2019-10-08T10:22:21Z #030 霊仙 比婆神社

#030 霊仙 比婆神社

未だに幾つかの謎と、調査が終わっていない岩窟と。男鬼集落や高取山城(城男鬼城)との関係、創祀や御祭神の由来など兎にも角にも興味が尽きないこの神社。地域文化との繋がりも非常に強く、そして何故この地に祭られたのか。神社までの現在の参拝道と旧道の存在、明らかに創祀より古い時代の古道なども調査。「比婆」という名に隠されたこの地との関係を紐解いていきます。

スゴログ 比婆神社 男鬼集落

滋賀県│比婆神社

調査:2010年06月
再訪:2010年10月 / 2011年05月 / 2012年7月
公開:2010年12月07日
名称:正式名称→比婆神社
状態:定期的な補修施工などがされる完全管理物件

再エントリー間も無く神社史研究会の関係者より既述内容のご指摘を三点ほど頂きました、有難う御座いました。尚、レポート内容に大きな修正はございません。

旧サイトで複数回に分けて公開していたレポート内容を2012年現在の調査内容に統合して再エントリーしました。また古くなった情報などは精査して削除しております。



周辺地域全体を通して歴史、文化共に興味深い霊仙の地。今回レポートする比婆神社は先に取り上げた男鬼集落との関わりも深く調査はスムーズに進むと思いきや、比婆神社自体は比較新しく建立された為に歴史的な資料は少ないのです。

男鬼集落と高取山城(城男鬼城)などとの歴史的背景を考慮するならばずっと以前から山岳信仰の一環として何かしらの御神体が存在しても不思議ではありません、というのも。日本各地には鍾乳洞や岩窟などを御神体や信仰の対象とした事例が数多く存在します、山岳信仰が根付いた土地ならば尚更のこと。

神社などもこの様な「穴」付近に建立されることも他の神社で散見でき、実はとても古い歴史をもっている可能性を感じさせます。それではこの比婆神社がどの様な存在なのか、少しづつ解き進めて行くとしましょう。





比婆神社は男鬼集落より程近い、とても山深い場所に位置しています。しかも鳥居から更に山道を登り、山頂付近に到ってやっとその姿を確認できる参拝困難な稀有な神社といえます。

が、しかし。

秘境の神社、山の守り神、そう信仰深く呼ばれ参拝客も同地域においては実に多いこの神社、山道の整備は軽微ですが神社と付随建造物に関しては細かく定期的に補修がされています。スゴログでも数度来訪していますが基礎部分や階段など何度か補修されており、当初の古びた景観は若干薄まりつつあることを確認しています。

何より「比婆神社の穴」なる洞窟が調査途中であり、その全貌が今だに明かされていないなどの好奇心を掻き立てる存在なのです。


スゴログ 比婆神社 男鬼集落

滋賀県神社庁によれば、

御神体は伊邪那美大神、御由緒として「創祀は昭和二十三年十二月十一日であるが吾郷清彦著の「古代近江王朝の全貌」によると、由緒の概要は「古昔より比婆山(比婆之山)と称し、山頂に岩窟あり。比婆神社を造営するも、創立年は不詳。古来霊験あらたかにして、世に山神さんと称し、近郷をはじめ湖東、湖北、関ヶ原、さては全国津々浦々より参詣する者多し。かくも尊き古社であり宝暦(一七五一)以前の建立と伝ふ神殿ありしも、腐朽破損せしを以て、大正の末期崇敬者の寄進により、荘厳なる神明造りの現社殿を再建し奉り、以て現在に及ぶ」と記している。」とある。(滋賀県神社庁「比婆神社」より抜粋)

本殿は神明造・間口四尺・奥行三尺六寸と小さめ、祭礼は毎年5月と9月に行われています。

このように比婆神社は参拝困難な山深い秘境の神社と呼ばれてはいますが地元に愛され、また地質学や洞窟調査の関係者も訪れる割と知られた神社なのです。

また男鬼集落のレポート内でも記載しましたが近年になっての高取山城発見がトリガーになって周囲一帯が再調査の対象ともなっているようです。

注意点
比婆神社は元々険しい比婆之山への山道を有志の方達が別ルートで車で走れる車参道を切り開いてくれた事で参拝し易くなりました、人が徒歩で登る参道も在りますが現在は荒廃し、見付けるのも少々大変で実際人が歩ける状態でも在りません。アクセスはこの車参道のみ(男鬼集落方面からは)と成ります、山頂までは徒歩で急ぎで30分、ゆっくりで50分位掛かり、車では10分も走りません。

スゴログ 比婆神社 男鬼集落

入口から参道(車道)が整備されており、神社へ到ります。当初は左側に登山道入口があり、その道を参道として利用していました(上の写真)。更には男鬼集落から神社に到る古道も存在し、途中で高取山城への道と分岐していたようですが現在では藪に飲み込まれ自然に還ったようです。

スゴログ 比婆神社 男鬼集落

実はこの古道を探す為に神社側、集落側それぞれからアプローチしたのですがその存在を確認することは叶わず。男鬼集落の元住人に聞いた話なので確かな情報ではありますがやや時間が経過し過ぎたようです、机上調査での話ですがどうやら1950年代には既に獣道の様な状態だったようですね。




この辺りから山に入れたそうです、確かに道はあるのですが日枝神社の裏手へ向う道筋しか解らず。怪しい踏み跡は幾つかありますが直ぐに消えてしまいました。

古道は残念ながら発見できませんでしたが旧参道(登山道)は実は歩くことができます、詳細は省きますがそれなりの覚悟がいる険しい道です。麓の第一鳥居を潜って直ぐに右手の沢を渡り、薄く残った登山道を登るのですがこれが予想以上に痺れる過酷な道中となります。

スゴログ 比婆神社 男鬼集落

「比婆大神」と書かれた鳥居、柱には「昭和十四年」と記されている。いや、滋賀県神社庁の情報によれば創祀は「昭和二十三年十二月十一日」とされていたはず。確か続く説明に「古昔より比婆山(比婆之山)と称し、山頂に岩窟あり。比婆神社を造営するも、創立年は不詳。」ともある、つまり現在の比婆神社が本来の神社の姿ではない…ということなのでしょうか。

こちらは後ほど調査結果と共に記載すると致しましょう。


因みにですが参拝困難な比婆神社、鳥居に直ぐ傍には「遥拝所」が設けられています。遥拝とは遠く離れた所から神仏などをはるかに拝むこと指しますがこの存在が旧参道や古道との関係性を体言しているのかもしれません。つまりは古い時代から山頂に「信仰の対象」が存在した証拠となるのです、…と思いきや。

この遥拝所という存在、実は参拝困難な神社でなくても全国に散見しています。一体何故でしょう、中には神社から程近い場所に設けられている例もあります。

その理由には第一次近衛内閣が1937年に行った政策「国民精神総動員運動」がありました。

国民精神総動員 - ウィキペディア
http://archive.is/tmSE3

ウィキペディアによれば「日中戦争(支那事変)に関連し、第一次近衛内閣が推進して行った運動。目的は「八紘一宇」「挙国一致」「堅忍持久」の三つのスローガンを掲げ、国民全員を戦争遂行に協力させようとしたものである。」とあります。当時の国民を「総戦争体勢意識」と認識させて精神論で戦争に自発的に賛同させる政策でした、この精神論と神事を仕る神社の存在を連結させ、より簡易に既存の信仰心と刷り代える身近な対象として遥拝所が多く建造されたそうです。

ただ比婆神社に限って言えば本来の遥拝所としての機能の方が優先されていたと願いたい、確かに当時の軍国主義は山村などにも波及してはいましたが余りにもこの場所との整合性がとれない。スゴログとしての結論は参拝が困難なための遥拝所としておきましょう。

余談ですがこの比婆神社には鳥居が3箇所あり、麓の第一鳥居、山頂の第二鳥居、その他に古道にも設置されていたと記録にありますが現在その鳥居が何処にあるのかは不明です。

スゴログ 比婆神社 男鬼集落

比婆神社の参拝を困難たらしめる要因、それは既にご理解頂いたように山頂に到るまでの参道です。古道に関しては高取山城の築城が1532年~1553年頃と室町時代であることを考慮すれば相当古い道だったと推測されます、この道に関しては歴史と自然に飲み込まれてしまったので仕方ありませんが旧道となる元参道に関しては多少ではありますが記録を追うことが可能でした。

そもそもこの比婆神社はいつ建立されたのか、そこから参道の造成について語らなければなりません。

滋賀県神社庁の紹介文に「かくも尊き古社であり宝暦(一七五一)以前の建立と伝ふ神殿ありしも、腐朽破損せしを以て、大正の末期崇敬者の寄進により、荘厳なる神明造りの現社殿を再建し奉り、以て現在に及ぶ」とあるように比婆神社の存在は1751年には伝記に記されています。

また複数の関連資料(正確性の低い物語寄りの伝記など)によると比婆神社の山岳信仰と共に神社以前に神社と類似する形態の建造物が600年代には存在していたもあります、これは社殿などではなく石碑などの可能性もあります。山岳信仰において極々初期の御神体に自然物(石・岩・樹木・岩窟)などを崇める傾向があり、神道黎明期の名残ともいわれています。

何処までを近代史とするか、また整合性の取れる資料から歴史を辿れるのかを基とするならば1751年以前ではあるがその時代に前後する時期に神社としての「体」を成しえたと解釈するのが妥当でしょう。この一帯は古くから山岳産業として林業が盛んだったこともあり、1700年代には既に産業道路が開通していたとしても不思議ではありません。

すると当初は道祖神的な役割から山岳信仰の御神体として比婆山(比婆之山)全体が対象となり、より住民との密接性が顕著になって神社として機能し始めたとするなら一般的な神社形成の歴史とも符合します。

産業道路、参道用途どちらが先かは解りませんが旧参道はこれらの一環として整備されたと思われます。予想の範疇ではありますがこの旧参道はその当時(1700年代)に整備されたのではないでしょうか。現在この比婆神社は高取山城と共に詳細な調査が進められている最中であり、今後新たな歴史が紐解かれる時がくるやもしれません。

比婆神社建立時期を予想するならば「件の築城以前より山岳信仰の御神体を祭る場所として山頂が選ばれた、付近では二番目の標高だが山頂に洞窟(これが後々重要な意味を為していたことだと判明します)があることで神社建立地として選ばれた」するのが自然です。

築城後は世相と文化背景を考慮し、1700年代に社殿が造られのでしょう。付近の地図に等高線を宛がうと成程、この場所に神社があるのは標高と洞窟の二枚看板だった為と解るでしょう。

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2010年に来訪した時に気付きましたが所々に補修後が見受けられます、道中それがとても気になったのですがどうやら2007年の大雪の影響だそう。豪雪地域ではありますがその予想を遥かに超える降雪量だったようで崖沿いの参道は何箇所か崩落、地元の有志によって2011年までに凡その復旧が行われたとのこと。参道、門、本堂と軒並み手入れをされましたが実は大きな事件が発生していました。

注意点
写真は山頂から鳥居の先、立派な門構えです。祭事以外では閉鎖されていますが登山客用に左脇が開放されており、一般参拝客はこの隙間から本殿に向います。

スゴログ 比婆神社 男鬼集落

奥に進むと立派な磐座が背面に聳える荘厳な雰囲気な本殿が姿を見せます、この磐座には御神体の「伊邪那美命」が眠っているとされています。この伊邪那美命は天照大神を生み出した(神父)伊邪那岐命の妻として神説で語られる良く知られた神様です、この眠るという表現ですが何とも判断の分かれる言葉でもあります。

注意点
2010年の来訪当時の姿、この時はまだ旧町史や市史資料(彦根市市役所・所蔵)などに保管されている資料写真と同様の姿です。

伊邪那美命は黄泉の国の存在(黄泉の主宰神)とされ、この眠るとは「死」を比喩しているとも捉えられます。また本来伊邪那美命は伝説上亡くなった後にヒバゴンで有名な広島県と鳥取県の県境に位置する比婆山に葬られたとされています(古事記に既述あり)。同じ「比婆」の名を冠し、同じ神が眠る地としている双方の山。昔から重要な関係性が指摘されており、この「葬る=眠る」が更に密接な何かを感じさせます。

イザナミ - ウィキペディア
http://archive.fo/93L5A

スゴログ 比婆神社 男鬼集落

夫であった伊邪那岐神を祀る多賀神社が近いというのも中々にして興味深い、更にこの本殿の眼下には「比婆神社の穴」があることで「この穴が黄泉の国と通じている」と噂されたのも頷ける話ではあります。

そしてこの「穴」こそ北側の一番高い標高の山ではなく、こちらの二番目の標高の山に神社を置いた理由なのです。石や樹木でなく、黄泉に通じる「穴」という存在が信仰の対象として違和感なく浸透した何よりの理由といえるでしょう。つまり、祭られる神様が伊邪那美命でなければ既述の北側の付近で一番高い山だった可能性もあるのです。

もしそうであるならば古事記で語られる神話・神説の舞台がこの霊山の地であったかもしれないのです、なんとロマン溢れる話でしょう。

スゴログ 比婆神社 男鬼集落

これは2011年に再び本堂が崩落してしまった時の写真です、氏子さん達によって応急処置はされていますが時期は4月。この地域から雪が無くなるのが5月後半ですから本格的な修理作業は6月に入ってからとなるでしょう、男鬼集落から日陰となる道路は漏れなく凍結しているか残雪が酷い状況なのです。

それにしても何故このような状況に、これも大雪の影響だったのでしょうか。

スゴログ 比婆神社 男鬼集落

数ヵ月後、その姿は一変していました。更に1ヶ月後、殆どの修復は完了します。

スゴログ 比婆神社 男鬼集落

瑞垣(玉垣)の土台が綺麗に補修され、瑞垣は撤去されていました。これには信じられない事件が発生していたのです、なんと罰当たりなことか「瑞垣の屋根部分の銅板を破壊して盗んでいった者がいた」というのです。参拝客が少ない冬季に態々ここまでやって来た上での犯行だそうで、その後捜査は続けれれているようですが防犯カメラ等もない山奥ですので犯人特定には到らないだろうとのことでした(聞取り調査から)。

全国的にもこのような神社仏閣に関係する窃盗は近年増えているそうです、またご神木などに枯葉剤を塗布して枯れさせるような事案も報告されています。

注意点
2013年頃の確認ですがこの時期までに瑞垣が完全修復されました、以前の様に本殿との苔むすコントラストは期待できませんが目新しいこの瑞垣も今後歴史を刻んでいくものと思われます。

スゴログ 比婆神社 男鬼集落

旧参拝道を想起させる旧道の名残、写真の通り直ぐにその道筋は消えてなくなります。

それではもう少し山頂付近の状況を記載したいと思います、先にもありました「比婆神社の穴」ですが比婆之山山頂付近には地下に複数の洞窟が大規模に存在しているらしく、現在においてもまだ調査されていない天然の未踏洞窟地帯といわれています。

恐らくですが複雑なケイブシステムが形成されており、ディギングによって総延長が変動するような地下洞の存在が囁かれています。しかし現在の御神体が「岩」とはいえ元々は現地山岳信仰の正に真下ですから地元感情も考慮して今まで本格的な調査は行われていません、国内にはまだまだ未踏の洞窟や鍾乳洞が多いですがその理由は危険(地形的な問題や地質的な強度、また有毒ガスによる危険回避の為)が大部分を占めています。しかしこの比婆神社の穴は、信仰的な存在を蔑ろにする恐れを懸念して調査目的での探索調査を行っていない珍しい物件なのです。


スゴログ 比婆神社 男鬼集落

下山してきました。

道路沿いに湧き水筋(地域柄で言えば硬水)が幾つか見て取れますが中でも竹割の湧水渡しを設けられた湧水量の多い場所がありました、聞き取りによれば飲めるようです。また付近には清流にしか生息出来ない山菜として有名なワサビも群生しています、本当に自然が豊かな場所なのです。

彦根市史によれば「山の神」、「山ノ神」は彦根で6ヶ所。男鬼集落には小字名「山ノ神」があります。中世中期(室町時代)より古文書でその名は既に見て取れるので相当古い時期から山岳信仰が存在したのだと予測されているそう、1976年発刊の新註「近江輿地志略」の巻77坂田郡男鬼村の項でも滋賀県神社庁同様に1948に比婆神社が建立されたとあります。

その他の更に古い資料では1751年以前には在ったとされ、その起源は600年代まで遡るのではないか…スゴログでは今のところそのように結論付けています。幾度となく記載しましたが発見された城址の影響で再び調査に熱を帯びているこの地域、今後新しい展開や情報がありましたら追記してまいります。

それにしてもまだ「アレ」に触れていないことに気付いておられる方もいると思います、そうです。この比婆神社に到着したら最初に目にする石碑です。

スゴログ 比婆神社 男鬼集落

追跡記録

2019年10月

慰霊碑、白宮霊神、竜己霊神と三つの石碑が並べれれています。これらについて現地では全く気にしておらず、帰宅後の机上調査で何とかなるだろうと思っていたのですが。ところがネット上にも書籍関連においてもこの石碑に関する情報は全くありません、本当に皆無でした。

そこで改めて彦根市に協力を要請、資料を送って頂きました。

彦根市文化財課歴史民俗資料室より詳しい回答を頂戴したのでその内容を掻い摘んで説明したいと思います、どうやら彦根市自体も調査は2005年と最近でありました。

スゴログ 比婆神社 男鬼集落

比婆神社入口の三つの石碑については彦根市が市内の石造物調査を2005年に行った際の記録が残っていたそうで、石碑裏側の碑文についても調査されたそうですが結局はそれ以上のことは判明しなかったようです。

○ 右側:慰霊碑

大きさは高さ約150㎝、幅約180㎝、厚さ約85㎝。表面には大きく「比婆神山開山先覚者」・「慰霊碑」と刻まれています、裏面には複数の記名と「昭和51年建立」・「比婆大神敬神会一同」とあります。

先覚者とは「人々より先に物事の道理や時代の流れの変化を見抜き、事を行った人」、所謂くさわけと表現されます。裏面の記名を鑑みるに開山に尽力した方達の慰霊碑だと判断できるでしょう。

また、組織名がありましたので一応調べてみました。民間の組織なのか宗教法人名簿には「比婆大神敬神会」の記載は無く、氏子か有志団体なのかも解りませんでした。

○ 中央:白宮霊神

大きさは高さ約220㎝、幅約150㎝、高さ約115㎝。表面には大きく「白宮霊神」と刻まれています、裏面には「開山 木下利三郎 先生」・「昭和49年甲寅11月錦秋建立」・「比婆信者一同」とあります。

この地域を対象として発刊された「ふるさと鳥居本」によれば、

注意点
木下利三郎氏は、武奈(男鬼の隣村)の分教場に勤務し、比婆神社の崇厳さやご利益の多いことの周知活動に尽力した人物

として冊子内で紹介されています。

また刻まれた言葉で一般的には聞き慣れない「甲寅」、これは60ある干支の組み合わせの51番目の意。西暦年を60で割って54が余る年が甲寅の年となります、昭和49年は西暦1974年なので記載内容と符合していることがわかります。

「白宮霊神」に関しては資料にも記載がなく、スゴログでも再調査しましたがわかりませんでした。

昔より「白」は穢れの無いことを示し、「宮」は位の高い人物が住む建物を表していました。この組み合わせがヒントになりそうです。因みにですが日本には「白宮」姓は10人ほどしかいない非常に珍しい苗字です、消滅危惧姓でその全てが宮崎県在住。

この地に白宮姓が栄えたことはないので表現として「白」と「宮」を組み合わせて神格化したのかもしれません。

○ 左側:竜己霊神

大きさは高さ約220㎝、幅約140㎝、厚さ約90㎝。表面には大きく「竜己霊神」と刻まれています、竜己(たつき/りゅうき)は巨大な蛇の形をした想像上の動物。大きい、恵み、慈しみ、穏やかといった意味も内包します。実は名前としても使われることがあります、比婆神社に関しては蛇の神様が祀られているのでしょうか。

裏面には「下村うたの先生」・「昭和49年甲寅11月錦秋建立」・「比婆信者一同」とあります、下村うたのという人物に関しても再調査しましたが詳細は解らずでした。

比婆神社に来ると必ず目にするこの三つの石碑、それぞれに謎は残りますが現在の調査で解る範囲を記載しました。



それでは最後にこの比婆神社を擁する比婆之山、また他の地の「比婆」の由来を少しだけ紐解いてみましょう。

比婆、この文字列はどうやら当て字のようで特に大きな意味は無いようです。発音による起源を辿るとアイヌ語に行き当たりました、「pipa(ピパ/ピッパ/ビバ)」はアイヌ語で「カラス貝」を表す言葉ですがこのカラス貝も一筋縄でいきません。

カラス貝は日本全国の沼や湖などに自生する淡水二枚貝でイシガイ科の一種です、しかし海釣りなどの餌で使用される「ムラサキイガイ」も通称としてカラス貝と呼ばれています。アイヌの食性に詳しくはありませんが簡単な資料を読む限り淡水魚も海水魚も食したようです、それらを含めアイヌ語の発祥時期を考慮すると通称が生まれる遥か以前の本来の呼称名である「カラス貝」であったのでしょう。

カラス貝は海水棲ではないので貝塚など元々海底が隆起した地域が名称の由来では無いはずです、更に調べてみるとこのカラス貝は霞ヶ浦や琵琶湖周辺地域では昔から食用とされていたので琵琶湖から程近いこの地域ならば「ヒバ」発祥を追う手掛かりになりそう。

しかし一般的に「比婆」の名称は比婆山に代表されるように広島県、鳥取県、島根県とその殆どがこの地より西側に多い名称です。これらの地においてのカラス貝の消費量は霞ヶ浦や琵琶湖と比べるべくもありません、そもそも本当にアイヌ語と関連性があるのでしょうか。

アイヌの人々は縄文時代末期までは本州全域で暮らしていました、大和朝廷が力を発揮し始めた200年代後半から400年代に掛けてになりますが北へ北へを追いやられます。よって創建地であった奈良・近畿地方においてはアイヌの面影は色薄く、現在では殆どその痕跡を見ることは叶いません。

ですがこの琵琶湖周辺にもアイヌの人々が暮らしていたことは確かです、それが「言語として成立するほど熟成したコミュニケーション能力を進化させた時期まで居住まうことができたならば」ですが。

事実、国内の言語学者や地名研究家の中にも「比婆=pipa」説を支持する方も多いそうで「pipa=カラス貝」なのであれば何かしらのアイヌの痕跡として地名になったと考えられます。名称の発祥由来が「発音」に起因する例は全国に多く見られ、その意味は「展望」・「警告」・「地形を表現」など多岐に渡ります。アイヌに限らず地域限定(方言的な言語文化)の発音、または既に失われてしまった地形や表現とするならばこれ以上「ヒバ」の真髄に近づくことは難しく、またなぜ「比婆」という当て字が為されたのかという疑問も忘れてはならないヒントなのでしょう。

現在「ヒバ」と発音する名称(特に当て字が比婆)は北海道を中心に30箇所弱存在します、北海道・東北地方に限って言えば(ヒバ=pipa)の関連性が地理的に立証(貝塚などが付近に残る)されており、関東以南に関してはその限りではありません。何故北の地から遠くはなれた西南の地に「比婆」が点在するのか、根幹部分を含め今後の地域名称研究の成果が待たれます。

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参考・協力

彦根市役所
彦根市教育委員会
彦根市文化財課
多賀町役場
多賀町立図書館
多賀大社
一般社団法人多賀観光協会
近江輿地志略
ふるさと鳥居本

レポートの場所



注意点

該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。

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