2019-12-01T09:21:15Z #031 霊仙 桃原集落

#031 霊仙 桃原集落

今も残る滋賀県多賀町の霊仙山麓に位置する廃村群、その中で現住世帯が一つでしかも住人が1人という限界集落がありました。一見すると廃村寸前とは思えないほどの人の気配、そして整然と並ぶ家屋たち。しかし集落から人々は去り、近代化に取り残され時間が止まったその集落の名は桃原。この山深い集落の歴史、そして少々珍しいエピソードをご紹介したいと思います。

スゴログ 桃原集落 廃村
滋賀県│桃原集落

調査:2010年06月
再訪:2010年10月 / 2011年05月 / 2012年7月
公開:2010年12月13日
名称:桃原集落
状態:過疎集落

旧サイトで複数回に分けて公開していたレポート内容を2012年現在の調査内容に統合して再エントリーしました。また古くなった情報などは精査して削除しております。


霊仙に残る典型的な過疎集落

長い期間をかけて霊仙の廃集落群を調査してきましたが今回の桃原集落もその一つ、と言ってもこの集落には現住されている方がお一人いらっしゃるので正確には限界集落となります。付近には冬季限定廃集落が幾つか存在します、その形態は以前住まわれていた方が自宅や集落の維持、残された畑などの管理で夏季を中心に住まわれているというもの。

しかしこの桃原集落は一年を通して定住されている最後の村民が存在します、これがどれだけ貴重な存在か。謂わば桃原集落の生字引にして歴史の生き証人なのです。調査で来訪した2010年当時、ウェブ上にもこの集落に関する詳しいレポートは存在しませんでした。

それから約10年(2019年)、この桃原を取り巻く状況はどう変化したのでしょうか。そして桃原の歴史は紡がれ、どの様に変化していくのでしょう。

今回は近隣地域において住民がたった一人という非常に珍しい限界集落をレポートしたいと思います。

スゴログ 桃原集落 廃村

九十九折りの細い山道を登りきると一見手入れがされているような村内が、しかし良く見ればそれは繁栄当時の仕切りが現在も機能してはいるものの草木は自由に枝を伸ばしているようにも思えます。

近年までは剪定などがされていたようですが直近の切り口が見受けられないことから少なくとも一年以上は放置されているのでしょう。

町暦資料を確認すると江戸時代からの歴史が記されていますが関連書籍の一節には平家の没落武士が開墾したとの記述も見られ、そうとう古い集落であることがわかります。

1765年に発刊された「江左三郡録」に桃原集落が紹介されており、干柿やゴボウを中心にした農作産業と製炭に関する記述が出てきます。近代では1970年代までは京料理に使用されるゴボウはここから出荷されていたとする記録もあり、江戸時代末期から続く「お多賀ごぼう」として高級食材の一つに数えられていたようです。

江戸時代から高級牛蒡として認知されており、その当時は「お多賀ごぼう」と呼ばれ彦根藩でも珍重されたよう。高級食材の逸話として「斬罪に処せられる者の朝餉に出された」との記録もあり、1970年代前半までは京都中央市場に出荷され高値で取引されていました。

集落内の庭木が今でも綺麗に残る理由は他の廃村より土と草木に特化した村だったことに起因しているのかもしれません、しかし元畑だった思われる場所は既に見る影も無く、当時の高級食材の出荷地を偲ぶことは叶いません。

2017年の産経新聞の取材では近隣自治体に住む住民らが中心となってかつての高級品だった「桃原ごぼう」を特産品として復活させようとする取り組みが取り上げられていた、先代が引き継いだ桃原地区の土地を利用して開墾した方が計画したそうで。

これらこの地域の産業や歴史、現在の取り組みなどを調査するために「多賀町史編纂を考える委員会」に連絡したのですが返答をもらえず。2014年に設立され2018年には「多賀道と御代参街道」という書籍も発刊されたようですが残念ながら現在では活動されていないようです、ブログも更新がストップしているので諦めるとしましょう。

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注意点
多賀町史編纂を考える委員会は「新たな多賀町史編さんにより、次世代へ町の歴史を継承することのできるものにするために、どのような方法や内容で町史を作成することが必要であるかを検討し、基本的な調査や資料収集を行うことを目的として設置された委員会です。」とのこと。編纂、つまり既に書物にまとめ発刊したことでその役目を終えたようです。

スゴログ 桃原集落 廃村

主要産業は一時期農業から観光事業へ

主要道路となる県道17号線から小道を辿り裏手へ周ります、この裏手の路地から更に奥へ延びる路地が何本も網の目のように作られていて複雑な形成です。ただ斜面に作られているにも関わらず霊仙地区特有のへばりつく様な集落形成ではなく、比較的平地を宅地化、もしくは地形利用して作られているのが特徴的です。

ところでこの桃原集落、他の近隣集落と少々違う観光資源を持ち合わせていた。先ほどの牛蒡畑は緩やかな斜面を利用していたのですが冬季の積雪の時期はスキー場(多賀スキー場)として活用していたのです。



注意点
ロールオーバーで画像を切り替えて下さい(PC閲覧時のみ)

右側が桃原集落、中央から左側にかけての牛蒡畑は緩やかな斜面となっており、冬季にはスキー場として多くの人が来訪したそう。

スキー場は1948年頃から冬季限定の地域商業施設として開業(正確には1933年に民間開業、その後行政管理に移行したようです)、これが大当たりして旺盛時に60軒を越えた落合集落に次ぐ人口、それに農業(牛蒡畑)、製炭、スキー場と行政側も無視出来ない発展を迎えます。

注意点
創立百周年記念誌「芹霊」には当時のスキー場が観光客で賑わっている写真も掲載されています、他にも学校のスキー授業などにも使用されたようです。また該当誌には桃原集落の方が運営されていた民宿の様子や木製スキーのレンタル業などについても記述があります。

それが1960年代に入ると地域は急激な近代化を迫られ、その波に飲まれていく集落が目立ち始めます。スキー場はインフラ整備で新たに敷かれたメインの車道から遠い為に敬遠され始め、通年を通した農業技術の発展で牛蒡の取引量も激減します。製炭も化石燃料に取って代わり、桃原の栄華も間もなくして終りました。

注意点
道路もそうですがスキー場も現在と大きく異なり、スキーを担いで滑降開始地点まで登り、スキーで降りてきたらまた徒歩で登るという俄かに信じられないスタイルだったそうです。牛蒡畑を活用してのスキー場だった為、リフトなどの設置はできなかったのでしょう。

近代化の波が見え隠れし始め、来場者が少なくなると共に積雪量も減少した煽りでスキー場は自然消滅。その後管理者のいなくなった牛蒡畑には植林されて現在の杉林ができたのでした。

行政記録では1963年に126人いた人口は1986には10人までに激減、一時期数人の移住者を迎えましたが2010年の調査時点で人口はとうとう1人に。

スゴログ 桃原集落 廃村

1975年には畑の管理が乱雑になっていることがこの航空写真からわかります、車道が開通した1960年代後半からトラックなどに家財道具を積み込んでの引越しが頻繁に行われたそうです。比例するように同地域の平地における人口は他の集落からの流入も相まって増大していきました。

スゴログ 桃原集落 廃村

1982年の同地域航空写真、行政記録によればこの時点で桃原集落の人口は10人少々。殆どの民家は空家となり、畑は荒れ放題。農業用の小道は消滅、更に山間部に通じていた集落間の産業道路も整備されなくなり自然へ還っていきました。

注意点
地図には表記されていない徒歩でのみ往来可能な山道が桃原から無数に延びていました、一説には同じピーク沿いに位置する向之倉集落と繋がっていたとも噂されていましたが2010年の調査時に発見することはできませんでした。今も獣道として残す薄い山道は製炭用の釜場への作業道路として利用されていたようです。


スゴログ 桃原集落 廃村

主要道路は近代化してから作られたものでそれ以前は県道17号線にあたる旧山道から歩道のみのアクセスでした、その頃に作られた家屋は総じてこのような姿になっています。

風化が激しい、もしくは倒壊家屋は主要道路から2本ほど内側に入った旧路地に隣接する立地が多く、桃原地区は上からではなく下から形成されたのではないかと想像出来ます。

そしてこのような旧家は牛蒡畑から近く、地場産業と共に発展したのだと思われます。


どの様に集落が形成されたか解っていない

近代史こそ右往左往する激動の集落でしたが発展そのものは実にゆっくりしたものでした、言い伝えの平家の没落武士が…という伝記を正史とするならその歴史は1185年以降の近しい辺代となります。しかしそれを証明する記述や書物が存在しない以上、行政記録を参考にするしかありません。

江戸時代には既に桃原集落として認知されていましたが正確な記録としては

1874年 滋賀県に編入し桃原村となる
1889年 町村再編に伴い芹谷村へ編入
1941年 多賀町に合併

となっています、現在の住所としては犬上郡多賀町桃原と表記されます。

このように近代化の波はインフラのみならず、集落のあり方にさえ影響を与えてきました。集落で唯一残る女性の年齢は2019年現在90歳を超えています、第一次世界大戦後のこの集落でどれだけの体験をしてどのような生活だったのか。

この桃原集落に残された最後の一人の存在は地域の産業史や民俗学、また歴史そのものを語る上で絶対に外すことはできません。

地域の活性化と文化保存の活動が近年本格化

30年途絶えたこの地の牛蒡栽培ですが先ほど記載した通り、現在は2015年より始まった有志を中心とした復活計画が進められています。

この計画で収穫された牛蒡は町内の小学校の給食や直売所で販売され、またその活動も多くのメディア(計画開始当事で中日新聞・しが彦根新聞・毎日新聞など)の眼に留まりました。この計画の中心人物は「伝統のあるゴボウは、桃原の歴史を知るきっかけにもなる。ゴボウを通じて桃原の魅力を伝えてにぎわいを生みだし、桃原が日本の桃源郷になってほしい」と語り、件の最後の住民である女性は

「こうして人が来てくれるのはにぎやかでええわな」

と笑顔で迎え入れているそうです。まだまだ語って頂けるこの桃原の歴史は存分にあると思われます、これからもこのような地域活動を通して貴重な地域史と共に最後となる住民の笑顔が絶えないように祈るばかりです。

スゴログ 桃原集落 廃村

最後にこの土地にまつわる言い伝えを幾つか(他サイトからの引用です)。

其の一「泣き地蔵」

昔、松兵衛さんという人が杉苗を植えこの木が立派に大木になったら自分は極楽浄土にいると思ってくれ。と家人に言っていた。そして傍にお地蔵さんを祀ったという。時が経って、立派な地蔵さんが1本杉の根元にあるのを隣村の二人の人が見つけて担いで帰ったところその夜、二人の夢枕にお地蔵さんが「早く桃原に帰りたい」といって泣かれたので元の場所に背負っていった。1本杉は大木になり、泣き地蔵様は今もそこにいらっしゃる。

其の二「金の鶏」

「朝日チラチラ夕日チラチラする所に埋めておくぞよ金の鶏を」という言い伝えがありその場所を示す書類もあったという しかし大火があり焼けてしまった。

其の参「火事と観音祀り」

昔、絶家になって放置されていた観音像を見つけた子供たちが、縄で括って引きずり回して遊んでいた。村人はすぐ止めさせたが、その日火事が起こり村の中心部を焼き尽くしてしまった。  宝物の在処を示す書類もこのとき焼けたという。村人は観音像を村の一番たかい場所に堂を建てて安置し、火事の起こった五月一二日に毎年火祭りを行っている。

其の四「室三郎」

昔、室三郎という剛の者がいたが、だまし討ちに会い生き埋めにされてしまった。そのあとに立派な蕨が生えるようになった。食べると腹痛や、高熱が出るというので村人は室三郎蕨を採らない。室三郎には姫があり父の仇を とろうとしたが殺されてしまった。その血潮の後には、毎年きれいな花が咲いたという。

其の五「大蛇」

桃原に「ジヤレ」という所がある。松の木が倒れているのだと思って、跨いだらそれは大蛇だったと何人もの村人が言う。そんな大きな蛇がいるわけない。と思うけれど、山へ行ったきり帰ってこない村人もいた。「ジャレ」は「蛇出」と書くのだろうか。

引用:桃原の伝説 - 滋賀県多賀町の山村「桃原」について、お話しましょう。

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参考・協力

彦根市役所
多賀町役場
多賀町立図書館
創立百周年記念誌「芹霊」
多賀道と御代参街道
産経新聞



レポートの場所



注意点

該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。

スゴログの装備とその使用方法など
https://www.sugolog.jp/p/blog-page.html



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