。

10年前と比べ、内部の損傷が激しく、安全を確保できないとの事で。2014年の豪雪時に関連施設と共にこの校舎も損傷、倒壊などが発生したこともあり、今後は正式なオファーであっても難しいとの回答でした。

秩父鉱山 ニッチツ 小倉沢小中学校

2009年頃の校舎内、まだ廊下も床が抜けていません。

校舎内にはタイルアート、絵画、石膏像、木像など芸術美術に関する残留物が実に多いです。山奥での特殊な環境であっても本来の学習要項以外に幅広く可能性を残す現場が構成されていたのだとわかります。

注意点
有名なキリンのタイルアート(昭和48年度卒業記念/卒業生作成)ですが2017年頃に侵入者に破壊されてしまいました、スゴログでも関係者(鉱山関連企業の林業/伐採業者)様から提供いただいた写真で2015年までは綺麗に残っていた事を確認しています。この件で詳細をご存じの方は是非情報をお寄せ願います。

秩父鉱山 ニッチツ 小倉沢小中学校

秩父鉱山 ニッチツ 小倉沢小中学校

秩父鉱山 ニッチツ 小倉沢小中学校



秩父鉱山 ニッチツ 小倉沢小中学校

小学校と中学校は渡り廊下で分かれていましたが晩年は生徒数の減少が著しく、小学校中学校双方で複式学級となっていたそう。広い校舎と言えないこの小倉沢小中学校ですが実際生徒数が減ってからは「小中学校」の体だったのでしょう。

小学校は手前校舎、中学校は斜面側の奥校舎という位置関係です。多目的教室や各専門の教科室は小中で共用されており、中央棟に炊事室などが残っています。設立当初は別途教員棟があったの情報もありますが件の火災で焼失、その存在は煙と共に消え去ってしまいました。

教員棟の存在を裏付ける資料や写真をお持ちの方がいらっしゃいましたらご連絡願います

秩父鉱山 ニッチツ 小倉沢小中学校

大滝村立小倉沢小学校、大滝村立小倉沢中学校それぞれの簡単な沿革は以下の通り。

小倉沢小中学校と秩父鉱山

1937年にそれまで採掘事業を行っていた柳瀬鉱業所を買収したニッチツが本格的な大規模採掘を開始、最盛期には山深いこの地に実に2000~3000人以上の鉱山夫とその家族が居住しました。

鉱山採掘が本格化する1935年5月、私立秩父学園()は開校します。その後1949年には中学校校舎が新たに建築されて小倉沢中学校()が開校、両校の児童減少による閉校は1985年。一時代を築いた秩父鉱山も鉱山産業縮小の波に飲まれた形と成り、現在でも一部稼動しているものの居住区に関しては2006年に無人化。

秩父鉱山簡易郵便局(2018年以降実質閉局)や鉱山関係者は全て通勤者となり、秩父鉱山簡易郵便局の隣のニッチツ労働組合事務所裏に鉱山OBが犬と共に住んでいる(2010年取材当時)。つまりこの地域における人口は人1人と犬1匹(2010年取材当時)と言う事に成った。

1935年 - 私立秩父学園創立

1948年 - 小倉沢小学校設立(独立して行政管轄へ)
1949年 - 小倉沢中学校設立

1959年 - 児童数:274名
1972年 - 児童数:160名
1973年 - 児童数:85名
1974年 - 児童数:46名
1975年 - 児童数:25名

1984年 - 児童数:7名(最終児童生)

短期間でこれだけの児童数の激減があった時期は高度成長期に在っても全国の鉱山産業が縮小した鉱山バブル崩壊時期と一致する、数多くの鉱山夫とその家族がこの地を後にした事は想像するに容易だ。

秩父鉱業の経営者だった柳瀬貞三が私立秩父学園を創立(私設校)。その後1948年4月に行政管轄と成り独立、学校法人として現在の通名「小倉沢小中学校」へ。1910年の時点で柳瀬商工株式会社がこの鉱山を手中に収めているので経営者は変わらず柳瀬貞三となります、名称が柳瀬商工株式会社→柳瀬鉱業所→ニッチツを変わりますがこれは計画された経営ロードマップによるものです。

秩父鉱山 ニッチツ 小倉沢小中学校

秩父鉱山 ニッチツ 小倉沢小中学校

秩父鉱山 ニッチツ 小倉沢小中学校



秩父鉱山 ニッチツ 小倉沢小中学校

秩父鉱山 ニッチツ 小倉沢小中学校

敷地内北側の理科棟、校舎焼失後暫くたってから建設された。二階は多目的ホール。本校舎にも元々理科室はありましたが鉱山の学校故にやや専門的な授業もあったようです。

秩父鉱山 ニッチツ 小倉沢小中学校

写真はまだ理科棟が建設される前のもの、高台になっており周囲を石垣で造成されています。


秩父鉱山の娯楽を一手に引き受けた赤岩文化会館

秩父鉱山 ニッチツ 赤谷文化会館

鉱山発見から紆余曲折の300年を経てニッチツが本格操業したのが1930年代後半、実質的には1940年からニッチツとして鉱山の運営が開始されます。この地域での大規模鉱山運営は交通の便が悪い事もあり、町としての機能を鉱山自体に持たせる事で事業を拡大させていきました。

山中に市街地と同様の機能を設備し、維持する。それは到底簡単なことではありません。最低限のインフラは元より既に紹介した消火組織、病院、そして教育の場。それは無くてはならない存在であり、生活に必須のものでしょう。

更に言えば、それらに加えて「娯楽」という分野も町を構成する大きな要因であることに間違いはありません。戦前戦中戦後と、鉱山として日本経済の屋台骨を支えた鉱山夫達とその家族に企業はどんな娯楽を提供したのか。

その娯楽を担った山の中の小さな福利厚生施設をご紹介します。

秩父鉱山 ニッチツ 赤谷文化会館


赤岩文化会館正面入口、赤岩の名は北側の赤岩岳を望む立地からでしょうか。この対面には2棟ほどの関連施設がありました、2000年代には既に解体されていたようです。

路地を挟んで直ぐ脇には彦久保商店の既述でも触れましたが原島商店がこの場所にありました。

注意点
秩父鉱山 ニッチツ 赤谷文化会館

昭和40年代から50年代には当時の芸能人も沢山来ていたそうです、これらの講演の写真は結構残されており、個人で保存されている方からも数枚見せて頂きました。

秩父鉱山 ニッチツ 赤谷文化会館

秩父鉱山 ニッチツ 赤谷文化会館

内部の損傷は2010年時点で相当なものでした、レポート再掲載時の2020年での状況はわかりませんが天井の状態は壊滅的かと思われます。

この赤岩文化会館は多目的ホールやダンスホール、映画鑑賞会場としても利用され、その殆どが無料でした。また梅雨時期などは小中学校の体育館と共に、室内運動場としても開放されていたそうでその名残で卓球台などがあるようです。

なんとこの狭いホールでバレーの試合も行われたとか、公式な広さが確保されているかは判断しかねますが十分「多目的」としての面目を保っていたのでしょうね。

注意点
当時、秩父市の映画館(昭和館)で封切された映画の上映期間が終了すると時期のクールとしてこの赤岩文化会館で上映されていました。全国一斉封切などに際しても利権の問題や稼働率確保の観点からこの秩父鉱山での上映は一足遅れて行われていたそうです。

秩父鉱山 ニッチツ 赤谷文化会館

秩父鉱山 ニッチツ 赤谷文化会館

施設裏手、以前はここに映写機や演劇で使用する様々な資材などが置かれていました。また直ぐ脇の建造物(解体済み)は出演者が打ち合わせ・休憩・宿泊する為の部屋も用意されていたと聞きます。恐らく1990年代に解体された鉱山夫用の木造アパートの事でしょう、トイレは何度か刷新されているそうですが見た目は宛ら学校の便所といった風体。



郵便局、商店、学校、福利厚生施設とご紹介してきましたが秩父鉱山に関してもう少しお付き合い頂きたいと思います。今回は前編となり、次回が後編として残る主要施設跡などをご紹介する予定です。

今回のレポート内容は基本的に初回の取材(2010年)に基づいて作成しています、再掲載(2020年再構築)にあたり各情報をアップデートしていますが古い間々の記載や歴史検証が間違っている可能性も否めません。

2008年にニッチツ関連施設の多くが解体され、多くの紙媒体資料も破棄されてしまった後の取材故、当時を知る方達からのヒアリングも反映しております。よって記憶違いなどでご指摘されるべき箇所もあると思われます、もしレポート内でお気づきの訂正箇所が御座いましたら小さな情報でも構いませんのでご連絡願います。

2000年代中盤まで残されていた工場群、社宅(居住区)などの残存率は凡そ2割、2010年でも作業員の方やボランティアで協力頂いた方々が疲労困憊になるまで歩き詰めましたがこの広大な秩父鉱山を知る手立ての大部分を失った後だった事が悔やまれるばかりです。

秩父鉱山

戦国時代に甲斐武田氏が金や砂金を採掘したところから始まるこの鉱山、その潤沢な金の鉱床の魅力に誘われて平賀源内も入山した記録が残る。近代史では柳瀬貞三が柳瀬商工株式会社(柳瀬鉱業所)として採掘権を得て正式に日窒鉱業株式会社(現ニッチツ)としたのが1937年。

大規模な展開を見越し、既に工場設備や私設学園なども創設していたが本格的な運用は1940年。年々減る金の採掘量ではあったが銅や鉛、亜鉛など豊富な鉄類が採掘可能だった事で事業は拡大。1960年代に最盛期を迎え、その関係者も含めると2000人以上とも3000人以上とも言われる陸の孤島の大鉱山と呼ばれるように。

注意点
産出鉱物は主に自然金・閃亜鉛鉱・黄鉄鉱・磁硫鉄鉱・灰バン柘榴石・硫砒鉄鉱・水晶・方鉛鉱・赤鉄鉱・車骨鉱などであるが希少鉱物やイレギュラー鉄類が見つかることも。産出鉱物の種類でいえば約140種類が記録されています。

1973年に業務としての凡そ鉱山採掘を中止し、運営方針の転換を試みる事に。1978年に細々と継続していた金の採掘を断念、段階的に多くの抗口を閉鎖。その後現在の石灰・珪砂を採掘する形態に、故に近年では所狭しと石灰の山が見て取れる。

株式会社ニッチツは複数の部署からなる大企業だが数ある操業系の一つ「資源開発本部」がこの秩父鉱山、実は企業敷地を含む広大な範囲が秩父多摩国立公園に指定されている。

ウィキペディアによる簡易沿革は以下の通り。

1600年頃 秩父鉱山発見。甲斐武田氏が金・砂金を採掘。
1765年 - 金採掘のため平賀源内が入山。
1910年 - 東京の柳瀬商工株式会社が買収。鉄鉱開発を行う。
1916年 - 鉱山 - 皆野間に架空索道を建設。
1937年 - 日窒鉱業開発株式会社が買収。3年後本格操業開始。
1950年 - 日窒鉱業株式会社(現在のニッチツ)設立。
1960年代 亜鉛、磁鉄鉱など採掘、最盛期には年50万トンを出鉱する。
1969年 - 珪砂の採掘を開始。
1978年 - 金属採掘を中止。

秩父鉱山を含む秩父の土地分類調査報告書が行政からPDFで公開されています、参考までにどうぞ。

土地分類調査報告書(秩父)
https://archive.is/jAPir

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参考・協力

秩父市役所
秩父市役所 秩父勤労者福祉センター
埼玉県立図書館
秩父市立図書館
株式会社ニッチツ
彦久保清(彦久保商店/店主)さん
元居住区の住民(数名からヒアリング)
元鉱山夫(数名からヒアリング/内、取材時現役職員)
小倉沢小学校同窓会
秩父鉱山/黒沢和義(同時代社)
続・秩父鉱山/黒沢和義(同時代社)
小倉沢(合同小倉沢会/秩父市立図書館所蔵)
埼玉県の地下資源に関する文献収集整備報告書(昭和45年度)
新編埼玉県史(資料編16)
埼玉県の近代化遺産/埼玉県立博物館(埼玉県教育委員会)

注意点
埼玉県立博物館においては館内閲覧のみの資料を郵送して頂いたり別途貸出禁止の書籍をお貸し頂くなど大変お世話になりました、有難うございました。



レポートの場所



注意点

該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。

スゴログの装備とその使用方法など
https://www.sugolog.jp/p/blog-page.html

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